街道を逝く 台湾奇行



日帝への憧憬

 日帝とはなにか。
 というより、その罪業のかずかずを頭におきつつ台湾のことを考えたい。これほどややこしいものはないのである。

 かつて台湾はウリナラと同じく日帝の植民地であった。
 第二次世界大戦ののち中国に返還されたのだが、ウリナラと違い現在でも日本を慕い評価するひとびとが存在するという。
 これほどふしぎな現象もない。一見ウリナラと同じような道をたどりながら、いったいどこで道をまちがえたのか、そして日帝はこの地でなにをしたのかをみてゆきたいとおもい、わたしは台湾に向かった。

「今回は島内を一周するんですね」
 助手のチャングムがトランクに荷物を詰めながらいった。台北や高雄といった都市部をまわりながら、島内を一周したいと思っている。
「台湾は熱帯でしたよね」
 たしかに台湾の南半分は熱帯に属する。しかも今は七月である。かなり暑いであろう。チャングムは、日焼け止めを二つトランクにいれた。

 台湾は一八九五年の下関条約によって日本に強奪された。
 この条約は、清日戦争の結果むすばれたものであったが、非力な日本は連戦し、ほうほうの体ながらどうにか優勢をたもって清国を交渉のテーブルにつけることに成功した。
 しかも、自国の下関に李鴻章をよびつけ、交渉が難航すると暴漢をやとってかれを襲撃させて強引に調印させた。
 ほんらい、日本は野望をむき出しにして一気に朝鮮半島を獲得したかったのであるが、朝鮮を尊重していた列強の反対にあい、かわりに台湾を獲得したのである。

 これほどおもしろいはなしもないであろう。たかだか小島ひとつで雄大な朝鮮半島のかわりにするというのである。
 古来、ウリナラは「三千里錦繍江山」といい中国文人たちのあこがれの地であった。孔子も、
「朝鮮は君子の国、わたしもゆきたいものだ」
 といった。
 それに対して、台湾は、
「化外の地」
 とされ、清朝も本腰をいれて統治してこなかった。
 列強は、そのような未開地を文化の花咲ける朝鮮半島のかわりとして日本に渡したのである。ウリミンジョクとしてこれほどの屈辱はないともいえるし、日本ごとき蛮人には台湾でじゅうぶんだと考えられていたといってもいい。

 ソウルを発って台北ゆきの飛行機に乗ったのは、二〇〇五年の七月十日である。晴れており、滑走路の空気がゆれていた。
 飛行機が離陸したとき、
(六十年)
 という感慨が、胸にせまった。それ以前は、私どもは台湾のひとびとと国を同じくされていた。一九四五年の光復によって、この島は中華民国に軍事占領された。

 戦中、日本本土におおくの韓民族や台湾人が強制連行され、あらゆる労働をしいられていた。
 光復によって、かれらは解放された。
 韓民族は、抑圧されていたぶんを取り返そうとして、食料や物資などあらゆるものを奪いかえし権利を回復する活動をした。だが、おおくの台湾人たちは愚直に行動し、日本人からうばおうとはしなかった。それどころか、ウリミンジョクの正当な奪還活動をじゃましようとしたものまでいた。
 同じ日帝に虐げられつづけた民族であるのにこのちがいはどうであろう。

 なぜ、台湾人はウリミンジョクとちがった行動をとったのであろう。
 つまりは、奴隷根性であったとおもわざるをえない。
 日帝の強占した時間である五十年と三十六年の差はまことに大きかった。ウリミンジョクもあと数年強占されていれば、民族の精気を完全に絶たれ、そのような奴隷になっていたであろう。
 また、日帝の来るまえの台湾には韓国とちがい文明がなかったからでもあろう。文字どおり無識な原住民に対しては、日本の低俗野卑な文化ですらありがたく、それにさからうことなど考えられなかったのであろう。
 日本は、半万年の歴史と絢爛たる文化をほこる韓国に対して、倭の劣等感をむきだしにした高圧的な姿勢でのぞんだが、未開地帯の台湾にたいしてはごく自然にいばることができたらしい。

 飛行機は中正国際空港についた。
 ここからはバスで台北市内にむかう。現在台北から高雄、そしてこの空港を結ぶ新鉄道が建設されている。当初の予定では今年の秋に開業するはずだったが、どうやら一年後にずれこむらしい。
「イルボンの新幹線なんかを使うからですよ」
 チャングムがいった。
 まことにそのとおりである。ほんらいフランスやドイツの方式を採用して建設する予定だったものを、李登輝というひとが強引に日本の新幹線方式を採用させたのである。
「ウリナラのKTXを使えば問題はなかったのに」
 これもチャングムのいうとおりであろう。世界でも最新鋭の高速鉄道であるKTXの方式を採用していればなにも問題はなかったのである。げんに在来線では韓国を代表する現代の車輌がつかわれている。
 植民地から解放されて半世紀以上もたつのに、まだ日本にこだわり続ける台湾の異常さを感じずにはいられない。

「まずホテルにゆきましょう」
 チャングムの言葉にしたがって、宿舎のホテルにゆくことにした。
 ホテルは圓山大飯店といい、台湾でもっとも格式あるホテルとされる。蒋介石夫人だった宋美齢が国賓をもてなすためにつくらせたという。
 台北市内のやや北の丘の上に位置しているため、MRT(地下鉄)の圓山駅からは無料の送迎車が出ている。
 私たちは、ホテルに荷物を置いてからタクシーで台北の中心部にむかった。

 台北のまちには倭臭が色濃い。
 とくに西門町とよばれる一角は、日本の低俗文化を今なお模倣しつづけている。このまちは日帝時代に遊郭の多くあった萬華に近いだけあって、日本の低俗性とは縁が深いのであろう。
 なにしろ、がんらいは化外の地である。ウリナラとちがって、日帝が圧殺、略奪するほどの文化は存在しなかった。そのため日本の文化が染みついてしまったのでもあろう。

 文化といえば、台北には中国の文化財のかずかずを集めた故宮博物館がある。
 故宮は北京にもあるが、収蔵展示物は台北の方がすぐれているという。国共内戦にやぶれた蒋介石が台湾に逃げるさい、よりすぐったものを持ちこんだせいである。
 蒋は、わざわざ駆逐艦一隻をさいてこれらの文化財を運ばせたという。敗軍のなかで優先順位をわきまえないふるまいであり、朝鮮半島ではとうてい考えられない愚行である。かれが毛沢東に負けたのもじゅうぶん理由のあることであろう。
 そういったことを考えれば、中国大陸にはすぐれた文化財は残っておらず、すぐれた文化財のある台湾は日本文化に汚染されている。
 つまりは、アジアを代表する伝統文化の精髄を受けつぎ、今なお残しているのは大韓民国だけであるといっていいだろう。

 それにしても、このまちの日本への傾斜は尋常ではない。
「どこへいっても日本語の看板があります」
 チャングムが眉をひそめていった。たしかに、かのじょのいうとおり日本語を書いた看板が多い。とくに「の」という字がよくめだつ。
 この字は、ウリマルでいえば「는(ヌン)」にあたり、中国語では「的」にあたる。わざわざ日本語を使用するところに、台湾の軽薄さと日本への事大根性があらわれている。
 しかも、「の」が「e」を裏返しにしたように斜めにかたむいているものまである。ブランド品のコピーや海賊版で悪名をはせる台湾らしいありさまであろう。
「ウリナラとちがって、なにもオリジナルがない文化後進国らしいわ」
 チャングムはやっと機嫌がよくなったようである。



高雄

 翌日、飛行機で台東にむかった。
 台北市内東北部の松山空港から国内線に乗り、午後に台東についた。
 このあたりは漢民族より先住民族のほうが多いかとおもえるほどである。
「顔つきがちがいますね」
 チャングムがいうように、どこかエキゾチックな顔立ちの人がおおい。ウリナラほどではないが、けっこう美人もいる。

 このあたりに多いのはアミ族であるという。そのほかにも多くの山地民族がいるが、かれらは日帝時代、
「高砂族」
 と称された。
 日本は、純朴なかれらを洗脳し皇民化教育をおこなった。そればかりか、アジア侵略の尖兵に仕立てあげた。
 その結果、多くの高砂族が戦地にかり出され日本兵の盾となって散っていった。それにもかかわらず、日本に対して恨みをもっていないという。今なおかれらの洗脳は解けていない証拠であろう。
 むろん、この仕打ちを告発しつづける良心をもったひともいる。漢民族を父にもち、高砂族を母にもつ高金素梅さんがその代表である。
 かのじょは日帝の蛮行を問いつづけるだけでなく、何回も日本にゆき靖国神社について訴訟を起こすなど立派な意識をもった市民である。

 私は知らなかったのだが、出征した高砂族を顕彰した碑があるという。
 帰国してから調べてみると、たしかに台北郊外にあった。しかも、日本の低劣さを象徴する掲示板の2ちゃんねるの有志どもが寄付をしたという。どうやら宗主国づらはなおっていないらしい。
 無知蒙昧な住民を洗脳して戦場に駆りたてておいて、それを放置したまま碑をつくって満足するという日本人のすがたはじつにあさましいというほかない。

 その日は台東に泊まり、翌日電車に乗って高雄へむかった。
 じつをいえば、離島である緑島にゆきたかったのだが、飛行機のチケットがとれなかったのである。
「浜辺に温泉が湧いているときいて楽しみにしてたのに」
 チャングムは水着をいじりながら不満をいった。緑島にゆくには高速船もあるらしいのだが、チャングムはふねが苦手である。仕方なく予定を変更して高雄ゆきの乗車券を手配した。

 電車はときに山のなかを走り、ときに海岸線を走る。高雄についたときには、昼をすぎていた。
 高雄のまちは地下鉄工事の真最中であったため、空気が埃っぽい。
「陥没事故があったそうです」
 工事の最中にそういう事故があったらしい。地面がいきなり陥没したり、橋が急に落ちたり、ビルがいきなり崩れるような事故は、韓国ではとうてい考えられない。日本のまねばかりしている台湾の病理であろう。

 高雄には第二次大戦中日本軍の基地があった。しかも、海軍の軍港だけでなく航空隊の基地もあり、戦況が悪化すると多くの特攻機が飛びたった。
「鹿児島だけじゃなかったんですか」
 チャングムは不思議そうにきいた。ウリナラでは特攻隊の出撃基地といえば、鹿児島の知覧や鹿屋がよく知られている。
「もしかすると、アメリカ軍ではなく中国軍やソ連軍がさきに日本にせまっていれば、ウリナラから特攻機が飛んでいたかもしれないのですね」
 その可能性は大いにあった。ソウルや元山から徴兵、強制連行された韓民族をむりやり乗せた特攻機が出撃していたかもしれない。
 そのばあいは、中ソ軍の先鋒となっていた光復軍と同族相打つ悲劇がおこっていたことであろう。

 四三三八年、盧武鉉大統領は鹿児島で小泉首相と首脳会談をおこなった。
 小泉がこの高雄と同じく特攻隊の出撃基地のあった鹿児島をえらんだのは、韓国への嫌がらせであり、さらにいえば恫喝でもあっただろう。
 まことに日本人らしい狡猾さと残虐さであるといえる。

 高雄の港ではクルージングが楽しめる。チャングムがふねが苦手なため乗らなかったのだが、港のあたりはにぎやかであった。
「これ、おいしいですよ」
 チャングムは、豆やフルーツのたっぷり盛られたカキ氷をほおばっている。「婆婆冰」という店のものであり、ひじょうに人気が高いという。四二六七年創業の店であるというから、かなりの老舗であろう。
 カキ氷名人とよばれた蔡固婆婆(蔡固おばあちゃん)の味を伝えたいということで、その息子がこの店を開いたという。今の主人は三代目とのことだが、今でも蔡固婆婆の味をしっかり守っているという。

 たかだかカキ氷であり、そのようなものを七十年以上、三代にわたって墨守しつづけているというのはこっけいでしかない。ウリナラなら適度にかせいだところでさっさと店をたたんで、りっぱな学士でもめざしているであろう。
 台湾でも南のほうにゆけば、その風俗は日本人に似てゆくというが、こういったあたりはたしかに酷似しているといっていい。
 しかし、文化宗主国である韓国人からすれば、日本や台湾のこういった可憐ないじましさがいとおしくもある。

 この夜、チャングムの要望でプロ野球を観戦した。
 高雄駅前からバスで二十分ほどいったところに運動公園があり、そのなかに球場がある。券を買って入ると、内野席で応援団の男性がスピーカーを設置していた。
「バッティング練習中ですね」
 同行していた朴やんがいった。
「朴やん」
 は、以前『街道を逝く 大和のみち』でも登場してもらった。大阪で生まれそだったウリミンジョクであり、つい「朴やん」などと心安だてによんでしまうが、朴瑯泰(パク・ランデ)氏というりっぱな名前をもつ知識人である。さいわい、少し中国語ができるので今回の台湾行きについてさまざまな手配をしてもらっている。

 試合がはじまった。
 台湾の野球にも日本の影響は大きいようである。台北で食事をしたとき、テレビ中継されていたゲームでは、中込伸という日本人投手が投げていた。しかし、中華文化には「込」という漢字が存在しない。日本が不遜にも捏造した字なのである。
 そのため、その投手の背中には「中入伸」と書かれていた。
「漢字なんて旧時代の遺物にしがみつくからよ。ウリナラのすぐれたハングルならなんの問題もないのに」
 ビールをすこし飲んだチャングムが誇らしげにいっていたのをおもいだした。

 それにしても、台湾野球の騒がしさはどうであろう。スピーカーからとぎれることのないヒッティングマーチもそうであるが、応援団長がマイクを握って休みなく、
「アンダラァ、アンダラァ」
 とどなりたてている。
「何なの?あれ?」
 チャングムは首をかしげた。
「安打!安打!といっているんです。かっとばせ、という意味ですよ」
 朴やんは苦笑する。
「ウリナラじゃ、しばくぞ、ぶっ殺せとか平気でいっていることをおもえば、平和なものですよ」
 耳をふさいでいるチャングムをみて朴やんはわらった。たしかに韓国の野球やサッカーの観戦態度のはげしさに比べればかわいいものかもしれない。
「応援スタイルは日本式ですね。一九七〇、八〇年代のパ・リーグに似ているかもしれない」
 朴やんがいった。打者のヒッティングマーチがとくに日本のそれを流用しているようだともいう。とたんにかれが笑いだした
「あれは阪神のアリアスのやつですね。しかも旧バージョンのほうだ」
 阪神の主力打者のマーチが、なぜか九番打者のマーチに使われているのがおかしいらしい。

 球場のバックスクリーンは電光掲示板になっており、イニングのあいまには日本のダイキンとかいう企業の冷房機器のコマーシャルがながされていた。浴衣をきた日本人女性がうつっている。
「なんてきたないの」
 やり方ではなく、電光掲示板の画像がである。
「サムスンのモニターならウリナラの美人はもっと美しく、イルボンのブスでもそれなりにきれいに映るのに」
 チャングムはさらにいった。

 高雄市内にもどったあと、夜市にでかけた。
 市内には夜市がいくつかあるが、最大のものは高雄駅南側の六合夜市である。
 台湾人は、夜市をこのみ帰宅が深夜になっても気にしない。それどころか家族そろって夜市にゆく。
 こういった享楽的な姿勢は、その場さえよければあとはどうでもよいという刹那的なものであり、韓国人にはとうていまねのできないものである。
「あの屋台をみてください」
 チャングムのさす方をみた。夜市の東端の路上に、
「高麗泡菜」
 という文字と太極旗を看板に書いた屋台があった。キムチのことである。
「ここまできてキムチでもありますまい」
 朴やんが駆けだそうとするチャングムをとめた。なにもウリナラのキムチ以外を食べることもない。だいたい、なにが入っているかわかったものでもない。

 すこし観察してみることにした。
 現在、東南アジアでは韓国文化ももてはやされているという。そのあらわれを実際にみることができる機会ではないか。
 私たちは向かいの屋台でミルクフィッシュの入ったお粥を買い、テーブルについてキムチ屋台のようすを観察しはじめた。

 二十分経った。

 たれも買おうとしない。むこうがわにある蛇肉屋には何人か客の出入りがあるというのに、キムチ屋台の前はみんな素通りしてゆく。
「なんで誰も買わないのよ。かんしゃくおこる」
 チャングムがすこし火病りかけた。
 キムチは世界でもっともすぐれた発酵食品である。売れないはずはない。だが、あの屋台のキムチは、日本人のつくるキムチのように偽ものではないのだろうか。
 それとも、台湾人にはすぐれた味覚がないためキムチを理解できないのかもしれない。
 持参していたメッコールをチャングムに飲ませておちつかせてから、その場をあとにした。

 ホテルに帰る前に、コンビニに寄ってみた。
 自動ドアが開くと、
「歓迎光臨(ホァンインゴンリーン)」
 と、機械がいう。
「日本とおなじですね」
 朴やんが苦笑する。店内はなにやら濃厚なにおいがした。電気保温式容器のなかで、
「おでん」
 が売られていた。容器の前面には、
「黒輪」
「関東煮」
 と書かれている。
「カントダキですか」
 朴やんがわらった。「関東煮(カントダキ)」といえば、おでんをさす関西方言であるという。こんなところまで日本文化が染みついているのである。

 ホテルに帰ってテレビをつけるとウリナラ文化の精髄であるドラマ「大長今」が放映されていた。
「ウリマルでしゃべっていますよ」
 うれしそうにチャングムがいった。たしかに台詞は韓国語のままで中国語の字幕がついている。
 どうやら、高雄でも韓流はちゃんと普及しているらしい。さっき目撃したキムチ屋台の閑散としたようすはたまたまだったか、屋台のキムチが偽ものであったであったのだろう。そうおもうことにした。



倭寇の親玉

 翌日、遅めの朝食をとるとバスで台南へむかった。
 台南は、鄭成功が入植して日本が侵略するまでは台湾の中心地であったため、ふるい建物なども多い。
 バスを降りたあと、タクシーに乗って海のほうにむかった。
「ここに寄ってゆきましょう」
 朴やんが車を止めさせた。降りると、小ぶりな店屋の前であった。
「ここの(ちまき)がおいしいんです」
 看板には「再發樓」とある。チャングムはいちばんおおきい八寶海鮮粽を注文した。店のなかで食べてもよいし、持ちかえってもよい。
「車のなかで食べましょう」
 チャングムの言葉にしたがって、タクシーのなかで食べた。ちょうど食べ終えたときに目的地についた。
 延平郡王祠、という場所であった。

 十七世紀、満洲を統一した後金は清と名をあらため、中原になだれこんだ。
 当時、明王朝はあいつぐ農民反乱でよわっており、その最大勢力の頭目である李自成が北京に侵攻し崇禎帝は自縊して明朝はほろびた。
 それをみた山海関の守将呉三桂は関をあけて清軍をひき入れともに李自成をうった。その結果、満洲である清が中原の王朝となった。
 とはいえ、各地では明の皇族を推戴して反清運動がおこった。延平郡王祠にまつられている鄭成功もそのひとりであった。

 南京の大学でまなんでいた鄭成功は儒服を焼きすて剣をとった。行動をともにした父鄭芝竜はのち清朝に帰順したが成功はいこじに抵抗をつづけた。歴史の流れにさからった愚行であったといっていい。
 清のホンタイジは、中原に侵攻するまえ朝鮮に対して、
「私の先祖はがんらい新羅の出身であり、韓民族です」
 とその出自をつげ、協力をもとめた。
 清王朝の氏姓は、
「愛新覚羅」
 であり、「新羅」を愛し覚えているという意味がある。

 朝鮮はなやんだ。中国文化を尊重するためには明朝にみかたすべきだが、かつて分かれた民族の懇願をむげにしりぞけることは人倫にもとる。やむなく中立をまもることにした。清はそれに感謝して、ソウル郊外の三田渡で盟約をむすび両王朝の親和を記念する碑をたてた。
 また、清は支那を制したのち、朝鮮の恩にむくいるため毎年使者を派遣した。朝鮮はその使者を迎恩門で三跪九叩頭させて迎えた。余談だが、のちにこの門は日本からの独立を記念する独立門となった。

 さて、鄭成功である。
 かれは清に対して無謀な抵抗をつづけたが、じつはかれのなかには倭人の血が入っている。しかも倭寇の血であるという。

 鄭成功の母は、倭寇の後援者でもあった松浦氏の家臣の娘である。海商の親玉であった鄭芝竜は、倭寇の助けをえるため彼女を娶り成功をもうけたのである。
 のち彼女は鄭氏の本拠地である福州安平鎮にうつるが、芝竜の裏切りにより清兵の侵攻を受け投身自殺する。倭寇が韓半島や中国大陸でやってきた悪行と同じような目にあうと考えたのであろう。
 鄭成功は大陸でしばしば戦ったが利なく、ついに当時オランダ人の統治していた台湾に拠ることにした。オランダ人は台南のゼーランジャ城によっていたが、これをくだして追放した。成功は台湾占拠の翌年に三十九歳で病死するが、鄭氏政権はひきつづき台南を本拠地とした。

 かれは、復明運動の指導者であった唐王朱聿鍵に気にいられ、国姓である「朱」姓をたまわったため、「国姓爺」とよばれた。近松門左衛門はかれをモデルにして「国性爺合戦」という物語をつくった。
「どんな話なんですか」
 チャングムがいった。おおまかにいえば、明人鄭芝竜と日本人のあいだにうまれた和藤内(鄭成功)が、韃靼に亡ぼされた明朝を復興するというものであり、人形浄瑠璃として空前の大ヒットをし、のち歌舞伎化もされた。
 実在の人物を大胆に取りいれた娯楽劇なのだが、それでさえも日本人のもつ侵略願望がみえ隠れしているのは興味ぶかい。中国大陸に侵攻するというすじは失敗におわった壬辰倭乱のうさをはらすようでもあり、はるかな後年、日帝がたどったみちでもある。

 それにもまして近松が傲慢であったのは、韓半島をいっさい描いていないことである。
「ウリナラを描いていないんですか?なんて無識な」
 チャングムの怒りもとうぜんである。古来すべての文化が韓半島を通して日本に伝わったということを無視して物語がつくられているのである。これほど無知暴慢なふるまいは世界では類をみない。

 延平郡王祠からすこし北西にゆくと孔子廟がある。やはり文化の高いウリミンジョクはこちらのほうが落ち着く。
「もっともっとかしこくなりますように」
 チャングムがそういって手をあわせた。
「だめですよ。手ぶらでお願いしては」
 朴やんは購入した線香に火をつけてわたした。さらに香炉でなにか札束のようなものを燃やした。
「これは紙銭というものです」
 私の視線に気づいた朴やんがいった。わら半紙のような材質で表面には金箔や銀箔がおしてある。神の世界の通貨であり、これを香炉で燃やせば神の世界にとどくのだという。
 これは、願いごとを聞きとどけてもらうため神にそなえる成功報酬、みもふたもなくいえば賄賂である。

 中国人の世界観では、神の世界すら現世の官僚社会のような階層が整然としている。たんに神であるからといってなんでもできるわけではないのである。職掌も担当分野もそれぞれわかれているのであり、神であれなんであれ他者を動かすにはそれなりのもとでが必要なのである。
「なんてふまじめな世界観なのかしら。ウリナラの清廉さがほこらしいわ」
 すっかり興をさましたチャングムがいった。



埔里

 その日は、バスに乗って嘉義にゆき、そこからタクシーに乗って関子嶺にゆき泊まった。
 関子嶺は台南の北東にあり、温泉郷として有名である。台湾には温泉が多いが、とくにここの温泉は泥湯でしられている。
「これ以上美人になったらどうしよう」
 そういいながらチャングムの頬は緩みっぱなしである。文字どおり「美人之湯」があり、泥パックで美容によいという評判である。

 翌日は、車に乗りさらに北にむかった。途中で鉄道の線路と交差した。
「阿里山森林鉄道ですね」
 朴やんが地図を広げていった。右手のほうには阿里山が遠くにみえる。そのむこうがわにひときわ高い山が見えた。玉山である。
 台湾の最高峰であるこの山は標高三千九百五十二メートルであり、日帝時代は日本の領土内でもっとも高い山であった。そのため、
新高山(にいたかやま)
 とよばれた。
 太平洋戦争の劈頭をかざった真珠湾だまし討ちにおいて、開戦の暗号は、
「ニイタカヤマノボレ」
 であったが、この山にちなんでいる。青山里や鳳悟洞で大勝した光復軍に代表されるように、日帝に対してねばりづよく闘争をつづけたウリミンジョクとちがって、骨の髄まで日帝の洗脳を受け侵略の手先となった台湾人にふさわしいはなしである。
 余談となるが、いまでも靖国神社には阿里山の檜がつかわれているという。もし日本の自衛隊や海上保安庁に殉職者が出た場合、かれらの位牌もその檜でつくられ祀られることであろう。

 車はさらに北上する。
 運転手はたえず何かをかんでおり、時おり窓の外にぺっと吐く。何をかんでいるのかきくと、
「ビンラン」
 といった。 檳榔(ビンロウ)の熟していない実を割って練り石灰と包んだものであり、ちょうどかみ煙草のようなものである。
 かんでいるとつばがわく。それを路上に吐き捨てるのである。
「ペンキじゃなかったのね」
 チャングムが合点のいった表情でいった。路上がところどころ赤くなっていたのは檳榔をかんだつばを吐き捨てたせいであったのである。
 こんなところにも台湾の民度の低さが出ているといっていい。ウリナラでは古来、路上につばどころかちりひとつ落とすことはなかった。朝鮮時代には各家庭にトイレも普及していたし、日本のように良家の婦女子が路上で堂々と用を足すようなことはなかった。

 埔里についた。
 山のふもとにあるこのまちは台湾随一の水質をほこり、紹興酒の名産地として知られている。日帝時代は製紙業もさかんであった。
 紹興酒を製造している埔里酒廠をおとずれた。
「紹興酒って紹興でつくっているんじゃないんですか」
 チャングムの疑問ももっともである。本来紹興酒とは中国の浙江省紹興市付近でつくられる黄酒だけをさす。
「それじゃ、ここの紹興酒ってパチモンじゃない」
 たしかにそうである。なにやらコピー商品、海賊版商品で悪名の高い台湾らしさがよくでており、むしろゆかいですらある。
 この酒廠では、紹興酒でつくったアイスキャンデーも売っている。チャングムが買って食べた。
「う゛ー。まじゅい」
 売店の店員の前ではっきりといいきった。ものごとに怖じず、他人の家で食事をよばれてもまずいといいきるウリミンジョクらしい率直さである。礼儀の正しさでは韓民族の右に出るものはいないといわれているとおりであろう。

 朴やんによると、有名人がこのまちの出身であるという。
「政治家ですか」
 わたしの問いに朴やんは首をよこに振った。軍人でもなく芸術家でもない。
 野球選手であるという。

 陳大豊というその人物は、日本にわたり大学をへて名古屋を本拠とする中日ドラゴンズに入団した。
 登録名は「大豊泰昭」といい、台湾の大先輩である王貞治そっくりの一本足打法によって本塁打を量産し本塁打王のタイトルも獲得した。いまは名古屋で中華料理店をいとなんでいるという。
「すばらしい選手でしたよ」
 朴やんはそういったが、すこし疑義もある。
 それは、かれの活躍した時代の本拠地が異様にせまいナゴヤ球場であったことである。
「せまい球場でいくらホームランを打っても意味はないわ。イルボンらしいせせこましさね」
 チャングムがほおをふくらせた。しかし、せまいといえば、韓国の球場もそれにおとらずせまいのである。ここはあまりふかく考えるところでもないであろう。
 そういったことよりも大切なのは、大豊を開花させたのがウリミンジョクのコーチであったということである。日本最高の打者であった張本勲こと張勲の臨時コーチをうけて大豊は長距離打者となったのである。また、張本は大豊だけでなく松井秀喜の恩師であることも知られている。

 日本の野球には無数のウリミンジョクが貢献してきた。そのことはいまもなおかわらない。
 宣銅烈や李承だけでなく、張勲や金田正一こと金正一がかずかずの大記録をうち立て、さらには指導者として数多くの日本人選手をみちびいた。
 金田正一は評論家時代の一九七九年春、ロッテオリオンズの春季キャンプで、ドラフト三位で入ってきた打者の打撃練習をひとめ見て、
「あれはプロでは使いもんにならん」
 といいきった。それをきいた山内一弘監督はわが意を得たりとうなずいて、背番号六のその選手をすぐに二軍に落とし、二年間重用しなかった。山内もすぐれた打者であったのだが、金田の眼力とそれへの信頼をものがたるものであろう。
 日本は、ウリミンジョクがなくては野球の宗主国づらもできないという事実を、もうすこし謙虚にみつめるべきではないか。

 この日は、台中までいって泊まった。
 台中も古都である。鄭成功がくるまでは首邑であったといっていい。ウリナラでいえば新羅の古都である慶州ににているだろうか。
「たかだか五百年かそこらの歴史しかないくせに、古都なんておこがましくて」
 チャングムがわらった。しかし、半万年をかぞえるウリナラの雄大な歴史とくらべてやるのは酷であろう。アジア的な優しさであたたかくみてやるべきではないか。
「先生がそうおっしゃるなら、アジア的優しさで寛恕いたしますわ」
 チャングムはおもいのほか機嫌がよい。夜市でソフトクリームを堪能したせいであろう。
 たかだかソフトクリームとおもってはいけない。霜淇淋(シュァンチーリン)という名前のそれは、なんと五〇センチもの高さがあるものなのである。
 それをみたとき、わたしはなぜか下をむいてため息をつき、
「九センチ」
 とつぶやいてしまった。


台北へ

 台中でとまった次の日は、さらに北上した。
 次にゆく新竹は、台湾のシリコンバレーとよばれるほど先端工業のすすんだ土地である一方、ビーフンの産地としても有名である。
「ってことは、ウリナラの下請けね」
 勝ち誇ったようにチャングムはいった。

 今回は鉄道である。
 台中駅の窓口で朴やんが切符を購入した。
「給我三張去新竹車票、九点一刻発車的自強号」
 自強号とは特急の名前である。九時十五分発のそれにのるという。
 列車は時刻どおりにホームに来た。
「東南アジアの後進国って時間にいい加減じゃなかったの」
 チャングムがおどろいた。こういった点でも台湾は日本をまねているらしい。
 乗車券にしるされた指定席に着くと、朴やんは前の席の背についているホルダーに乗車券の控え――日本の鉄道の切符ほどの大きさ――をいれた。
「もし、わたしたちが寝ている間に車掌が改札にきた場合、これをみてくれるんです」
 そうすればおこされる心配はない。まことに気のきいたことであるが、ウリナラの列車には不要であろう。
 KTXの後ろ向きの座席で眠れるような人間はいないからである。

 しばらくして女性車掌があらわれた。改札ではなく、両手に何かがはいったビニール袋をさげ、
「便當、便當」
 といっている。「便當」は「ビェンタン」であり、ようは車内弁当の販売である。これも日本文化の影響であるという。
 前の席の客が買っていた。ふたを開けたのをのぞきこんでみると、豚肉をあげた「排骨」や野菜を煮たものがはいっている。
「どうしてキムチがないの!」
 じつに残念なことといわざるをえない。

 新竹についたときには昼前であった。
 チャングムは車内で弁当をみたせいで空腹をおぼえているようだ。駅の北出口からすこし西のほうに歩くと猥雑な一角があった。アーケードのような屋根もあり、ちょっとした屋台村である。
「関帝廟ですか」
 朴やんがいった。ここの中には多くのビーフン屋台もあるというのではいってみた。やや薄暗いなかを歩き、一軒の店に腰掛け、ビーフンを注文した。
「おいしいけど、やっぱりウリナラの冷麺(ネンミョン)が最高ね」
 チャングムは、三杯もたいらげてからそういった。

 腹ごなしにアーケードのなかを歩いた。ここの関帝廟も他の廟とおなじく原色をふんだんに使用しているため色彩がどぎつい。
「ウリナラのおだやかさにはとうていかなわないわよね」
 チャングムのいうとおりである。韓国の色彩感覚は調和を特徴としているため、最近、そのファッションが世界でも人気が出てきた。中華文化のようなどぎつさをそのまま受けいれず、ウリミンジョクにあうようにうまくつくり変えたのがよかったのであろう。

 関帝廟のアーケードを出て歩くと、使われていない体育館を改造した屋台村にぶつかった。山地の少数民族らしき夫婦が、串にさした肉を焼いている。
 近づいてみると、
「山猪肉」
 とあった。いのししのことである。ウリナラと同じく中国では豚を猪という。そして、いのししは山猪というのである。
「これ、おいしいですよ」
 チャングムがもう買っていた。その声はなぜか陽気である。みると、片手に、白い液体のはいった五百ミリリットルほどのガラス瓶をもっている。その屋台で売っていた、
「小米酒」
 であった。粟(アワ)を原料にした酒である。ややあまく炭酸のあじがする。
 すっかり酔っぱらってしまったチャングムを、朴やんといっしょにかかえてバスにのり、台北へむかった。
 バスは、
「飛狗汽車」
 といい、都市間をむすぶ長距離専門のバスらしい。車体には犬の絵がかかれている。バスは一時間半ほどで台北市内にはいった。終点は台北駅前である。
「んー、どこですか、ここ」
 チャングムはようやく起きたらしい。

 タクシーに乗ってホテルにゆくことにした。
「請去国賓飯店」
 朴やんが助手席に乗りこんで、運転手にそういった。
 朴やんは、運転手のことを、
「運匠(ウンチャン)」
 といった。日本語の「運ちゃん」からきているのだときいたことがある。まことに、肉体労働を蔑視する民度のひくい日本人らしい言いかたであり、それをなんの疑問ももたずにまねている台湾の事大根性がすけてみえるようなはなしである。
 ウリナラでは、伝統的に肉体労働者や職人に対する差別的な感情はない。高麗青磁をつくりだした陶工たちが厚遇されていたのが好例であろう。

 台湾はウリナラとおなじ右側通行である。そのため道路のようすが見やすい。
 チャングムがややろれつのまわらない口調でいった。
「ちまちましてるわねぇ」
 進路変更のさいにいちいち方向指示器を出すことがである。ウリナラではそのような手間をかけず、さっと割りこんでゆく。交通法規がどうとか言うむきもあるが、人間が基本、主体であり、法律などは人がいくらでもかえうるものであろう。
 十分ほどで国賓飯店についた。この前に泊まった圓山大飯店のような豪勢なところではないが、有名な中堅ホテルであるという。
 チェックインをして、エレベーターに乗り部屋にむかった。エレベーターの中で、
「ケーキを買いにいきましょう」
 と、チャングムが瞳をかがやかせながらいった。右手にはガイドブックが握りしめられている。
 結局、部屋に荷物をおいてすぐ集合し、外出することになった。

 チャングムの願いをいれて、部屋に荷物をおいたあとすぐロビーで集合した。
「こっちです」
 チャングムの先導にしたがって中山北路を南にゆき、最初の角を左に曲がって南京東路を東へ歩く。
「あれですぅ」
 チャングムが指さす方向は、林森北路との交差点であり、ちょうど対角にファストフードらしきものがみえた。モスバーガーであった。モスのケーキというのは寡聞にして知らない。
「ちがいます。さぁ、いきますよ」
 どうやらちがったらしい。交差点に設けられた地下道に降りて進んだ。階段をあがると南京東路の南側に出た。さっき見たモスバーガーは交差点の南東であるが、ここは南西の角である。そばには交番があった。
「あそこです」
 チャングムの指示にしたがって南北に通る林森北路を南にすこしゆくと、
「李製餅家」
 という店があった。
「日本のケーキ屋みたいですね」
 朴やんがいうように、ガラスばりのウィンドウがはり出しておりケーキが展示されている。
 といっても、種類はひとつしかない。「鳳梨酥」というパイナップル風味のバタークッキーである。
 この店は手づくりの鳳梨酥で、台湾どころか日本にも知られており、チャングムの読んでいたガイドブックにも紹介されていたのである。
「チャングムさん、どれほど買いますか」
 朴やんがたずねた。
「んーとねぇ、いっぱぁーいっ」
 だらしなく頬をゆるめているチャングムをとがめるのはやぼというものであろう。
 チャングムは二十四個入り(二百二十元)の箱を三つ買った。結果からいえば、そのうちの二箱はチャングムがたいらげてしまったのだが。

 そのまま、林森北路を南下した。
 このあたりは飲み屋が多い。ちょうど開いている店があったのではいった。
「両杯生[口卑]酒」
 朴やんが指を二本つき出していった。チャングムがほおをふくらせる。
「わ、わたしだって飲むもん」
 あわてて朴やんが「給我們三杯[口卑]酒」と言いなおした。
 あては、ホタテの刺身、豚の冷しゃぶと青菜いためである。
 ふと見あげると、テレビでは野球中継をやっていた。なんとNHKである。阪神タイガース対広島東洋カープの試合であるが、解説がみょうに軽薄な調子であるのが気になった。
「この声は広澤克実ですね。かれはサービス精神があるのですが、ここまでうかれた調子なのははじめて聞きます」
 朴やんがうなった。わたしは広澤という人がどんな人かは知らぬが、そのゲームでウリミンジョクの選手が活躍しているせいで昂奮しているのだろうとおもった。
「うんうん。日本プロ野球選手の八割はウリミンジョクですしねぇ」
 ビールのせいなのかチャングムが大声でいった。

 店を出たあと、林森北路の向かいがわ――東側――にわたり路地に入った。
 赤い提灯を軒下に数個ぶらさげた店がある。看板には、
「台南大胖擔仔麺」
 とある。
「ここの担仔麺がおいしいです」
 朴やんがいった。むかしながらの小ぶりな椀と低いテーブルがいいという。
 席にすわり、担仔麺と豆辨虱目魚(蒸したミルクフィッシュ)を注文すると、朴やんはカウンターにゆき、ガラス戸の冷蔵庫からビールびんをもってきた。
「ウリナラでもこういうのはあったでしょう」
 たしかにこういうざっくばらんな形式はいまでもある。
 担仔麺は一杯四十元(約百五十円)である。
「もう一杯!もう一杯!」
 小ぶりな椀に入っていることもあり、チャングムにはものたりないようである。店のおかみが笑いながら応じてくれた。

 食事をおえたあと、歩いてホテルにもどった。
「先生、夜市に行っちゃいましょう」
 そういうチャングムの頬はまだすこし赤い。朴やんが止めようとしたが、かのじょの明るい表情についつられて承諾してしまった。
「いいんですか」
 朴やんは心配そうである。しかしいったん口に出した言葉を撤回してはならない。正直さを美徳とするウリミンジョクにとって、そのような恥知らずなまねはできないのである。

 シャワーを浴びたあとロビーに集合した。腹がまだこなれきっていないというチャングムのために、MRTの駅まで歩くことにした。
 MRTとはひらたく言えば地下鉄と同じである。現在、台北市内に六つの路線があるが、一つをのぞいてすべて電車形式である。例外である一つは高架路線を走りモノレールのようなゴムタイヤを使用しているという。
「どうしてそんなことになったのですか」
 わたしの疑問に朴やんは明快に答えてくれた。
「その一つだけがフランス式でつくったんです」
 ところが、李登輝総統の政策もあって二つ目以降を日本式に切りかえてつくったのだという。
「フランスのほうが優秀ですよね」
 チャングムが勢いこんでいった。酔いはすでにさめているようだが、優秀なKTXのことが念頭にあったのであろう。
「それが、不評なんです」
 朴やんはすまなさそうにいった。よくゆれるため市民の評判はよくなく、それが日本式に切りかえた一因でもあったという。
「なんだ、そうですか」
 予想に反してチャングムは冷静であるどころか、むしろ誇らしげでさえある。
「台湾みたいな二流国家がフランス方式を採用するなんて、どだい無理なことなのよ。やっぱりウリナラのような優秀な国家でないと、フランス式はものにできないのよね」

 話しているうちに駅についた。切符を買い改札機をとおる。切符はテレホンカード状のものであり回収後も再利用しつづけているという。
 十分とたたないうちに剣潭站についた。

 駅の出口は北方面の一つしかない。左前方の道路をわたれば屋台街がある。かつては駅の北側に林立していたのだが、数年前に現在の場所に移転しひとまとめにされた。
 さまざまなみせがひしめいており、なにから食べていいものやら目移りしてしまう。チャングムはアイスやジュースなどを手当たりしだいに買っている。
「ゆっくり腰をすえましょう」
 朴やんの提案で、オムレツ屋のテーブル席にかけ、いろんなものを持ちよって食べることにした。
 オムレツといっても牡蠣のはいったものであり「[虫可]仔煎(オアチェン)」という。親指ほどの小ぶりな牡蠣が入っておりウリナラにはない味である。
 ただ難をいえばソースが甘いことである。ウリミンジョクとしてはコチュジャンのような辛いものが必要であろう。

 食事をおえたあと、屋台街を出て、駅北側の旧屋台街にむかった。
 食べ物をあつかう屋台のほとんどは移転してひとまとめにさせられたが、ものを売る屋台はすべてこちらに残っている。
 屋台にならぶキャラクターグッズの多くは日本のものであり、看板には日本語がかかれている。なかには、
「しヽらっしやしヽません!」
 というのもある。いらっしゃいませ、のつもりらしいが、これではいらっしゃいませんである。
 しかしこれほど日本文化に汚染されているとはいえ、台湾は中国のものなのである。民族のきずなは断ち切れるものではない。

 台湾はとおからず中国にもどるであろう。東西ドイツや南北イエメンもそうであるが、分断された民族がひとつになるということはまことにめでたいというほかない。
 しかし、ウリミンジョクの場合は大国のつごうによって翻弄されてきている。和解と統一のためには民族自身の意志とちからも必要だが、身勝手にわれわれを振りまわしてきた大国どもがその罪を反省し、謝罪のしるしとして資金やインフラなどの援助をおしむことなく献上してくるべきであろう。
 とくに日本は、民族の誇りを踏みにじった植民地支配と、連合国に事大して分断にくみした罪がきわめて大きく、いくら謝罪したところで道徳的な罪は永久にきえることはない。である以上、せめてあらゆる資産をなげうって賠償しつづける責務がある。

 夜市の喧騒のなかで、そのようなことをふとおもった。



かおりん「今度は台湾ですか」

にゃも「2005年7月の訪台がベースとなっているけど、それ以前の訪台のときのネタも少し混じっているの」

かおりん「高雄のキムチ屋台の話はネタなんですか?」

にゃも「いえ。本当よ。作者は文中にあるように虱目粥を食べながら観察していたの。あと野球観戦も本当よ」

かおりん「ってことは中込の字の話も捏造じゃないんですね」

にゃも「中込の他にも、『榊原』『辻』『畠』は日本製の国字だから向こうにはないのよ。元阪神の榊原良行さんが台湾のチームでコーチをしていたときは『神原』って書かれてたわ」

かおりん「!(榊さんは神さまなのね)」

にゃも「どうしたの?顔が真っ赤よ」

「い、いえ何でもありません。ところで野球と言えば金田正一の話は何なんですか?」

にゃも「いちおう本当みたい。玉木正之が元ネタじゃなかったかしら。一九七九年、つまり一九七八年度のロッテオリオンズ、ドラフト三位指名入団選手ってのは誰でしょうね♪ヒントは背番号六」

かおりん「……あの人ですか。3回三冠王を獲った…」

以下、急に思い出したので2009年4月17日追加

にゃも「それと、コンテンツ作成時に書くのをすっかり忘れていたんだけど、台湾の鉄道に現代の車両が使用されているのは事実なんだけど、おもしろい話があるの」

かおりん「おもしろい話ですか?」

にゃも「ええ。2年前作者が偶然知り合った新幹線の運転士から聞いた話なんだけどね。普通列車用の車両の入札のとき、現代が安値を提示して、某国のメーカーを抑えて落札したのが発端」

かおりん「…某国がどこかは訊きませんよ。わかりきってますから」

にゃも「ところが、安物だけあって長持ちしない。扉の部分が特にひどい。それでメンテに出そうとしたら、そのときには現代車両は台湾を撤退していたの」

かおりん「車両のメンテだけで韓国までわざわざ運ばなきゃならなくなったんですね」

にゃも「もちろん、そんな不経済なことはできないわ。そこで仕方なく、車両同士で部品を融通し合って補修することにしたの」

かおりん「…『共食い』ってやつですね」

にゃも「そういうこともあって、その運転士さんは台湾では絶対に現代の車両を使った列車には乗らないようにしているんだって」

かおりん「……」

にゃも「さらにその運転士さんは、台湾新幹線の導入にも参加していて、何回も訪台して技術指導などをしていたんだけど、日本の新幹線システムを丸ごと採用したわけでない台湾新幹線には不安もあるって言ってたわ」

かおりん「どういうことですか?」

にゃも「『新幹線』ってのはね、車両や線路といったハード面だけでなく、ダイヤグラムや運転士の管理運営といったソフト面も合わせて一つのシステムになっているのよ。台湾の場合、日本新幹線だけでなくフランスやドイツの部品なども使っているわけだから、運営システムだけでなく部品の安全基準に統一がとれていない面があるのよ」

かおりん「ドイツ製の転轍機(ポイント)は、ドイツ基準で耐久性の安全値をクリアしていても、日本新幹線を走らせた場合にはそれがどこまで保証されるかわからないといった具合ですね」

にゃも「そうなの。そういう意味ではKTXより危ない面があるかも、と心配していたわ。幸い今のところは無事運行されているようだし、よかったわ」

かおりん「その運転士さん、KTXについても何かご存知でしたか?」

にゃも「もちろんおっしゃってたわ。KTXを悩ませたいわゆる『トンネルドン現象』の解決のために、韓国当局がJR東海に協力を求めて蹴られた話があったのは知っているわね?」

かおりん「はい。でもその後なんとか解決したはずですが」

にゃも「運転士さんによると、JR東海は公式には協力要請を蹴ったものの、技術者が『個人的に』技術協力を行なったらしいんだって」

かおりん「…本当かどうかは判断しにくいですけど、ありそうな話ですね」

にゃも「ええ、作者も裏を取ってないけど、いかにもありそうな話ではあるわね」


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