街道を逝く 宗主国さまのみち



ウリミンジョク

 古来、ウリナラは中華文明をおもんじてきた。
 それも、ウリミンジョクがすぐれた文明をもっていたにもかかわらず、半万年も前から礼をつくしてつきあってきたといっていい。
 たしかに中華の文明はきらびやかであった。とはいえ、なまの支那人というものは聖人君子ではなかった。その多くはえげつないばかりにあぶらぎっており、君子というよりむしろ盗賊にちかいものであった。
 聖人たちの多くもけっして円満でもの静かな者ではなかった。書物などを通して遠くからながめているだけならともかく、もし親戚か友達にいたならへきえきするほどに強烈な個性のもちぬしが多かった。
 極端なことを言えば、生をおえて幾世紀もたってふるびた書物のなかの存在になって、ようやくそのなま臭さが抜けさってわれわれの鑑賞にたえるものになるのかもしれない。

 今回私がおとずれるのはそういった多くの聖人君子や皇帝たちがいた中原の代表である河南省である。それも河南省の中心といっていい開封である。
「開封」
 といえば、たれもが宋をおもいうかべる。人によっては水滸伝をおもいだすであろう。
 しかし、
「大梁」
 といえば、多くのウリミンジョクは首をかしげるにちがいない。じつは開封と大梁はおなじ都市なのである。もっとも、ウリミンジョクとのかかわりでいえば開封より大梁のほうがはるかに縁が深い。
 戦国時代の魏はこの大梁をみやことし、国号の別名を梁ともいった。戦国四君子の一人である魏の信陵君もここにいた。
 信陵君といえば、義にあつく客をよく遇し数奇な運命をたどったことで知られている。つまりは聖人君子の列に入る者でもあったといっていい。他の三人も多かれ少なかれ義気をふくみ客をたっとんでいた。
 四君子が活躍した当時はすでに秦による併呑がはじまっていた。かれらはそれを阻止しようとしたがけっきょくは抗することができなかった。紀元前二百二十一年、始皇帝は支那大陸に初の統一国家を樹立した。
 だが、これら戦国諸国の興亡は、統一国家の樹立ではなく同一民族間の内輪あらそいであったという。ここでいう同一民族はむろん朝鮮民族である。

 たとえば、魏はほんらい韓や趙とおなじく晋の貴族であった。その祖は荀氏であるという。檀君大の于錫起ウ・ソッキ名誉教授によれば、氏を「高い」という意味のある魏にあらためたのは高句麗と関係があったせいであるという。
 また、かつて羊月城氏がたんねんに考証したように、周、斉は朝鮮民族である姜族の関係する国であり、しぜん、周王室のわかれであるとされる晋や魯もそうである。楚、呉、越はおなじく朝鮮民族の一派である南人によって建国されている。韓は名前からして朝鮮民族そのものであり、燕も高句麗の分枝がたてた属国であった。秦は同様な卵生説話をもつ高句麗とおなじであり、とうぜんそのわかれである趙も朝鮮民族である。
 だが、みな朝鮮民族であるとはいうものの、秦だけはかなり毛色がちがうようでもある。
「どうしてですか。法治主義ならウリミンジョクの得意なものじゃないですか」
 チャングムは不満そうにいった。
 たしかに、ウリミンジョクは法治の精神をよく理解している。正義を追及するためなら遡及法をも辞さないという潔癖さや、強者たちのつごうによってほしいままにされる国際法を「狼の法」と喝破する明快さ、そのような国際法を遵守する必要はないと断言した大統領の果断などが好例であろう。その点では秦の法家統治とよく似ているといえる。

 しかし、私が問題にしたいのはそれではなく、秦が中国統一のためにとった方策である。

 秦はよく知られているように「遠交近攻」の策をもって各個撃破をもくろんだ。まず遠くの国と連合して近くの国を攻め、着実に領土を増やすというのである。だが諸国もそう簡単にはのってこない。
 しかし、秦には奥の手があった。
 賄賂、である。

 秦は外交提案を受け入れるよう、各国の王の側近に巨利をくらわせてひそかに工作した。買収されたかれらは秦の提案に反対する有力者を讒言してしりぞけ、ときには秦にとって脅威となる武将を誅殺させたりもした。楚の屈原、趙の廉頗や李牧はその被害にあったひとびとの代表である。
 このため秦の外交戦略はやすやすとまかりとおり、諸国はまるで子供があやされるかのようにそれにのり続けた。
 なかでも韓は秦に隣接していたこともあってその圧迫をじかにうけた。宰相の張開地という人物は三代の王につかえたが、辛労のあまり寿命をちぢめついには朽ちるようにしてたおれた。この人物の孫が漢の張良である。

 このように秦の方策は賄賂が柱となっている。これほどウリミンジョクの不得意なものはない。賄賂やロビー工作のように金銭にものをいわせる手は、むしろ日本人どもにふさわしいのではないか。「韓」にたいする憎悪にも似た圧迫もそうであろう。
「ってことは、秦はウェノムなんですか」
 チャングムはあっけにとられている。まさか秦がそのまま日本人の祖先ということではないであろうが、後年、日本にわたって文化を伝えてやった多くのウリミンジョクのなかに、秦始皇帝の子孫と称するはた氏がおり、長年陰の実力者として大和朝廷に影響力をもっていたことをおもうと、秦の朝鮮民族らしからぬきたなさはみごとなまでに大和民族に受けつがれているということはいえるだろう。

 ともかくも、私は、魏、後梁、後晋、後漢、後周、宋、金の首都であった開封にいこうとしている。


オリンピック

 まず私たちは北京にゆき、そこで飛行機を乗りかえて鄭州に入るという。
「北京からは中国の国内線なので機体がよくゆれますよ」
 朴やんはそういってわらった。今回も同行してもらえることになったのである。かれの会社はここのところいそがしいという。
「北のミサイル発射や風営法の改正やらで、かくまうような同胞がふえているんですよ」
 どうやら、日本の酷薄きわまりない悪法にからめとられている在日同胞や日本入国・滞在者たちを救いかばうのがおもな仕事であるようだが、差別と圧迫はきびしくなってきたらしい。
「チマチョゴリの切裂きなど、差別とテロが横行しているときいたんですが」
 チャングムが不安そうにいった。ほかにも、火炎瓶の放置、嫌がらせ電話という事例があるようでもある。
 そのなかでもチマチョゴリの斬り裂きはもっとも悪質であろう。無抵抗の女学生に変態的猟奇的なふるまいをおこなうというのは、大和民族の陰湿さをものがたっている。しかもこれらの犯人を警察が捕まえたことはない。社会の右傾化が激しくなっているせいではなく、以前から日本の警察が在日同胞にむける視線が冷たいせいであろう。
「切裂きについてはうちではなく、すべて総聯にいっているんでよくわからないんですよ」
 朴やんが複雑なわらいをうかべたようにもおもえた。チマチョゴリの切裂きについては、被害報告や申告がすべて朝鮮総聯に出されているのでよくつかめていないらしい。

 そうこうしているうちに北京に着いた。
「なんてほこりっぽいの」
 有名な黄沙のせいもあってふだんから北京は埃がおおい。首都ということもあってきれいにとりつくろおうとしているようだが、なかなかうまくいかないようである。
「オリンピックもあることですし、がんばっているようですがね」
 朴やんがやさしく弁護した。チャングムは、こんなところは肌にわるいなどとまだつぶやいている。
 それにしてもオリンピックが中国でおこなわれるということには、あらためておどろきを感じざるをえない。オリンピックというものはりっぱな先進国だけがおこなえるものだという先入観が私のあたまにあるせいである。この埃にまみれた首都ひとつをとっても、中国が先進国といえるのだろうか。

 先進国に必要なものは、なにか。
 ひとつは経済的発展であろう。産業がさかんになり国民所得が一定の水準をこえればよい。
 しかしそれにもまして大切なのはひとびとの意識や程度というものではないか。精神面の発展がともなわない物質面の発展は、荒涼たる精神世界をひらくだけであろう。


民度

 民族の精神面、つまりは民度においてウリナラは半万年前から先進国であったといっていい。さらに野蛮な民族どもに囲まれながらもその民度の高さをたもち続けたことは、世界史の一大奇観であろう。
 その点、中国はさきに述べたように、文明こそきらびやかであるもののひとびとの実態は醜悪ですらあった。自分の利益のためには他者をかえりみず、公共という概念すら欠如している。

 がんらい、
おおやけ
 という字は、収穫物のうちじぶんの取り分を囲いこむ手のかたちである「ム――わたくしの「ム」である――」とそれをおしとどめようとする手のかたちである「ハ」からなっている。つまりは、公は私と明確に対立する概念であった。私をもっぱらになすことは公にそむく行為なのである。
 公といえば、中国の皇帝たちもまた私であった。民から取りたてた租税の多くはその奢侈についやされ、官吏たちも朋党をくみひたすら私の利益をはかった。民にとってはまことに生きにくい世界であった。

 それに比べてウリナラの為政者たちのつつましさはどうであろう。民の生活を案じて租税を軽減するあまり国家歳入はとぼしく、そのため宮廷料理すら存在しなかった。乾隆帝や西太后などの美食ぶりとくらべるとまるで別世界のようである。
 また、歳入が乏しいため官職を売るということをおこなった。民に負担をかけない賢明な方法である。
 朝鮮末期には、某道の観察使なら二十万両などといったようにある程度の相場はきまっていたようであるが、高宗はこれを入札制にし、落札できなかった参加者の出した金をも没収するという手を考えだした。
「板東さんと誠君、ボッシュート!ちゃらっちゃらっちゃー、ですね」
 チャングムが楽しそうにいった。高宗と閔妃はこの入札でえた大金をすべて巫祝者のおこなう祈祷にとうじた。病弱な世子の健康をいのるためであった。王家が安泰であってはじめて国の安寧がたもたれる。親子の情だけでなく国をおもう心からもでた行動であったといえる。

 はなしがかなりそれたが、ともかく、オリンピックという文化的なものは中国にはにつかわしくない。それでも北京で開催すると決定されたのは、中国の伝統文化でもある賄賂の力であったのだろう。四三二一年のソウル大会というかがやかしい歴史をもつオリンピックに対して泥を塗ったことはうたがえない。

 ようやく乗りかえの手続きがおわり、鄭州ゆきの飛行機に乗った。
 双発の小さな飛行機であり、朴やんのいっていたようにたしかにゆれる。
「広いですねぇ。ここがぜんぶ古代のウリミンジョクのものだったんですか」
 チャングムは機体の下にひろがる大地をみていった。そういえば蚩尤と黄帝が激突した涿 鹿タクロクはこのあたりであった。

 蚩尤は鉄身の神であり、その七十二人の弟たちもまた銅などの金属の体であったというから製鉄をつかさどる集団の象徴であったにちがいない。またその神話の分布によれば中国の東部に居住していたという。古代の東アジア世界において冶金という高度な技術をもっていたのは朝鮮民族に限られるから、蚩尤を祀る集団はウリミンジョクとみてよい。
「でもウリミンジョクが負けるなんて信じられない」
 たしかに蚩尤は激戦のすえ黄帝にやぶれた。しかし、チャングムのいうようにウリミンジョクが負けるということはありえない。つまり蚩尤に勝った黄帝もまたウリミンジョクであったということである。
 この戦いで黄帝軍は、蚩尤配下の雨師、風伯のおこした風雨――霧であるともいう――によってしばしば視界を奪われたのだが、
「指南車」
 のおかげで進路をまちがえることはなかった。これは方位磁針ではなく歯車のからくりによって、車の上に乗った人形がつねに南の方角を指すものであったという。このような創意工夫と発明はウリミンジョクの得意とするものであり、黄帝がなにものであるかを暗示するものであろう。

 一時間半近くかかって鄭州空港についた。
 空港には開封大学の事務員である許厳氏が迎えにきていた。ここからはバスでゆくという。
 中国のみちはウリナラと同じで右側通行であるはずなのに、なぜか私たちののったバスは、中央線を越えてほとんど左側をはしっており、ときに右側車線にもどる。
 このあたりにはバイクの後ろにリヤカーをつないだ車が多く、ゆっくりみちを走っているそれらを追い抜くために左側車線をとっているのである。もちろん対向車線からも車はやって来る。だがうまく道を避けあいなんの支障もない。
「なんて危ないの」
 チャングムの声はうわずっている。交通マナーのよい韓国人には刺戟が強すぎるのであろう。かろうじて信号こそ守っているもののじつにあぶなっかしい。

 みちの両側には樹木が植えられている。それも一定間隔をたもって一重ではなく何重にもみちを囲んでいるから、計画的に植えられたものであろう。看板表示にも緑化モデル地区であるというような表記があった。
 だが、古来、このくにに樹を植えるという発想はなかった。現代になって緑化という概念ができた。それまでは、木とはただ切ってつかうだけのものであった。

 清代末の話であるという。宣教師が教会のそばに木の苗を植えたところ、住民たちはそれをてつだってくれた。その後宣教師は転任となってその地を去ったが、のちにおとずれたところ、成長していたはずの木はあとかたもなくなっていた。
 住民たちがすべて切って薪などにしていたのである。宣教師にとっては植樹とは心をゆたかにするために緑をふやすことであったのだが、住民にとっては大汗かいて生活物資を用意してくれたにすぎなかった。であるからこそ喜んで植樹をてつだったのである。
「しかし、またなぜ緑化にめざめたのでしょうか」
 朴やんの疑問ももっともである。

 四千年ものあいだ緑化という概念のなかった民族が急にめざめるものだろうか。しかしこたえは簡単である。みずから考えることがなかった以上、他者をまねたのである。
「ウリナラのパクリなの!?」
 チャングムがさけんだ。事実そうである。
 ウリナラでは朴正煕のときに緑化運動がはじまり、植樹記念日は休日とされ、多くの木が植えられ今にいたる。

 じつを言えば、半万年のむかしから韓半島は風光明媚で知られており緑もゆたかであった。ところが日帝が強制占領してから景色は一変した。
 資源にとぼしい日帝はウリナラの木をすべて伐採し、日本国内にもち返って炭鉱の坑道をつくったのである。その炭鉱ではたらくのは強制徴用されたウリミンジョクであった。人も木もみな日帝の奴隷とされたのである。
 ともかくも、日帝によって緑あふれる韓半島は荒涼たるはげ山にされた。

 何十台もの二トントラックがみちの両側にとまっている光景を目にした。どうやら市場があり、農産物を持ちよって売っているらしい。
「にんにくですね」
 朴やんがめざとく見つけていった。二トントラックには網に詰められたにんにくが山のように積まれている。
 にんにくといえばウリナラを代表する食材であるが、最近では中国産が多く輸入されているときく。
「ウリナラのために奉仕してくれているのね」
 チャングムのいうほど事態は能天気なものでもない。韓国は安い中国産にんにくに対してセーフガードを発動したことがある。このとき中国は報復措置として、韓国製の携帯電話とポリエチレンの輸入を停止した。
 食べものも政治に利用するというあたり、かれらのえげつなさがよくわかる話である。


河南

 地道を四十分ほど走ると、右手になにやら看板がみえた。
「官渡古戦場入口、ですね」
 あいかわらず朴やんは目がいい。

 後漢のすえ、天下は乱れ群雄が中原の鹿を追ってあらそった。『三国演義』の時代であるのだが、その前半の転換点のひとつが、河南の曹操と河北の袁紹がたたかった
「官渡の戦い」
 であった。
 袁紹軍は七十万であるのに対して曹操軍は七万でしかなかった(兵数については諸説あるがここではおく)。結局は曹操がみずから寡兵をひきいて袁紹の兵糧集積所であった烏巣を焼いて大勝するのだが、それに先だって袁紹麾下の猛将である文醜を斬ったのがこのあたりであった。
 曹操は乱世の奸雄とよばれその譎詐奸謀はつとに知られていた。この戦いでも文醜軍の接近に驚きあわてて逃げたふうをよそおい、武具や馬などを捨てて退却した。文醜軍の兵士はそれらを拾おうとして隊伍がみだれた。
 そこに曹操軍の伏兵が一斉に襲いかかった。兵の統率が取れないまま文醜軍は四散し、乱戦のなかで文醜は戦死した。『三国演義』では、やはり袁紹麾下の猛将で義兄の顔良とおなじように関羽に斬られたことになっているが、事実はちがう。なにごとにも誇張とうそを塗りこめたがる中国人らしい脚色であろう。

 シナ大陸の中心部分を中原というが、このあたりはそのなかでももっともはやくひらけ、政治的にも文化的にももまれ続けていたため、しぜん人間の質もすれているという。
「河南人は悪人が多いといわれます」
 許氏が苦笑した。かれは開封に生まれそだったきっすいの河南人であるのだが、他の省では河南人がこすい商売や詐欺などをよくはたらくためそういわれるらしい。曹操も河南人の特徴を体現したような悪い意味で頭のきれる人物であったのだろう。

 このように詐略にみちた曹操のたてた魏がどのようなものであったかは想像にあまりある。先にのべたように魏とはウリミンジョクのたてた国であるのだが、それにあやかって国名をつけたことはウリナラを宗主国としてあがめたことであり、かれの自尊心のなさと卑屈さとをものがたるものであった。つまりは事大根性であろう。
 そのくせ、魏は文化宗主国である韓半島を侵略しようとした。忘恩不義を地でゆくものであったとしかいえない。魏の将軍である毌 丘倹は高句麗を侵略し、司馬懿はウリミンジョクの友邦であった遼東の公孫淵をほろぼした。

 しかし、忘恩不義をいうならもっとひどい者もいたという。主人である公孫淵の危機に対してたすけようとしなかったやからがいるのである。
 その名を卑弥呼という。

 卑弥呼は、山形明郷氏によれば公孫氏の族子であるという。
「え?卑弥呼はウリミンジョクではなかったのですか」
 チャングムは首をかしげた。
 このあたりはむずかしい。羊月城氏はブルマ・ゴム氏の見解をひいて、卑弥呼は百済か新羅の王族であるとしているのだが、そのブルマ氏は山形明郷氏をもひいて論議しているのである。だが公孫氏がウリミンジョクのわかれであるという事実を知れば矛盾はしまい。
 ともかくも卑弥呼は魏に使者を送るときに公孫氏を取り次ぎとしていたこともあって関係は親密であったことはいえる。
 そういえば、卑弥呼の死について『魏志倭人伝』では、魏の使者の張政が邪馬台国にやってきて檄をとばした直後に死亡したようにかかれている。
 卑弥呼が魏に討伐された公孫氏にかんして、魏のさまたげとなるようなことをもくろんだために謀殺されたのではないか。曹操以来、謀略をこのむ魏ならありそうな話である。

 ようやく開封大学についた。許厳氏のはからいで許可をとってもらえたため、宿舎はここの留学生寮を借りるのである。
 夏休み中ということであり人影はすくない。寮の部屋に入って荷物をおろしたあとロビーに集合した。開封大学の副学長が歓迎の宴をひらいてくれるという。
 一般の学生食堂ではなく、招待客用の部屋にとおされた。中華料理の作法どおり円卓の上に皿がならんでいる。
「コラーゲンがたっぷりありますからお肌にいいですよ」
 あぶらの多そうな料理にみえたためチャングムがとまどっていたのをみて、許氏がいった。とたんにチャングムは顔をくずして料理を皿にとり始めた。
 出発する前にみいにょ氏からきいた話では、中国では各地に地ビールがあるという。この開封のものは、
汴 京啤 酒ビェンジンピィジィョウ
 という。飲んでみるとかなり軽い。
「アルコール度は三.五%です。フルーティでしょう」
 許氏がいった。あと味もすっきりしており苦味がまったくない。ビールというよりむしろ酎ハイである。これならチャングムでも多量に飲めるだろう。
 だが、チャングムをみてみるとコップにはほとんど口をつけていない。
「コラーゲン、コラーゲン」
 ひたすら食事をしていた。

開封

 翌日、河南省歴史文物研究所の所長である衛躍進ウェイ・ユエジン先生の家をおとずれた。許氏が手配してくれたのである。
 広大な敷地にマンションがたちならび、敷地内にはいるには門番のいる門を通過しなくてはならない。
高陽コヤンあたりの新築マンションみたいですね」
 おもわず朴やんにそういった。朴やんは笑ってうなずいた。
「みちもきれいだわ」
 チャングムのいうとおり、このあたりは路上にごみも少なくでこぼこもほとんどない。立ちならぶ商店もきれいである。

 先生の家に入ると、見るからに古そうな家具がならんでいる。卓やいすは清代のものだという。
「ほんものでしょうか」
 チャングムがそっとつぶやいた。だいたいこういう場合はにせものであると相場がきまっている。
「すべて本物です。衛先生が発掘されたものが多いんです」
 許氏はわらった。衛先生の父親も歴史学者であり、親子二代で多くの文物を発掘して家で管理するばかりか、じっさいに使用しているというからおおらかなものである。むろん許可は得ているらしい。卓上の青銅製の香炉は漢代、花瓶は宋代のものであるという。
 衛先生が棚からむぞうさに紙箱を持ってきた。もとはワインが入っていたようだが、ふたを開けるとなかには青銅の刀や剣、鏡がはいっている。
「刀は商代、剣は戦国期、銅鏡は漢代のものです。わたしが発掘しました」
 衛先生はいった。青銅剣をさわらせてもらうと、鋭利な刃がまだあった。戦国期にはすでに熱処理技術があったため錆はおどろくほど少ない。
「ローレシアの王子はこの剣を持って旅立ったのね」
 チャングムはしきりに感心している。
 衛先生が銅鏡をとり出したあと箱のなかになにかが入っていた。のぞきこんでみると十元札をなんまいも折りかさねたものであった。まことにおおらかというか、歴史文物に対してふまじめというべきか。

 先生の家を辞したあといったん宿舎にもどり、それから開封市内中央部にむかった。
 まちの中心部は、宋代と同じなわばりにつくられた内城の城壁にかこまれており、いくつか大門がある。私たちの車は西の大梁門をくぐり、宋都を再現したという龍亭で車をおり、三十五元の入場料をはらって中にはいった。
 なかは広大な公園のようになっている。通路をすすむとみちの両側には大きな池があり、右側を潘家湖といい、左側を楊家湖という。宋代を舞台にした小説『楊家将演義』にちなんでいる。
 この物語では、主人公である楊一家に対して潘仁美という悪役が設定されており、それを模して水が濁ったほうを潘家湖、きれいなほうを楊家湖というのである。

 楊家湖では多くの人が泳いでいる。中国人は泳ぐことをこのまないときいていたが、わざわざ泳ぐためにここをおとずれる人もいるというから、どうやらこのあたりは例外であるらしい。
「それで保険があるんですね」
 朴やんが得心したようにいった。入場券販売所には、場内での傷害保険の受付窓口もあった。掛け金は一元、最大補償金は二万元である。しかし、泳いでいるひとびとは入場料をはらっているのだろうか。
 例外ということでいえば、わたくしどもは、
「儒教のおしえのため、中国人は人前で裸体をさらさない」
 ときいていた。
 しかし、このまちはどうであろう。短パンいっちょうで仕事をしたり歩いている男性がひじょうに多いのである。
 真夏の八月ということもあって気温はつねに三十度を超えており、ソウルよりもよほど暑いようにおもわれた。そういったせいもあるのかとおもったが、じゅうぶんに日焼けした肌をみるとずっと半裸でいるようである。
「なんてありさまなの。儒教のおしえはどこにいったのかしら」
 チャングムは顔をしかめた。建前と本音をつねに使いわけ、表ではかっこうをつけているものの、裏では民度の低さをさらけ出している中国人にとっては、儒教というのも金看板のひとつにすぎないのであろう。
「やっぱり、儒教をちゃんと受けついだウリナラこそ東方礼儀の国なのよね」
 チャングムのいうとおり、儒教を受けつぎ創造的に発展させたウリナラだけがほんとうの礼がある国であるといっていい。

 さらに先にすすむと十三メートルほどの高楼がある。階段の真ん中には龍が浮き彫りにされており通行禁止になっている。皇帝専用の通路を再現しているのである。
 上のほうからはスピーカーの声がきこえてくる。なにやら芝居がかった調子である。
「いってみましょう」
 チャングムが駆けだした。急な階段をものともしないみごとな身のこなしである。
 私どもがようやくたどり着くと、宮殿のなかで皇帝や皇后、武官、宮女たちによる演劇がおこなわれていた。スピーカーの声はその台詞まわしであったのである。
 劇はほぼ終わりかけのところであり、武官たちがひざまづき、
「皇爺、娘子、万歳万歳万々歳(ホワンイェ、ニャンツ、ワンスゥェイワンスゥェイワンワンスゥェイ)」
 ととなえて、一同が乾杯してお開きとなった。

「なんだかみょうに迫力がありましたね」
 朴やんは感心している。たしかに、中国皇帝のきらびやかさだけでなく、胡散くささや滑稽さまでもを再現しており、観光地のだしものとしてはわるくない。
 ウリナラにも『大長今』の撮影に使用したセットをそのままテーマパークにしたものがあり、みごとなものであるのだが、このような演劇まではなかったようにおもう。
 しかし、こういったものは再現ものであるとはいえ、にせものであることにはかわりがない。本物をみぬくきびしい審美眼をもったウリミンジョクには鑑賞にたえられるものかどうか、わたしにはわからない。
 もし、『大長今』のテーマパークでこれをやろうとすれば、李英愛イ・ヨンエ本人が出てこないと満足しないであろう。
「私じゃだめかしら」
 チャングムはウインクすると、スカートの裾をひるがえして一回転してみせた。

 龍亭を出て、そのまま大通りを南へあるいた。
 宋都御街というなんということもない通りなのであるが、夜になると屋台がならんでにぎやかな夜市がひらかれる。開封いちばんの名物であり、中国全土でも指折りの夜市であるらしい。
「まだ時間もありますので、鉄塔にいきましょう」
 許氏はそういってタクシーをつかまえた。
 鉄塔とは宋代に建立された十三層の仏塔であり、鉄やガラスを混入した煉瓦で建てられているため、遠目にはまるで鉄の塔にみえることに由来している。

 鉄塔公園のなかはひろく、多くの建物や庭園がある。
「なによ、これー!!」
 園内の標示板をみていたチャングムがすっとんきょうな声をあげた。標示をみると、
「盆景苑」
 と書いてある。植物を配した庭園なのであろう。だが、チャングムの目はその表記の下にかかれた英語表記に吸いついている。なんと、
「BONSAI GARDEN」
 とあるではないか。
「どうしてボンサイが英語なのよ。もの知らずにもほどがあるわ」
 がんらい植物を配して景観を構成して愛でるという習慣は英語圏にはなく、したがってそれをあらわす言葉もないのだが、それをよいことに日本語のボンサイがそのまま英語としてまかりとおっているのである。
「イルボンがまたロビーでやらかしたのね」
 チャングムの怒りももっともである。韓半島の木をきり尽くした日本に緑を愛でる文化がめばえるはずはなく、盆栽も韓半島からぬすんだか奪ったかにちがいない。
 そういった後ろめたさがあるため、世界に工作してボンサイを英語にすることで、盆栽は日本起源だと強弁しようというのであろう。

 宋代には仏教がまだ力をもっていた。座禅のように個人の修養と鍛錬を重視する質素簡朴な禅宗がおこったのは、浮華と豪勢さをこのむ中華文化にあってはきわめてめずらしいことといっていい。
 そのころのウリナラはといえば、やはり仏教を重視した高麗の時代であった。しかしこの鉄塔のような文物はほとんど残っていない。倭乱のさい、豊臣秀吉軍がすべて焼きはらったのである。
「しかし韓半島の山奥までもわけ入って、ひとつ残らず焼く理由も時間もあったのでしょうか」
 朴やんが首をかしげたが、理由ならある。
 百済が倭に仏教を伝えてやったのだが、倭の貧弱な技術力では四天王寺の建立もでき なかったため百済の技術者に懇願してようやく建立したのだが、こういった韓半島との落差はながく劣等感として受けつがれた。
 その劣等感をうち消すためウリナラのすぐれた文物を消滅させようとしたのである。ぬすむにしろ焼くにしろ、イルボンの伝統的なやりくちであった。

 やがて鉄塔の前に出た。
 十三層とまことに高いものであるのだが、中はせまそうである。
「のぼってみますか」
 許氏がいった。私は遠慮したのだが、チャングムと朴やんがのぼることにした。ふたりは十元の入場料をはらって中にはいった。
「これだけ高いと、てっぺんから黄河がみえますかね」
 許氏にきいてみた。許氏は即答した。
「みえません。黄河は高い土地にあるので堤防がようやくみえる程度でしょう」
 黄河は天井川であるうえに底があさいため、いったん堤防が決壊するとまちの一つや二つは簡単に飲みこむという。
 太古より黄河はしばしば氾濫し、ときには河流まで変えた。日本軍の進撃を遅滞させるため国民党軍が堤防を切って人工的に洪水をおこしたこともある。これによって日本軍は三ヵ月足止めを食らったという。

 氾濫した黄河は大量の土砂をはこぶため、まちがそのまま埋まってしまうこともある。じつをいえば、龍亭にしても鉄塔にしてもほんらいのものはすべて地下十数メートルにうまっているのである。
「この足もとには宋代の開封がまるごと埋まっているのです」
 そのため、地面を掘るとどんな遺跡や文物が出てくるかわからない。開発がすすみませんよと許氏はわらった。
「もし地上の市街を保全したまま、地下をほって過去の開封市街を再現できるならすばらしいのですが」
 さらに許氏はそういった。むろん現実には不可能だとわかっている。
 ウリナラのように過去の文物をたいせつにする国でさえ、歴史遺産の維持管理は難問である。いまの中国にはとてもその余裕や技術はないであろう。

 チャングムと朴やんが降りてきた。みごとなほどに汗だくである。
「中はせまかったですよ」
 汗をぬぐいもせず朴やんがいった。螺旋状の階段はひと一人がやっと通れるほどのせまさですれ違いもままならず、各層にひとつずつある窓の部分には壁がないぶんすこし幅があり、そこで体を半身にしてやっとすれちがえるという。
「暗いし、階段は急だし、もうたいへん」
 チャングムはペットボトルの水を飲みほしていった。鉄塔は八角形であるため階段は四十五度ずつ折れ曲がって螺旋をえがいているが、一段の傾斜は急でありしかもつま先がはみ出そうになるほど奥行きがせまいという。

 鉄塔公園を出て、宿舎の開封大学へかえることにした。タクシーをつかまえる前に水を買った。
 まちをゆく中国人はほとんど水のペットボトルをもっている。水道水は飲料に適していないためである。また、中国には自動販売機がない。路上にパラソルをたて営業用の冷蔵庫をおいてペットボトルを売っている。
 中国人はものをわざわざ冷やして飲食する習慣がなく、ビールなどもぬるいのがあたりまえであり、保管のために冷やすだけであった。最近ようやくビールを冷やして飲むことが普及してきたらしい。
 ペットボトルの水は一本一元であるから百六十ウォンほどであろうか。炭酸飲料などのジュースだと三元もする。

 タクシーに乗って開封大学にむかった。
 西にゆき城壁手前で左折して南下すると、東西をつらぬく大梁路という道路に突きあたった。これを右折して西に針路をとると大きな門があった。大梁門である。私どもの泊まっている開封大学はここからまっすぐ大梁路を四キロ程度いったところにある。
 開封大学のある場所は、現代では城外であるが宋代にはまだその向こうに外城があった。その城壁には門が三つならんでおり、それぞれに半月形に外にはり出した城壁である壅城おうじょうが付随していたという。むろんそこにもひとつかふたつの門がうがたれている。

 ぞくに、
「開封七朝」
 といい、魏、後梁、後晋、後漢、後周、北宋、金の首都であったことはすでにふれた。
 後代の私どもからすると、魏、北宋、金あたりはなじみがあるのだが、後梁、後晋、後漢、後周とはききなれない名前である。
 だいたい、前後や南北東西の字があたまにつく王朝名は後世の呼称である。たとえば北宋は宋となのっておりのちに南に遷ったのだが、後世の人間が区別するために北の字をつけた。前漢、後漢、あるいは蜀漢にしてもそうである。いずれも自分たちでは漢となのっていた。
 開封に都をおいた後漢を日本では、
「こうかん」
 とよむ。光武帝劉秀のたてた後漢ごかんと区別するためである。中国史上、漢という王朝名はひじょうに多いため、後世の人間も名称には苦心しているのである。もっとも、中国では一般に前漢を西漢、後漢を東漢とよぶため混乱はおきない。
 中国の王朝名のほとんどは、漢民族以外のたてた金、元、清は例外であるが、漢民族のたてたものは地名にもとづく。夏、商、周、秦、漢、晋、隋、唐、宋という統一王朝だけでなく、北魏や前趙、前燕、北斉、陳、梁といった南北朝の諸王朝もそうである。明だけが例外である。太祖朱元璋が最初に属した紅巾軍が、明王をなのる白蓮教の韓山童を奉じていたことに由来するという。
 こうしてみると、たいがいの王朝名のもとねたは春秋戦国時代に出そろっているようである。前秦、東晋、北斉、後燕、前趙、東魏、楚と戦国七雄の国名はすべて使いまわされているといっていい。

 ただひとつ、後世に使われなかった国名がある。
 韓、である。
 中国人にとって韓とは、かるがるしく使えないおごそかなものであったということであろう。古代にウリミンジョクを先進民族として、ひたいを地にこすりつけてあがめたてまつっていたなごりであるのかもしれない。


洛陽

 開封大学にかえってきた。
 夕食後、大学の茅成利マオ・チョンリ先生という方とお会いした。茅先生は書法の大家であるという。
 中国語では書道のことを、
書法シューファー
 という。茅先生はただの書法家ではなく、金属製の筆で字をかいたり、木や石に字をかく第一人者であるというから、前衛的であるのかもしれない。
 中国人学生だけでなく留学生にも教えているというが、現在、日本人留学生団がおとずれており、かれらがなんの苦もなく毛筆をつかって漢字をかくことにおどろいたという。そのまえに教えたフランス人留学生団は、うつくしく書けるとかいう以前にまともなかたちの漢字をかけなかったという。
「現代、毛筆で字をかく芸術は中国と日本にしかありません」
 茅先生はそういった。中国人の公式見解として「中国」にはむろん台湾をもふくんでいるのだが、これは聞き捨てならない発言である。
「ウリナラにも書法はあるわよ。世界に冠たるハングル書道が」
 チャングムがいった。茅先生の手前怒気を抑えてはいるものの、今にも火病を発しそうであった。
 さらにわるいことに、茅先生は日本人では空海と三筆の一人である藤原佐理をたかく評価しており、とくに佐理を尊敬してその筆づかいを学んだという。
 ここまできいてチャングムをみると顔はキムチ色一色である。あわてて朴やんと二人でかかえてその場をほうほうの体で辞した。

 翌朝、チャングムは元気を回復したばかりか笑顔をあふれさせて食堂に飛びこんできた。
「アンニョンハシムニカ!」
 昨夜、厨房でわけてもらった冷凍キャベツをひたいに載せたのがきいたのであろうか。
「先生、はやく食事をすませて来て下さい」
 チャングムにうながされ、朝食をそこそこに切りあげて外に出ると、チャングムに引っぱられて大学内の掲示板の前までいった。
「見てください」
 掲示板には、人民日報などの新聞記事が掲示されているのだが、チャングムの指したのは中国青年報の軍事特集ページであった。
 日付は今年の六月二十三日であり、この月の中旬に中国やアメリカ、韓国の軍事関係者がアメリカ軍の演習見学で一堂に会したニュースをのせている。
「ここですよ。ここ」
 みると、韓中の代表が『大長今』の話題で盛りあがったとかいてある。軍人がこのような話題で歓談するとは友好平和のあかしであろう。
「へへへ、やっぱり韓流はあるんですね」
 昨夜の火病はどこへいったのか、チャングムはこれ以上ないほど明るい笑顔になった。

 今日は一日かけて洛陽をみるという。
 洛陽、というと東周や後漢などのみやこであり、古都であろうという思いこみがあるのだが、今回はまず龍門石窟をおとずれ、それから市内にゆく予定である。

 開封から洛陽まで二百キロはあるという。ひたすら高速道路を西にゆくのだが二時間半はかかる。
 出発してから一時間すこしで鄭州を通過した。ここからじょじょに上り坂になってゆく。三十分ほど走るとあたりはすっかり高地である。黄土がつくった垂直に切り立ったような崖がつづく。
「ここが虎牢関ですよ」
 許氏がいった。たしかに道路標示にも虎牢関出口まで何キロというのがあった。
「『三国演義』で関羽、張飛と呂布がたたかったところですね」
 そう確認すると、許氏はうなずいた。中原といえばみわたす限りの平地であり、虎牢関にしてもおなじく『三国演義』に出てくる椰經悗砲靴討睚臣呂竜屬筏屬里△い世鬚佞気い任い訥度にしかおもってなかった。このような峻険な土地であるなら、たしかに谷あいの道をふさいだ関門は要害となる。
「あ、虎牢関と椰經悗箸呂なじですよ。時代によって名前がちがうだけです」
 許氏の指摘に私はおどろいた。椰經悗牢惘が華雄を斬った場所であるのだが、虎牢関と同じものだとはしらなかった。これではまるで、
「光復軍が京城で牟田口連隊をやぶった後、ソウルで板垣師団をうち破った」
 というようなものであろう。
 じつをいえば『三国演義』は明代の成立であり、作者の羅貫中もそれなりに取材はしたのであろうが、地名については結構いい加減なのである。
 たとえば、洛陽から長安へ撤退する董卓を追撃した曹操が呂布に襲われたのは、
「滎 陽」
 であるのだが、この土地は洛陽の東にあるためありえない話になっている。安能務氏によれば宜陽とまちがえたのではないかという。
 バスはトンネルをくぐり、その滎 陽を通過した。洛陽までもうすこしである。
 やがて高速をおり、南へむかって走るとようやく龍門石窟についた。

 車のまま場内へ進もうとすると係員に止められた。許可が必要だという。
 初耳である。そんなことはきいたことがないと許氏がいうと、係員は、
「四十元で許可しよう」
 といい出した。許可料といえばきこえがいいが、つまりは賄賂であるといっていい。許氏がさんざんねばったあげく二十元で妥結した。

 龍門石窟は、伊河の両岸の崖をほって石窟と仏像をつくったものであり、最古のものは北魏時代のものであるという。
 仏像は一万体はあるというが、損傷が激しいものが多い。顔を削られているものもある。廃仏運動の被害にあったのであろうか。
 北魏では仏教がさかんであり皇帝の顔ににせた仏像が多くつくられた。しかし、その反動として廃仏運動もおこった。国家にしてみれば、租税賦役を免除された僧はまことにやっかいなものであり、そのうえ仏教ぐるいの皇帝が気前よく田地や莫大な財を寄進するため財政上有害なしろものでさえあったといっていい。
 そこに道教の指導者がつけこんで廃仏をあおるということがあったらしい。北魏時代の道教指導者といえば寇謙之が有名であるが、かれは関係していないようである。

 案内表示板には、日本をはじめとして国連各国がこの石窟の維持修復に資金を供出していると書かれていた。
「ウリナラの名前は?」
 チャングムが表示板をなめ回すようにしてさがしたが、ウリナラの名前はない。
 これは別に気にすることでもない。人的、資金的に国連に多大な貢献をしているウリナラにとってはこのような文化活動に参加するのがあたりまえであり、わざわざ特筆大書してもらうようなことでもないのである。こういう貢献活動をふだんやらない国が、めずらしくもやるというからとくに記録するだけであり、名前が出ているからといってよいということでもない。

 川岸を歩くと、急な階段をあがった上に二十メートル近くはありそうな毘盧遮那仏があった。則天武后がつくらせたものであるが、まさに大仏の名がふさわしい。奈良の大仏はこれをパクったのであろう。
 かのじょの側近である薛懐義という僧が、
「武則天さまこそ仏の生まれかわりである」
 という経典をでっちあげたためつくられたという。
 それにしてもこれだけのものをつくるにはよほどの手間と資金がかかったであろう。まことに仏教とは金のかかるものであるうえ、薛懐義や日本の道鏡、文観のように権力に阿諛、容喙する佞僧をも生みだす。ウリナラが朝鮮時代に仏教を廃したのはアジア史上まれにみる英断であったというしかない。

 その大仏の真下に石窟のようにして売店があった。飲み物やみやげものなどを売っており、クーラーがきいているのがきもちよい。
 ふとみると、そのクーラーの室外機に、
「現代」
 というロゴがおおきく入っていた。こういうところにウリナラを代表する現代の電化機器があるというのは喜ばしいことである。名前が出るということはまことによいことなのである。

 龍門石窟を出て洛陽市内にむかった。目的地は、中国ではじめての仏教寺院である白馬寺である。
 高速道路を二十分ほどのった後地道におりたのだが、渋滞に巻きこまれた。
 中国の運転手はたくましい。車のあいだをぬって対向車線や歩道を迂回してまで前に出ようとするのだが、この場合、流れがまったく動いていないためどうしようもない。車をおりて用をたしたり飲みものを買いにいっている人たちすらいた。
 許氏が事情をたしかめるため車をおりて前方に歩いていった。しばらくしてもどってきたが首を横にふった。交通事故での渋滞であるのだがうごく見込みがまったくないという。これでは白馬寺にゆくことも無理そうであった。
「どうしましょう」
 許氏がいった。チャングムがすかさずいった。
「少林寺へゆきましょうよ」
 それをきいた許氏はすこし考えてから、
「そうですね、それはいい考えです」
 とわらった。

 高速道路にのり、東へ二十分ほどいったところで乗りかえて一時間弱南下すると少林寺である。
 少林寺のある山は嵩山といい中国で有名な山の一つである。駐車場に車をおいて入場券を買い入場すると、まず大きな石碑があった。
「少林文化 人類遺産」
 とかいてある。江沢民が四三三七年七月六日にかいたものであるという。
「朴君と司馬さんやないですか」
 日本語で声をかけられた。振りかえると殿波さんだった。
 殿波発信でんぱたつのぶさんは、『やまとのみち』で登場いただいた朴やんの日本人の親友である。日本社会の右傾化をいきどおりウリナラに謝罪の意をもち続けるきわめて良心的な日本人である。
「ピースゴートの用事で来たんです」
 ピースゴートとはアジアの市民と連帯して平和と友好をきずこうという良心的な市民団体である。殿波さんは理事の一人であり、冬休みに日中青年友好のための中国旅行を計画しておりその下見できたという。

 殿波さんの目をみると真っ赤である。
「ずっと泣いとりました」
 ここに来る前、南京の大虐殺記念館に寄ったのだが、展示されている日本軍の蛮行にいきどおるあまりその場で泣き、昨夜も思い出しては泣きつづけ、ここで江沢民という名をみてまた泣いたという。誠実な人柄がしのばれる話である。
「日本兵は天皇制賛美をおしえこまれ、日本刀一本で百人を斬ることもなんともないほど鬼畜になっとったんです」
 短期間のうちに三十万以上の人民を殺戮できたのも、軍国教育によってきたえられた精神のせいであったという。教育はときに超人的な力を引きだすというが、日本軍のいっけん不可能かとおもわれるような、日本刀や少ない銃弾での大量虐殺といった蛮行はそのせいであったのだろう。

 川岸に沿ってすすんでゆくと、いくつものグラウンドがあった。そこではオレンジ色の僧衣をきた少年たちがクラス分けされ、それぞれの集団で少林拳法の練習をしている。基礎的な身のこなしだけでなく棍や革鞭をつかっているクラスもある。
 十分ほど歩くとなにやら展示館のようなものがあった。入場券をみせて石段をのぼって建物のなかに入ると、ホールのような場所があり、ちょうど演武がはじまったところであった。少年たちが蛇拳や猿拳といった拳法や棍、朴刀をつかった型ばかりか、気功によって鉄棒をあたまで割ったり、ガラス板の向こうの風船を割るといった芸を演じている。
 まことにすさまじいというしかないのだが、ややうそ臭くもある。
「武術というのはみせものなんですかねぇ」
 朴やんが首をひねった。
 がんらい、
「武」
 という字は、武器をあらわす弋を止めるとかく。やたらにふるったり顕示するものではないのである。
「ウリナラの戦闘警察をみならいなさい」
 チャングムがいった。ウリナラの戦闘警察はガラスのコップをかみ砕き、ビールびんを素手で切り、頭突きで十数枚にかさねた瓦を割るような強靭さをもっている。世界一の水準にまで磨きぬかれたデモに対抗するための鍛錬であり、するどい針のように研ぎすまされた実用性だけをもっているといっていい。

 ホールを出ると売店があった。
 少林寺の服やプロモーションビデオなども売っているのだが、ねだんは高い。しかも売店のある部屋を、
「達磨堂」
 というのである。達磨大師もはるかな後世にこのようなかたちで名前をつかわれるとはおもいもよらなかったであろう。愛国心や歴史精神まで金もうけに利用するという中国人のいやらしさがでているといっていい。

 川岸をさらにすすむと、少林寺という寺があった。ほんらいはここが本体なのである。
 山門には阿吽の両仁王が鎮座し、その先には四天王が鎮座しているのだが、けばけばしいばかりの彩色といかにも中華趣味の装飾がほどこされている。
 ひととおり中をみて外に出ると、パラソルの下で僧がなにやら筆を走らせている。
「なんでしょうかね」
 殿波さんがちかづいた。どうやら依頼者の名前をあたまにおりこんだ詩句を墨書しているらしい。一枚三十元だというのでやってもらうことにした。名前を書こうとメモ用紙をみると、中国人だけでなくアルファベットの名前まであった。
 僧は私の名前を確認すると、あらかじめ水墨画がかかれた上質紙に、
「司命唯于天
 馬欲駆求夢
 麗而壮素志
 宇内無双也」
 と、たちまち筆をはしらせて文をつくり朱の落款をおし、文意を説明してくれた。韻こそ踏んでいないものの即興としてはみごとなものである。
 かたわらのおばさんがその紙を受けとり、ドライヤーで乾かしてからビニールシートでパウチして私にわたした。

大相国寺

 もう一度開封市内にでかけた。
 大相国寺にゆくのである。

 春秋戦国期の魏の信陵君のことはすでにふれた。かれの邸宅のあとに西暦五百五十五年にたてられた寺が大相国寺である。
 製作に五十八年を要し清の乾隆三十二年にようやく完成したという千手千眼観音がまつられているのだが、それよりも『水滸伝』に登場することで知られている。
 百八人の好漢をえがいた『水滸伝』は、ならず者が徒党をくむ話でもあるところから、
「盗をおしえる」
 として、しばしば出版を禁止されたという。とうぜん、盗賊などという犯罪行為には縁のとおいウリナラでは受けいれられなかったようである。
 ともかくも物語のなかでは、百八人の好漢のうち主役級である魯智深という人物がこの大相国寺に滞在しているという。

 魯智深はもともと下級軍人であり、悪辣な高利貸しのためにこまっている老人と娘をたすけるため、その高利貸しのいとなんでいる肉屋に乗りこんだのだが、こらしめるつもりがあやまって高利貸しを殴り殺してしまった。
 官憲の目をのがれるため頭をそりにわか坊主になって五台山に転がりこんだのであるが、その粗暴さで騒動をおこし、ついには大相国寺への紹介状をあたえられて体よく追い出された。
 大相国寺では菜園の管理をまかされ、六十二斤(約三十七キロ)もの鋼鉄の禅杖を振りまわしているところをぐうぜん通りかかった禁軍(朝廷の近衛軍)師範の林冲にみられて知己となるのである。
「水滸伝はいいですよ。毛主席がおっしゃったように革命精神があふれています」
 殿波さんはうっとりとしていった。なんでも、『水滸伝』の好漢には、武松なら行者、呂方なら小温侯、孫立なら病尉遅というあだながあるのだが、それらのあだなには人民の革命精神がこめられているという。
 たとえば、黒旋風李逵なら黒は冠をかぶらない人民の頭を意味し農民起義による革命の嵐をさし、赤髪鬼劉唐なら赤は共産革命をさし、霹靂火秦明なら雷を意味する霹靂は人民の政治へのいかりであり、火は革命蜂起をさすという。
 まことにいさましい話ではあるのだが、なんだか文化大革命期の後半に毛沢東が『水滸伝』を激賞したのにおもねった学者がこじつけたような話であり、にわかには信じがたい。
 しかし、それをすなおなままに受けいれているという点に殿波さんの人がらのよさがでているようでほほえましくもある。

 三十元の入場料をはらって大相国寺のなかにはいった。
 入ってすぐ左手の場所に魯智深の銅像があった。髭だらけの僧が禅杖をよこにおいてポーズをとっている。禅杖は通常[金産]サンといい柄の先端にはU字型の刃があり、もう一方にはシャベル状の刃がある。
「この人ってけっきょくは架空の人物なんでしょ。実在しない人をもてはやして銅像までつくるなんて、まるでイルボンの歴史歪曲と同じだわ」
 チャングムはそういった。たしかにかれは『水滸伝』の登場人物であり実在はしない。だが、韓民族の日帝に対する抵抗の熱情と不撓不屈の闘志が伝説的な抗日戦士金日成をつくりあげたように、人民の精神が個人のかたちをとってあらわされることは歴史上にままある。
 魯智深が実在したかどうかはともかく、かれにはひとびとの願望がこめられているのであり、目くじらを立ててことさらに言いたててやることもないかとおもわれる。日帝が善政であったというありもしないものをあるとしたり、檀君のように実在したものをないと妄言をたれながすイルボンとは事情がちがうであろう。

 先にもふれたが、この寺は信陵君の邸宅のあった場所に建てられたという。
 信陵君については第一回でわずかにふれた。斉の孟嘗君、趙の平原君、楚の春申君とならんで戦国四君子と称される人物であるが、四人の中ではもっとも義気にとんでおり、その一生は苛烈なものであった。とくに秦に攻められた趙をすくうため死を賭してたち向かったときの話は、侯生、朱亥といったかれの尊崇した客の名前とともによく知られている。
「え?春秋戦国期の戦争って、奴隷制社会を受けついだ貴族階級の内部闘争ちゃうんですか?人民は苦しむだけで」
 殿波さんの大学でならった歴史ではそのようになっていたらしい。

 奥にすすむと、空海という名前と文章を彫った石碑がある。
「空海の生涯がかかれています。大相国寺に滞在したことがあったんですねぇ」
 朴やんがいった。
 空海は平安時代の僧であり、密教を日本にもたらし高野山をひらいた。書道でも草書の大家として知られている。遣唐使に随行して入唐したさいにこの寺で学んだことがあったらしい。それを記念して中日共同で銅像をたてたようである。
 石碑の先には空海像が鎮座する建物があった。なかに入ると、中年の男性が一人、机にむかってなにかを書いている。のぞきこむと、黒地の上質紙に井の字のような升目のものさしを置いて、その区画のなかへ一字づつ毛筆で字をかいている。
「掛け軸みたいなのがいっぱいあるわ」
 チャングムが壁をみていった。たしかに縦書き、横書きともにさまざまな掛け軸がある。かかれている文章は中国古典のものである。
「臣亮言先帝未半創業(しんりょうもうすせんていいまだそうぎょうなかばにして)」
 とあるのは『前出師表』である。そればかりか『後出師表』『蘭亭序』などもある。いちように六百元となっていた。先ほどの男性が手作業でつくっているらしい。
「なによ、この漢字の羅列は」
 チャングムはいまにも目をまわしそうである。世界でもっともすぐれた文字であるハングルだけを用いてすべてがこと足りるウリミンジョクにとっては、漢字のような低級な文字はきもち悪くみえるらしい。

 掛け軸をみてゆくうち、空海についての説明版に視線がぶつかった。かれの生涯や唐での足跡がかかれている。生涯についてはおもての石碑とほぼ同文である。
 その文章のなかでは空海を
「漢字をもとにしてひらがなをつくり、伊呂波いろは歌もつくった」
 とある。たしかにかれは草書にひいでていたが、ひらがなをつくりあげたということはない。だいたい、オリジナルなものを何ひとつつくり出せないイルボンにはそのようなことはとてもむりである。おおかた韓半島の吏読イドゥや古代ハングルをぬすんでつくり出したと称したのであろう。
 伊呂波歌にしてもそうである。和歌じたいがウリミンジョクがつくり出したものであり、それをパクったにすぎない。

 寺を出たあと、チャングムが、
「黄河を見たい」
 といいだした。鉄塔から黄河がみえなかったのが気になるらしい。地図をみたところ黄河までの直線距離は十一キロ弱程度だった。許氏にきくと、
「車で二十分もゆけば黄河につきます」
 とのことだったので手配してもらった。
 市街地を出て北にむかうと、道路はせまい農道のような砂利道になった。黄河はまだみえないのに堤防や水のいきおいを弱める障壁のようなものが点在している。その堤防したにはちょっとした林や草原があり、山羊や牛、羊を放牧しているところもあった。

 やがて黄河がみえてきた。水量がおどろくほどすくない。岸につき車をおりて歩いた。土は粘土質できわめてしっかりした堅さである。河水は黄色いというより黄土色に近いといえる。
「あんなに大きい中州がありますね」
 殿波さんがいった。その中州までは、コンクリートでできた舟状のものをならべ、その上に鉄板をわたした一種の舟橋がかけられており、車やバイクがとおっている。とくにダンプが通るさいは、その重みによって波が発生していた。
「人は通らなんのかな」
 殿波さんは首をかしげた。そういえば河岸のところどころに桟橋と渡し船があった。歩行者はそちらを使うようになっているのかもしれない。あとで知ったのだが、ここの舟橋は渡る前に料金所を通らなければならないらしい。

 このあとはとくにどこにゆくということもなかったので、大学近所のスーパーに出かけた。チャングムと殿波さんが同行してくれた。朴やんは、
「わたしは包公祠にゆきますので」
 といって出かけた。
「包公」
 とは、北宋に実在した人物で本名を包青天といい、名裁判官として有名である。その人物の邸宅あとが開封市内にあるという。
 かれの話は「大岡政談」のもとねたになったものも多い。さすがにイルボンはこういったものまで盗むらしい。
 中国や日本とちがってウリナラにはこういう人物はいない。正義を愛し、司法が厳格におこなわれているウリナラでは、公明正大な司法官はあたりまえであり、もてはやされることはないためである。こういったところにもウリナラの潔癖さと優秀さが暗示されているといっていい。

 大学の南門を出て十分すこし歩くと、
「三毛」
 という名前のスーパーがあった。「SAM」という英語が併記されている。食料品から生活雑貨、衣類、玩具まで売っている。
「先生、これは何ですか」
 チャングムに玩具売場へひっぱられた。箱の上部をみると「WW2」とあるので第二次世界大戦の軍艦のプラモデルらしい。日本のプラモデルのようにイラストがかかれているがあまりできがよくなく、マストには国旗が掲げられていない。「電動」ともかいてあるのでモーターで動くのであろう。
 いちばん上の箱には「美国 米蘇利」とある。アメリカの戦艦ミズーリである。ところがその下の箱には軍艦名がかいていない。製作者がつけたシリーズ番号だけである。不審におもって箱上部のイラストをたんねんに見てみると、どうやらこれは日帝の超弩級戦艦大和であるらしい。特徴的な副砲や煙突のかたち、カタパルト上の水上機胴体の日の丸でそれと判明した。
「な、なんちゅうことや。侵略軍国主義の象徴大和が売っとるなんて」
 殿波さんはその場に呆然として立ちつくした。
「どうして光復軍の超怒級戦艦『安重根』が売ってないのよ!」
 チャングムは火病を発した。

 すっかり固まってしまった殿波さんをショッピングカートにのせ、地べたを転げまわるチャングムにこんなこともあろうかと携帯していた冷凍キャベツをのせて沈静化させ、ようやく店をあとにした。
「今回も大変だったようですね」
 タクシーから降りて宿舎にかえると、先に帰っていた朴やんがわらった。
「まさか、日本帝国主義の新しい魔の手がここまでおよんどったとはおもわへんだ。今度は文化で侵略とはなぁ」
 大汗をかいている殿波さんがつぶやいた。しかし文化で侵略といえば中国もなかなかえげつないであろう。ウリミンジョクの栄光に嫉妬して高句麗史を中国史だと詭弁を弄し、既成事実にしようと策動している。

 中国にしても日本にしても、いずれもウリミンジョクの恩を忘れてひたすら捏造と曲解による敵視政策をつよめているのだが、中国人には日本人とはまたちがったえげつなさが垣間見える。このあたりがいちおうの文明国とただの野蛮国との違いなのであろうか。
 中国でももっとも古い文明を有するこの中原の真ん中で、そんなことを思いながらキムチをほおばっているチャングムをみた。



かおりん「ついに中国ですか」

にゃも「2006年8月の短期留学(2週間)がベースね。仮名にしてあるけど、許氏、衛先生、茅先生は実在するし、その発言も事実なのよ」

かおりん「書いてあることは全部本当ですか?」

にゃも「大和のプラモとか『BONSAI』とか龍門石窟の賄賂の話もみんなほんとにあったことよ」

かおりん「作者、どこに行ってもネタを探してくるんですね」

にゃも「特別に意識しているわけじゃないみたいよ。『もしや?』と思って探してきたネタと、偶然ぶつかったネタとは半々だって」


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