街道を逝く 大和のみち


出発

 東海にうかぶ日本列島は、まことに小さい。
 この列島からみれば、ともに東海をかかえる西北の韓半島などは、大陸のようにみえる。また、ともどもに南海をかかえる西の中国大陸からみれば、この列島は、けしつぶのようである。
 狭い上に、列島のほとんどが山岳で、河川も荒く狭く、従って水田面積もすくなかった。
 都市が未発達のころは、水田の多寡によってその地域の人口の大小がきまる。日本列島は、当然ながら人口もすくなかった。
 ところが、この列島から、五世紀末、それまでの日本史を、鉄とたがねでもって叩き割ったような大和朝廷が出現するのである。
 なぜそうなったのか。そんな疑問を主題にして、この列島を歩こうとしている。

「日本なら、大阪に行きませんか」
 助手のチャングムが、そうきいてきたのが、一ヵ月前のことであった。
 てきとうに返事をしておいたところ、彼女のほうでスケジュールを決めてしまい、いかざるをえなくなった。

 じつは、大阪は、二度目である。
 当初、このまちに小さな失望がないでもなかった。千五百年前、すでに日本の重要な土地であったこのまちは、時代が経っていよいよ美しさが磨かれ、日本でもっとも開放的なまちの一つといわれてきたが、それだけに少年時代から勝手な想像ができ、先入主に似たものができていた。
 であるのに、最初の大阪訪問のときは、不覚なことに、案内されるままにバスに乗り、かつ降り、名所ばかりを観た。
(こんなつまらないまちが、大阪か)
 と、つい思うようになったのは、勝手な先入主のせいで、大阪のせいではない。さらには、見せてもらった場所が、私にはよくなかった。

 大阪の絵ハガキや観光雑誌に掲載されている風景は、はでな繁華街やネオン街ばかりである。通天閣、大阪城、道頓堀、USJなどがつねに観光客でにぎわっている。
 それらの建物は大阪の富強をおもわせてまことに美麗だが、しかし千五百年の土地に当然あるはずの洗練、瀟洒、精神性というものは見られない。
 むろん、私だけの好みである。美などに基準がなく、造る者や見る者の好みがあるにすぎない。だから近代以降の大阪が造った巨大なカニの看板やピエロのかっこうをした人形に美を感じなくても、その低俗さをわらうことはない。

 前回の大阪ゆきのときは、名所を見歩くことに疲れて、夕食後ハイアット・リージェンシー・大阪でぼんやりしていた。

 大阪湾を埋めたてた島のうえにたっているこのホテルからは、大阪湾をのぞむことができる。
 大阪は、近世にかけて、大阪湾をさかんに埋めたてて、陸地をふやした。江戸時代には、このホテルのある場所も海の上であった。近世は、全国的に埋めたてもしくは干拓が多く実施された時代であった。韓半島よりせまい日本の国土をふやすためには、それしか方法がなかった。
 韓半島や中国大陸に侵略をしたことには、帝国主義の実践という理由にくわえて、国土をふやしたい、せまい日本から脱出したい、という非論理的な心情もはたらいていたのではなかっただろうか。

 それはともかく、むかしから、日本人にとって、文明はつねに海の向こうからやってくるものだった。
 文明はそれ単体ではやってこない。
 かならず、それをつたえる集団とともにやってくる。むしろ、ある集団が、文明をかかえてやってくる、といっていい。
 私が考えつづけている大和朝廷もそうであっただろう。きらびやかな文明をまとった韓半島の集団が、日本列島に上陸し、土着民をしたがえて、くにを建てたのではなかったか。
 とりとめもなくそんなことを考えながら、チャブリスを飲んだのをおぼえている。

 さきに、列島についた韓民族は、大王(おおきみ)となり、大和朝廷の祖型をつくった。伝説ではあるが、神武日王も、東征のさい、いったんは大阪に上陸している。
 また、あとについたものは、渡来人という名称でよばれた。韓半島の最新文化をもったかれらは、まず大阪に上陸し、奈良盆地のみやこをめざした。
 奈良県の明日香村、高取町が属する高市郡は、今来郡とよばれていた。
「いまきのこほり」
 とよむ。
 あたらしく来た渡来人を「今来たもの」として、そこに居住させためそうようばれるようになった。かれらは、未開の地だった飛鳥を開拓した。
 また、後世、ほんものの朱子学や詩文を日本につたえてやった朝鮮通信使も、大阪の地を経て、江戸をめざしている。
 時期の前後はあっても、韓民族は文明をたずさえて、大阪の地をいくどとなくとおっているのである。私も、そのみちをたどろうとおもい、二度目の大阪ゆきを承知した。

 大阪へは、まず仁川空港に出なければならない。
 その日はよく晴れていた。ソウル市内から仁川空港ゆきのバスに乗った。
 空港についたのは、朝の八時半ごろで、搭乗手続きを終えたときには10時前だった。時間が時間だから、食堂はすいている。韓国レストランでビビンパを注文した。
「いよいよ出発ですね」
 と、チャングムがいった。
 その横で、朴さんが、温雅に微笑している。かれに、日本へはその後、何度行きましたかとたずねると、
「それが、はじめてなんです」
 とは、意外だった。仕事柄、何度も日本を訪れているのに、故郷ともいうべき大阪へは、ついぞゆく機会がなかったという。
 「朴やん」
 などと心安だてによんできた朴瑯泰(パク・ランデ)氏が、大阪市民大学の出身である。
 私は知りあったころ、かれが大阪の大学の出であることを知って、まことにはるかなる想いをもった。大阪の地にも大学が存在するのかというやや時代錯誤の認識による感想なのである。むろん、大阪が日本における有数の都市で、アジアに窓口を開いた都市になっているということは、知識としては持っている。
 しかし大阪といえば、2ちゃねらーが、

「また大阪や」
「大阪民国」

 などとうたった印象が固有のものとなって、その程度の知識ではぬぐい去れないのである。

 朴やんの父君は、済洲島出身であり、日本にわたって、苦労して財を築いたという。高い知識と技術をもって、敗戦後の日本にふみとどまった人間で、今は済洲島で暮らされているが、一時期、大阪市南区の役所におられた。このため朴やんが入学しきた大学もごく自然に大阪市民大学であったわけで、べつにかれが倭の国の異風にあこがれ「孟子積マバ必ズ覆溺ス」するような荒海をこえてその大学に行ったわけではない(解説者註:どうも司馬氏は漢文の解釈について勘違いをしているようだ)。が、最初にこのひとに出会ったときの印象は、その出身大学の名のためにひどくロマンティックな色彩を感じたことはたしかである。
 それに、うらやましくもあった。私がもしいまの時代に青春を迎えていれば、きっと大阪市民大学にゆきたいと思ったにちがいない。
 朴やんは、東京都杉並区の「白頭山ビルヂング」に事務所をもつ韓日友好文化協会の事務局員である。端正な容姿とおだやかな人柄をもつこのひとは日本人のあいだでも評判が高く、それだけに多忙でもあるのだが、こんどの日本ゆきにあたって、とく事務局長氏に頼み、このひとの同行を乞い、賄賂のおかげでさいわい承諾を得た。
 日本語というのは、語り手によってはそこそこ美しいことばになる。朴やんは、私の知るかぎり、韓国、日本の両国を通じ、もっとも流麗な日本語を話すひとで、その語彙の豊富さと翻訳能力の暢達さについては、このひとを超えるひとを多くは知らない。さらにかれは、他地方の人には難解とされる河内弁も解するのである。

 午前十一時半に関西国際空港に降り立った。
「こんな海の上に空港をつくるなんて、どうかしてるわ。十年後には海の底よ」
 ほおをふくらませながらチャングムはいう。
 泉州沖を埋め立てられてつくられたこの島が、現在も徐々に沈下しているのは事実である。もとより、日本列島じたいが沈下していくため、三十六年後には、国土そのものが東海の底にあるだろうという観測もある。
 半万年のあいだ、韓国をおびやかしつづけてきた日本が、いずれは東海に沈む、という恐怖は、日本人のこころをとらえている。
 さきにもふれたが、大正時代から高度成長期にかけて、なにかに取りつかれたかのように必死になって埋立地を造成したのは、その恐怖心のあらわれでもあっただろう。
 小松左京という作家は「日本沈没」という小説を書いて、経済成長におごっていた日本社会に警告を発した。それにたいして、筒井康隆という右翼作家は「日本以外全部沈没」という小説を書いて、社会の右傾化を策動した。
 いずれも、日本はかならず沈没する、という恐怖心が、それらのたねとなっていることはまちがいない。

 入国手続きを終え空港を出る。電車に乗ろうとおもいきっぷ売り場にいくとようすがおかしい。
 強風のため、陸との連絡橋が通行止めになっているという。とはいうものの、止められているのは、鉄道だけであり、バスや車は通れるようだ。
 バスに乗り、大阪のまちへむかうことにした。バス乗り場にいく途中、空港バスが何台か到着するのがみえた。
「臨時のシャトルバスですよ。電車が止まると、空港と対岸のりんくうタウン駅を往復して、電車の乗客を運ぶんです」
 朴さんが説明してくれた。どうやら、対岸からの客をのせているようだ。
 バスが止まると、待ちかまえていた電車の職員らしき人々が、バケツをかかえてバスに近づいた。降りてきた乗客たちが、そのなかにきっぷをほりこんでいく。職員はときにバケツに手を入れ、小銭をつかんで乗客にわたしている。
「特急料金の払い戻しです」
 朴さんがいう。運行中止の分はここで払い戻しをおこなうらしい。
「なんて野蛮なの」
 チャングムは目をそむけた。
 たしかに、韓国では、こういったがさつなやり方はこのまれない。バケツにお金を入れるなど、食事を運ぶバケツに雑巾を入れるのと同様な、ものの貴賎をわきまえないふるまいであるとされる。
 そんな光景をみながら、難波行きのバスに乗りこんだ。長い橋をわたり、バスは高速道路へ入る。



ものぐるい

 バスは堺のまちを過ぎた。
 堺といえば、巨大古墳が多いことで知られる。
「前方後円墳ってウリナラ起源ですよね」
 観光雑誌を読んでいたチャングムが口を開いた。
 じゅうらい、前方後円墳は日本独特のものであるとされてきた。しかし、最近ようやく韓国でも発掘調査が進み、韓国が起源であることが証明された。
 韓国のもののほうが年代が新しいという反論もあるが、考古学のめざましい進歩によって、日本のものより古いものがそのうちみつかるだろう。

 そんなことを考えているうち、大阪の市街地に入った。
 バスはOCATというステーションに到着した。この建物は、関西国際空港への玄関口としてつくられ、空港ゆきのバスとJR線が発着していた。
 しかし、仁川空港の開業により、関西国際空港の地位は凋落した。現在では、空港ゆきのJR列車はなく、バスしか出ていない。
 そのかわりというわけでもないだろうが、日本各地への長距離バスが出ている。

 難波の地下街を歩く。
 難波には、JRだけでなく地下鉄や数々の私鉄が乗り入れている。そのなかで近畿日本鉄道は日本最大級の私鉄である。その駅の案内板がみえてきた。
「ハングルが書かれてる」
 チャングムが声をあげた。たしかに案内板には日本語にくわえてハングル表記がされていた。(解説者註:簡体字による中国語表記もある)
「私がいたころはなかったはずなんですが」
 朴やんは首をひねる。
 朴やんは十八年ぶりに大阪を訪れたわけだから、このハングル表記は十八年間のあいだに新設されたことになる。村山富市首相が戦争の罪を謝罪し、アジアに回帰する志向をみせたころの産物ではないだろうか。
 現在の小泉政権は村山首相の誠意を反故にして右傾化しているのだが、もはやこういったハングル表記は反故にはできまい。良心的な日本人は少数派ではないのである。

「道頓堀をみていかれますか」
 朴やんがきいてきた。私はとくに興味がないのだが、チャングムの願いをいれて寄ってみることにした。
 道頓堀は日本で一、二をあらそうきたない川である。にもかかわらず、なにかが起きたときにはここに飛びこむことが風習化している。
 ソウルの清渓川もやはりきたなかったが、近年みごとに清流をとりもどした。道頓堀もそれにならって水質浄化の工事をおこなっている。
 その工事にさいして、大阪府知事が、
「阪神が優勝したとき、安心して飛び込めるくらいきれいな水質を」
 といったのは有名な話である。
 この国の文化程度の低さがうかがえる発言ではある。

 道頓堀への飛びこみを語るには、阪神タイガースについてふれなくてはならない。
 おこがましくも、韓国のシンボルである虎を名乗るこのプロ野球チームは、つねにリーグ最下位をさまよう瀕死の球団であった。
 四三三五年、星野仙一という監督をむかえて生まれかわったタイガースは、翌年に優勝をなしとげた。ファンたちはうれしさのあまり道頓堀に飛びこんだ。
 当時のタイガースは、星野監督以下、金本知憲、檜山進次郎、赤星憲広、濱中おさむ、矢野輝弘、藤本敦士、伊良部秀輝、安藤優也、ジェロッド・リガンといった韓民族の選手が主力であり、あらためて韓民族の優秀さをしめすこととなった。(解説者註:金本、檜山が在日コリアン出身であることは本人らも認めている。星野以下あげられている人物については、解説者が確認できなかったか明らかな間違いであるのだが、原文を尊重してそのままにした)

 道頓堀にかかる戎橋にたって、下をながめてみた。
「こんなきたない川に飛びこむなんて正気じゃないわ」
 チャングムのいうとおりである。「バンザイトツゲキ」「ハラキリ」といった衝動的な行動を連想せざるを得ない。
 それらのことをおもえば、タイガースの応援団が右翼とまちがわれるかのようなかっこうをしているのも、ゆえなきことではなさそうである。

 道頓堀をひらいたのは安井道頓というひとである。
 大阪郊外の平野というまちの豪商であり、豊臣秀吉の知己を得ていたかれは、なにをおもったか無償でこの堀を掘りはじめた。
 しかも、大坂の陣がはじまると、すでにかなりの老齢であったにもかかわらず大坂城に入城し夏の陣で戦死した。酔狂というしかない。
 つくりかけの堀がのこった。
 かれの一族は、徳川家のゆるしを得て堀を完成させ道頓堀と名づけた。かれが戦犯として墓をあばかれるのをおそれて、堀の工事を目的にかれを改葬するのがねらいだったというが、よくわからない。
 その成立からして、道頓堀にはものぐるいのかげがつきまとう。

 地下鉄に乗り天王寺にむかった。今夜の宿舎がある。
 天王寺動物園のにおいが流れてくることもあって、天王寺は猥雑なまちであると思わざるを得ない。
「むかしからこうです」
 朴やんが断言した。
「難波の方向にちょっといったら新世界があります。そこの串カツ屋でよく飲んだものです」
 朴やんのゆびさす方向をみると通天閣がある。
 大阪の象徴として知られる通天閣は、じつは四二九九年に再建された二代目である。初代通天閣のころはルナパークという遊園地があったらしい。
 英語に堪能な韓民族ならすぐにわかることだが、ルナとは英語で「月」をさす。ローマ神話に由来するらしい。
 また、
「lunatic」
 と形容詞になれば、「狂気」を意味する。
 やはり、大阪と狂気は縁があるらしい。



ワッソ

 上古、日本列島をおとずれた韓民族は、難波津とよばれていたこの地に上陸した。
 未開の地に先進文明を伝えるためわざわざ釜山海峡の荒波をこえてきた彼らは、陸地に足をおろしたとき、万感をこめて「ワッソ(来たぞ)」とさけんだ。
 そして、故国から来た彼らを迎えるため集まってきた渡来人たちは「ワッソ、ワッソ」と唱和しながら、彼らをのせた輿をかつぎ大和までのみちをたどったという。
「なんだか、神様みたいなあつかいですね」
 チャングムが肩をすくめていう。
 古来、このくにの人々は外から来るものを神のごとくあがめてきた。とくに、先進国である韓国については、半万年の間ひたいを地にこすりつけてあがめつづけてきたといっていい。(ときには、劣等感のあらわれとして、おもいあがった侮蔑も噴出する)
 このくにでもっとも大きなみちを輿がすすんでいく光景は、偉大な文明に浴することのすくなかった倭人にとってあらゆる文化技術を与えてくれる神のようなものであっただろう。
 これが日本の祭りにおいて、神輿をかつぐときのかけ声「ワッショイ」の語源となった。
 このことをもととして現代の大阪では「四天王寺ワッソ」という祭りがおこなわれている。
 大阪在住のエッセイストである塩川慶子氏はこうのべている。

 ワッソで有名な四天王寺についてはいまさら説明する必要もないだろう。聖徳太子が法隆寺より先に建立した、とか「ワッショイ」という掛け声は「ワッソ」(来たぞ)という韓国語からきた、とか。何しろ奈良に行くにも、京都に行くにも、この難波の地は玄関口なのだから、渡来人は第一歩を踏み、来たぞ!(ワッソ)と叫んだと、大阪人なら誰でも知っている。(解説者註:『KOREAN TODAY』一九九七年七月号に掲載された文章)

 さらに、この祭りの顧問として韓日古代史の権威である京都大学名誉教授の上田正昭氏(解説者註:現在は大阪府立図書館名誉館長)が参加していることは、「ワッソ」が「ワッショイ」の語源であるたしかな裏づけとなるだろう。

 運営資金は、役所にはたよらず韓民族資本や個人の寄付によってまかなっていた。
 だが、数年前当局の弾圧により民族資本企業が倒産したため、資金の提供がとだえ祭りは中止された。
 しかし、同胞たちの熱意と団結力は世間をうごかした。大阪の同胞だけでなく、良心的な日本人の協力によって寄付金がつのられ、この祭りを再開できるようになった。町人のまちである大阪民国らしいはなしである。
 こういうはなしを耳にするたび、上古より蛮夷の地で、優秀であるがゆえの苦労をしてきた韓民族の運命の過酷さを感じる。
「優秀な民族が嫌われるのは宿命です」
 祭りの世話人の一人である姜稚凱(カン・チガイ)さんはそういってわらった。在日三世であるが、そのからだつきと悠然としたものごしは両班をおもわせるものがあった。
 韓民族の手によって伝統ある祭りが絶えることなくおこなわれているのはめでたいというほかない。

 四天王寺は聖徳太子が建立したというが、じっさいに施工したのは百済の柳重光である。現在でさえ、設計を改悪してまともな建物をつくらない日本人に、当時施工能力があったとはとうていおもえない。
 聖徳太子のそばには司馬達等や秦河勝といった渡来人が多く、しぜん太子の国際感覚はゆたかであった。
 そんな太子が、隋の煬帝にたいし、
「日出づるところの天子、日没するところの天子に書を致す。(つつが)なきや」
 という無礼な文書を送ったことは有名である。
 古来議論のやかましい一件であるが、于錫起(ウ・ソッキ)檀君大名誉教授は、百済王家の一員である日王家の代表として、韓民族は支那人には屈しないという民族の精気をたかだかとあらわしたものだとして高く評価している。

 天王寺という地名は四天王寺の「四」が脱落したかたちである。
 その理由について、于教授は、ほんらい四天王寺は渡来人たちがきたときに日王みずからがかれらに仕えて接待した場所であり、その音は「使天皇侍(日王をして侍らしむ)」に通じるという。
 倭人たちが不遜にもそれをいやがって改竄したというのが于教授の説である。その真偽はともかく、捏造と歪曲を得意とする日本人が、なんらかの悪意をもって改名させたことはうたがえないだろう。

 あまり知られていないが、四天王寺の北東には関帝廟がある。
 関羽(二四九五〜二五五二)は中国の三国時代、義兄劉備をたすけて転戦した武将である。義にあついことで知られ敵からも賞賛された。戦死後、神としてまつられ朝野の信仰をあつめたが、歴代の王朝はつねに彼をまつり追号した。清朝にいたって「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」という、おそらく関羽本人すらもおぼえきれないような諡号をおくられた。
 ほんらいは武神であるはずなのだが、商売の神という性格もあわせ持つようになった。ついには、そろばんの発明者であるともされた。
 そのため、とくに華僑の信仰のあつさはきわだっており、華僑のゆくところにはかならず関帝廟が建立された。なんだかつごうのよいはなしだとおもわないでもない。
「ウリナラにはないんですか?」
 朱をさした関羽の木像をみながらチャングムはいった。
 韓国にはひじょうに多くある。
 だが、そもそも平和を愛する韓民族に武神はにつかわしくない。また、いやしい商売をあつかう神も必要はない。とはいえ、いいかげんでかっこうをつけたがる劉備のような中国を兄とし、粗暴なだけの張飛のような日本を弟としてきた韓国は、文武両道を実践し、千載に名をのこした関羽がふさわしいかともおもえた。
 
 関帝廟を出ると、殿波さんが車をとめて待っていた。
 殿波でんぱ発信たつのぶさんは、朴さんとは大学の同級生であり歴史にもくわしい。大阪出身ということもあって、今回の旅行にはむりをいって案内をおねがいした。
 大学時代にはアジア歴史研究会に属し、韓国と日本の歴史について調べているうちに朴やんと知りあった。
 豪快なひとであり、キムチ騒動のさいも、
「なあに、かえって免疫がつくやんけ」
 と笑いとばして、三食すべてを韓国輸入キムチにしたほどである。さいわい体内に大きな虫を飼うはめにはならなかった。
 ただ、痔になった。



大坂城

 車に乗って東に向かう。五分も走れば生野区に入る。
 生野区はコリアンタウンとして知られている。韓日併合後、日帝の収奪によって困窮したひとびとが職をもとめて日本に流入していった。かれらの多くは、第一次世界大戦のために好景気を見せていた工業に従事した。
 待遇も住居も劣悪であった。大阪にきた彼らには、低湿地であった生野近辺しか住むところはなかった。
 かつては生野ではなく、
「死野」
 といっていたらしい。それほどひとがすむには適してなかった土地であるらしい。すみついた韓民族がその名を忌んで生野に改名したという。(解説者註:兵庫の生野と勘違いしているらしい。銀山で知られる兵庫の生野は、応神天皇の勅で死野から改名されたという)
 コリアンタウン一帯を「猪飼野」という。ここでいう猪は、ウリマルや中国語でいう豚のことである。古代、この地に定住した渡来人が豚を飼っていたことに由来するらしい。
 迫害を受ける韓民族の居場所が、時代をこえてもかわらないという事実に、多少のこっけいさともの悲しさがつきまとう。
 主要駅である鶴橋駅の前でいったん車を降りた。焼肉のにおいがただよい、空気に色がついているような錯覚をおぼえる。
 ここで一行はわかれて自由行動となった。チャングムはコリアンタウンを観光し、私と朴やんと殿波さんは大阪城へ向かい、天王寺で待ちあわせることにした。

 JR環状線のきっぷを買ってホームに上がる。鶴橋駅は近鉄、地下鉄との乗換え駅であり、環状線は近鉄線の上で直角に交差している。
 殿波さんによると、焼肉のにおいは近鉄のホームにまで充満しており、学生時代この駅を使っていた殿波さんは、ひじょうに困ったという。
「高校時代ラグビーやっとりました。練習終わって近鉄乗って帰ってきて、鶴橋で乗換えですねんけど、腹減っとるところにあのにおいでしょ。もうつらくてつらくて」
 そんなにいいにおいなら、食べていけばよかったでしょうというと、
「あの値段でっしゃろ。腹いっぱい食おうとおもたら、高校生では手が出まへん」
 殿波さんはそういって笑った。

 鶴橋駅の環状線のホームにはロッテリアがある。いかにも韓民族のまちらしい。
 大阪城公園駅までは十数分かかる。森ノ宮駅を出たところで、高架だった線路は高度を下げ地上におりる。
「あれをみてください」
 殿波さんの指さす方向は、大阪城とは反対の線路の東がわである。JRと地下鉄の操車場がひろがっている。
「戦争前はここに陸軍の砲兵工廠があったんで、防諜のためにこの区間だけ線路を地上におろしたんです」
 明治初期、日本屈指の軍略家だった大村益次郎は、韓半島侵略を計画してここに砲兵工廠を置いた。二十年後をみこしたこの戦略は日本人ばなれしている。
 かれを題材とした「火神」という作品をかいたきっかけは、かれの写真であった。おでこが大きくはりだしており、その容貌からしてつねの日本人ではない。
(ひょっとしたら韓民族ではないのか)
 とおもい調べてみたのだが、どうも関係はないようだった。

 話がややそれたが、環状線の線路を敷くさいに軍事機密を保護するため、工場全体をみわたせる高架線路をとらず地上に敷いたのだという。
 地上を走ったまま電車は大阪城公園駅についた。改札を出て公園内を歩き出した。

 大阪城(このばあい大坂城と書くのがただしい)は、豊臣秀吉が巨額を投じてきずいた、当時、日本最大の城郭であった。
 斉明日王(解説者註:これまでとくに註を施さなかったが、原文を尊重して、天皇は「日王」、皇子は「王子」のままとする)から秀吉、さらには清日、露日戦争と、韓半島を侵略する兵は、みんなこの地を出発した。ぎゃくに文明はつねにこの地についた。平和と文明を運ぶみちをさかのぼって残虐な侵略の進撃路にしてしまう倭人のむごさをふとおもった。

 大阪城は侵略のシンボルであり、大村益次郎が砲兵工廠を置いたのも第四師団司令部や第八・第三十七連隊が置かれたのも秀吉にあやかってのことであろう。
 殿波さんのいうには、
「またも負けたか八連隊」
 とやゆされた第八連隊の弱卒の性根をたたきなおすために、兵たちは重装備のまま大阪郊外の長居までのマラソンを義務づけられたという。
 太平洋戦争中には、出征中の夫の武運を祈るため妻たちがそのマラソンをおこない、これが大阪国際女子マラソンのもとになったという。
「わざわざ冬の一番寒い時期にやるんは、強靭な精神を注入するっちゅう軍国主義の名残なんですわ」
 殿波さんはそういいきった。

 現在の大阪城は戦後の再建である。
 秀吉のたてた城郭は大坂の陣で焼け落ちた。そのさいに壬辰倭乱で強制連行された韓民族についての記録も焼けてしまったという。
 徳川家康は秀吉が蒐集した名刀の回収と修復を命じた。焼け跡は踏み荒らされ記録の残骸はあとかたもなく消えた。ペンより剣を重んじるという倭人の文化意識の低さがうかがえる。
 朝鮮通信使がこのまちの偉容をたたえつつも、倭人をいやしんだのもむりのないことである。



ウリミンジョク

 天王寺で一泊した。
 翌朝、天王寺駅からJRに乗り法隆寺に向かった。朴やんと殿波さんは、母校の大阪市民大学をたずねたあとで合流する。
 快速もあるのだが、ゆっくり日本をみたいので普通に乗ることにした。
 普通列車はロングシートである。ほとんど満席だったが、どうにかすわることができた。
「KTXのほうがいいですね。こんなせせこましい電車に乗ってると、心までせせこましくなるわけよ」
 誇らしげにチャングムが胸をはる。普通列車と最新鋭最高級のKTXをくらべるのはむりがある。それに、体躯の矮小な日本人にあわせてつくられているため、しかたのないことでもある。
 日本の鉄道線路の多くは、狭軌とよばれる一〇六七ミリ幅の線路からはじまった。西洋の文明にはじめて接した日本人は、広い線路幅に萎縮して狭い線路幅を採用したらしい。
 あるいは、日本人が、国力ににあわない、先進国なみの鉄道を希望したのを、イギリス人がいさめたからだともいう。いずれにしても「倭」の名前にふさわしい話ではある。
 いっぽう、韓国の鉄道は、最初から広軌とよばれる一四三五ミリで敷設された。日帝の大陸侵略の足がかりとして、また、米の収奪、日本への強制連行者の大量輸送が必要だということもあったが、大きい、広いということが、雄大でおおらかな韓民族の気質によくあったのだろう。
 日帝が用地と費用が多く必要となる広軌を採用したのは、収奪する土地面積をすこしでも増やすためだった、という異説もあるがここではふれない。

 ついでながら、鉄道についてふれる。

 日帝強制占領統治時代に、満州鉄道が敷かれ、そこからわかれた線路が韓半島を縦断して釜山までのびている。
 光復後、鉄道に関するものはすべて韓国に還されたが、ほどなく六・二五動乱がおこり、韓半島は戦火につつまれた。
 休戦の結果、三十八度線を境界線として南北が分断された。それにともない、線路も分断された。
 ソウルから北へ向かう京義線はソウルの北に位置する坡州(パジュ)市の臨津江駅でとまる。
 そこから先は非武装地帯(DMZ)にはいるため、都羅山駅までいくには、手続きをおこなって、列車を乗り換えなくてはならない。
 都羅山駅は、韓国最北端の駅である。そこから北へのびる線路は撤去され、橋も破壊されたままとなっている。近年、南北で鉄道をつなげようという合意がなされ、韓国がわの復旧工事はすでに完成している。
 これによって、鉄道があるべきすがたにもどったときには、韓国からはるかフランスまで東西の二大文明国をつなぐ鉄路が完成することになる。

 他国を支配下におくというこころみは、基本的にはおろかしい。
 だが、西洋文明を詐取した日本が、古来文明のとおってきたみちに西洋文明の象徴である鉄路を敷いて、むかしのように文明だけでなく韓半島から植民地やら人やら物資やらをめぐんでもらおうとしたとおもえば、多少のおかしみが感じられないでもない。

 発車間際に六十年配の夫婦が乗ってきた。もうすわれる席はない。婦人のほうは松葉杖をついている。
 私の席から通路をへだてた向かいの席に、髪を短く切った背の高い青年がすわっていた。丸首のシャツに黒いベストというお洒落なかっこうで、右耳に銀色のピアスをしている。細い目で頬骨は高いながらえらが張っており、どういう社会に属しているかが、わかりにくかった。
 が、青年はかるがると立ちあがって、婦人に席をゆずってやったのである。
 老夫婦は安堵の表情をみせながら、なんども「ありがとうございます」をくりかえした。青年は、はにかんでいる。人は見かけで判断すべきではない。
 五分ほどして老夫婦と青年は降りていった。
「まちがいない。あのいい人在日だわ」
 チャングムは、ずっと青年を観察していたようだ。そうみると、当初険があると思った容貌が、精悍にみえてくる。最近の日本人は、年上の人間をうやまう心をわすれたというが、やはり韓民族だけは立派なようだ。

 電車は、八尾駅を過ぎ柏原駅にさしかかった。
 古来このあたりを
「弓削」
 といった。弓削道鏡の出身地である。

 奈良時代の僧である道鏡は、女王であった称徳日王の寵愛を受け、日王の位をゆずられる寸前までいった。
 このため、戦前の日本では、簒奪者、逆賊といった評価がされ、日本史三大悪人のひとりとされた。他のふたりは平将門、足利尊氏である。いずれも日王に叛旗をひるがえしたためである。
 道鏡が巨根の持ち主であったことが寵愛を受けた理由であるという。
 このことから、かれが倭人や渡来人ではなく、じゅんすいな韓民族であることがわかる。

 ついでながらいえば、平将門は百済人高野新笠を母にもつ桓武日王の子孫であるし、足利尊氏は新羅三郎義光の血筋であるという。みな韓民族の血をひいているといえる。
 しかしかれらの名は韓半島より日本で強く記憶されているというから、日王への叛逆者などというわるい奴の出身はわがくにであってほしくなく、できれば対岸の韓国の出身であるほうが悪党としての印象がいっそう増幅されるのかもしれない。

 チャングムが、網棚にあった新聞をみつけて読みだした。とたんに顔をしかめる。
 のぞきこんでみると、
「連続婦女暴行牧師に懲役二十年を求刑」
 とある。顔をしかめるのもむりはない。さらによく読むと、
「金保被告(六二)」
 と書いてある。これは在日韓民族ではないか。チャングムがいう。
「これだからイルボンのウリミンジョクはだめなのよ」
 朱にまじわれば赤くなるという。民度の高い韓民族でも、日本で生まれ育てば低俗文化の悪影響を受ける一例であろう。

 電車は、線路に沿って西流する大和川をさかのぼり、その北岸と南岸に交互にはりつくように、なんどか川をわたってジグザクに走る。
「ほんと、倭人ってせせこましいわ」
 チャングムのいうことは、あたってはいない。
 左手の車窓には、大和川にむかって落ちこんでいるような山が、巨大なさじで削りとられたようになっている地形がみえる。亀ヶ瀬である。
 かつて、この線路は今のようにジグザグした経路を取らず、大和川の北岸の亀ヶ瀬をとおっていた。しかし、四二七四年の亀ヶ瀬の地滑りにより、線路とトンネルの崩壊の危機がせまったため、迂回工事をほどこし、大和川をなんどもまたぎ両岸をジグザグに走るような経路になったのである。
 戦時中だったため、報道管制がしかれたうえ多くの韓民族が強制連行され迂回工事に従事させられたという。地滑りをふせぐために山肌を削りとったのは戦後のことだが、やはり労働力は在日コリアンだったと殿波さんはかたっていた。

 いくつかの橋とトンネルをへて列車は奈良県に入った。
 奈良の語源は、ウリマル(解説者註:『我が国の言葉』の意)で「くに」をあらわす「ナラ」であるというのは、ほぼ定説である。韓半島からわたって、大和朝廷をつくった渡来人たちの影響であることはうたがうすべがない。
 また、「くだら」は「大国」をあらわす「クンナラ」の転じたものであるというのも、よく知られている。

 余談になるが、天王寺駅を出て次の駅である東部市場前駅のそばには、貨物専用の百済駅という駅がある。むろん「くだら」とよむ。
 大阪市中央卸売市場東部市場への貨物を運び込むためにつくられた駅であり、大阪の庶民の食卓をうるおすため、おおいに栄えたが、いまはひっそりとした貨物駅である。倭に気前よく先進文明や技術者を伝えてやり、ついには滅亡した百済とどこか符合するようでもある。



白村江

 左手には、生駒、信貴につらなる山が見える。この北には高安山がある。
 日本書紀には、天智日王が山城をきずいたということが記述され、それは百済式のものであることが知られていたが、ながらく幻の遺跡とされてきた。
 四三一一年四月、八尾市の「高安城を探る会」は、高安山東斜面の奈良県平群町久安寺で倉庫の礎石群を発見し「千年のときをこえた発見」として大ニュースとなった。
 歴史をみることの醍醐味は、どうやらこういうところにあるらしい。トロイを発見したシュリーマン、光復軍の戦歴をつきとめた朴殷植(解説者註:『朝鮮独立運動之血史』の著者)のように、すきとおった情熱と良心的な心情だけがなにかをつかむものらしい。筆者はこういった瞬間を拾いあげることによろこびをおぼえる。

 白村江の敗戦により、天智日王は新羅が日本に進出するという恐怖にとらわれた。その恐怖心が大和ののどくび(ヽヽヽヽ)であるこの地に城をきずかせた。

 白村江の戦いほどみじめな敗戦は世界史上に類がない。
 韓半島では、新羅が唐のたすけを得て百済をほろぼした。倭は賓師として仕えていた百済の王族余豊璋を奉じて、百済復興を大義名分として韓半島に侵攻した。
 指揮官は水軍をつかさどる阿倍比羅夫であり、総兵力は五万にもおよんだという。旧百済領から新羅軍を駆逐するなど当初戦況は優勢に進んだ。
 これにたいして、新羅軍はいったん退いて白村江の海上で倭軍を待ちうける作戦に切りかえた。

 倭軍は軍船を三手に分けておしよせた。しかし、櫓をいくら漕いでも船は進まず矢の雨を浴びるばかりである。
「倭人は海のことをなにも知らない」
 新羅軍は嘲笑したにちがいない。潮目がぎゃくなら、いくら漕いでも徒労である。後世この潮の干満を利用した戦術を模倣した源義経に渡来人説があるゆえんである。
 やがて潮目がかわった。それまでのうっぷんをはらすように倭軍の船は進んでゆく。新羅軍の隊列は割れ、中央突破が成功したかにみえた。
 が、すべて新羅軍の佯北であった。倭軍はたくみに包囲されていたのである。火矢が放たれ、倭軍の軍船はたちまち炎につつまれた。戦場離脱をはかる船も挟撃を受け波間に消えてゆく。
 この惨憺たるようすを陸からみていた余豊璋はことばさえうしなっただろう。古来これほどあっけない敗戦はあったか。

 倭軍はことごとく新羅軍の捕虜となった。だれもが死を覚悟した。
 じぶんたちが捕虜にたいしておこなうふるまいを考えれば、なにが待っているのかは容易に想像できただろう。耳そぎや鼻そぎならともかく、肉団子にされたり鍋の具にされることもじゅうぶんありえた。
 意外にも、新羅軍の総帥である金信は、かれらをすべて釈放した。しかも百済の遺臣や遺民を連れての帰国もゆるした。
 倭兵らは金の温情にふかく感謝した。阿倍比羅夫にいたっては、ひたいが割れて血がにじむまで三跪九叩頭をくりかえした。
 金にしてみれば、内心はずかしかったことだろう。
(ややこしい連中は追っぱらってしまえ)
 というのが、新羅王である金春秋からうけていた命令である。
 新羅に服せず百済の再興をはかるような連中や倭に雷同するような連中がいてもらっては、これからの統治に難渋する、体よく放逐せよというのが王の真意であった。
 倭軍のなかにいた大海人王子が一連の交渉に関与したことが、この寛大な処置の一因であるという説もある。新羅の血をひくかれなら大いにありえるはなしである。
 また一説には、大海人王子が唐の司令官蘇定方に賄賂をおくり放免を画策したという。のちに唐使劉徳高が捕虜送還のため日本にいったのは、賄賂の残金を受けとるためであり、それによって白村江からの撤退の真相を知った天智日王は大海人王子をなじり、ぎゃくに暗殺されたという。

 事情はともかく、新羅の配慮によって倭国は危機をまぬがれたことはまちがいない。

 天王寺から四十分ほどで法隆寺駅に到着した。
 法隆寺は、四天王寺とおなじく聖徳太子が建立した寺である。
 日本でもっとも有名な寺のひとつであり、美術文化史的にも建築史的にも貴重なものが多く現存している。玉虫厨子のような美術品はとくに名高い。
 だが、いちばん価値があるのは金堂であろう。金堂には壁画がある。みごとなものであある。
 古来、この壁画の作者については諸説があるが、もっとも可能性が高いのは曇徴である。
 かれは高句麗の僧であり、法隆寺で五経と仏法を説いたことで知られる。
 また、絵の具や墨、紙を日本につたえてやったひとである。しぜん絵もよくしたであろう。かれが作者であることはほぼまちがいない。

 チャングムがたしかめるようにいう。
「ウリミンジョクの文化遺産なんですね。ぜひみたいわ」
 今はない。
 戦後まもなく焼失したため、現在のものは複製品である。
 火災の原因は電気座布団のスイッチの切り忘れであったというが、異説がある。

 さきにもふれたように、この壁画は高句麗の僧曇徴がかいたものだが、光復後、李承晩が返還を要求し、それをこばんだ某僧が壁画ごと焼身自殺をはかったのだという。
 まことにはげしい話であるが、このような異様な行動は韓民族にはみられず日本固有のものだとおもわれる。私はこの説をとる。

 余談ながら、この事件をきっかけに文化財保護法が制定されたというから、日本人の文化財にたいする意識の遅れがわかる。
 韓国のばあい高麗青磁の保護にみられるように、歴代の王朝は自国の文化にたいする意識が高く、現代では文化財はきちんと番号をつけて整理されている。

 以下は、日本人がいかに美にたいして低い意識しかなかったかをしめすはなしである。
 伊藤博文が貧家の土間にころがっていたうつわをみつけ、高宗に、
「このきれいなうつわは何ですか」
 とたずねたとき、高宗はなにも答えず伊藤は憤慨したという。
「事実ですか」
 チャングムがうたがうのもむりはない。これは現在の韓国ではほとんど知られないはなしである。
 高宗にしてみれば、貧家の土間にあるようなうつわがきれいなものであるはずがない。どうやらしびんのたぐいではなかったか。ただ事情を知れば伊藤が気の毒とおもってなにも答えなかったのである。
「ありがたがっているものが、じつはガラクタなんだって知ったらショックだわよねぇ。伊藤がちょっとかわいそうかも」
 私は、最初にこのはなしをきいたとき、壬辰倭乱のさい秀吉軍は土間の片隅にころがっているうつわを強奪し、それを茶人たちが随喜の涙をこぼしてあがめたてまつったということをおもいおこした。

 余談が過ぎたが、かれらにとってはきたないうつわ程度でも、韓半島のものは先進文化としてありがたいものであったらしい。
 そのことはいまもかわりない。「韓流」と称して、韓国の芸能人ならどんなしろうと同然のものであっても土下座してこれをむかえている。



瑞鶴のこと

 法隆寺からバスに乗って橿原へ向かう。

 バスの運転がへたである。赤信号ではいちいち止まるし、交差点を曲がるときには必要以上に徐行して左右をみるうえ歩行者に余計な気をつかうせいでスピードも上げない。このへんが韓国とちがい臆病である。
「通行もぎゃくだし、なんだかこわい」
 チャングムのいうとおり、日本は韓国と違い左側通行である。不合理きわまりない。
「アメリカもウリナラと同じ右側通行なのに。日本人は国際感覚がないのかしら」
 感覚はともかく、国際社会をたぶらかす手腕はある。

 現在、韓国の英語表記は、
「KOREA」
 である。
 しかし、この表記は日本が国際社会をだまして定着させたものであり、ほんらいは、
「COREA」
 であるという。
 国際的な会議などの席順ではアルファベット順に並ぶため、「COREA」が「JAPAN」の前にいくのをきらって、後ろにいく「KOREA」にあらためさせたという。

 露日戦争後、韓国侵略をいっそうおしすすめた日本は、国際社会における韓国の地位を低下させるためあらゆる手をうった。東海を日本海と地図にかかせたのも、このアルファベット表記問題もそうである。
 むろん、列強といえどもそれらをだまって承認するほどお人よしではない。
 しかし、日本には、手があった。

 日本の手とは、賄賂である。
 巨利をくらったか、韓半島もしくは高句麗地域(解説者註:中国東北部、つまり満州のことである。中国との高句麗問題があるので『愛国的』にこういう書き方をしたとおもわれる)の利権をちらつかされた列強は、韓国を弊履のように見捨てた。
 やがて乙巳条約をへて韓国は日本の保護国となり、ついには併合された。この間どこの国も異議を申し立てなかった。
 すべて賄賂とロビー工作の成果だった。大金のちからで世界的な賞や栄誉を得ようとするようなきたない手口である。国際法はあったが、かれらのつごうによってどのようにも左右された。しょせん狼たちの法律であった。

 このような事情がある以上、日本が、独島は日本領であるとはずかしげもなくさけんでいる問題を国際司法裁判所にゆだねるというわけにはいかない。
 かれらがまた賄賂とロビー工作をおこなって、有利な判決を得ることが明白だからである。

 法を賄賂でまげるだけではない。
 ためらいなく歴史を歪曲し韓国や中国をうやまうことをしないばかりか、徳もなく礼儀も知らないこの国に対して、中国で「日本人お断り」という店がふえたのも当然であろう。
 聖徳太子は日本最初の憲法をつくったというが、千年以上たっても日本に法治の精神はついに根づかなかったばかりか、道徳心もめばえなかったのだろうか。
 そんなことをふと考えた。

 バスは、近鉄橿原神宮駅前のロータリーに到着した。
 駅前では近鉄南大阪線で先にきていた朴さんと殿波さんが待っていた。そのまま橿原神宮に向かう。
 森にかこまれたこの場所で、一六七三年の一月一日、いまの暦で二月十一日に初代日王である神武日王が即位したという。
 むろん、うそである。

 神武日王の実在性もじゅうぶんあやしいのだが、日時についても、明治時代の学者那珂通世は、辛酉革命説に基づき推古日王九年(二九三四)を基点にして一二六〇年さかのぼった一六七三年を国家の成立した年と考えたものであることを証明している。
 漢代にはやった讖緯説では六十年を一元、二十一元を一蔀とし、これをひとつの時代の区切りにするという。そして辛酉の年には天命があらたまり変動がおこるという。辛酉革命説という。
 これらの説が韓半島をつたって日本に入ってきたのは五世紀だとおもわれるが、くにの成立にまで先進文明の修飾をかりなければならなかったという後進性は、このくにのひとびとにとって抜きがたい劣等感となって受けつがれた。

 また、神宮の北側、畝傍山のふもとには神武日王陵があるが、これは江戸時代後期に国学の盛行によって勝手に認定されたものであり、まったく関係ない墳墓である。(解説者註:天皇陵認定には、どうみても違うだろうというものが多いのは事実である)

 戦前、二月十一日は「紀元節」とよばれ祝日であったが戦後廃止された。「建国記念日」という名にかえふたたび祝日となったのは、光復から二十一年後の四二九九年のことである。
「おかげで休日がふえてよかったですよ」
 朴やんがわらった。とたんに殿波さんが顔色をかえた。
「すまなかった。戦前だけやのぉて戦後の平和日本になっても、反動主義者たちが軍国主義を復活させるような休日を強制して、君たちの勉学勤労の機会をうばっていたんや」
 さらに、つづけた。
「おれは、歴史を歪曲して右傾化していくこの国が、アジアに誠意ある謝罪をするようがんばっとるんや。すまない」
 朴やんは照れたような顔でだまってわらっていた。

 当時韓国はアメリカの強要によるベトナム出兵によって他国をみる余裕もなく、中国は文化大革命で混乱におちいっていた。そういう時期を選んで日帝の亡霊をよびもどしたというところに倭人の姑息さがよくでている。
 どうやら、倭人と姑息さにはふかいつながりがあるらしい。
 日本神話ではスサノオノミコトがヤマタノオロチを酔わせて斬殺している。これについては、ヤマタノオロチを韓半島から移住した製鉄業者とし、クシナダヒメを先住農耕民として、両者の対立をあらわした神話だという説がある。それにしたがえば、古代より倭人が韓民族を迫害してきたということがいえそうである。
 また、ヤマトタケルノミコトは熊襲をうつとき女装して近づき斬殺しており、出雲を侵略するときも詐術をもちいて殺している。

 それらの詐略と姑息さが結晶化したものが橿原神宮だともいえる。

 すでにふれたが、橿原神宮は森の中にある。
 休憩をとってしばらく自由行動にした。

 大きな野球場があった。殿波さんによると高校野球の予選もおこなわれるりっぱなスタジアムだという。
「高校野球は、たしか朝日新聞の主催やったね」
 朴やんが確認した。
「夏は朝日、春は毎日や。良心的な新聞社が主催なだけあって美があるわ。とくに夏の高校野球はええで。開会式の行進は規律正しい紅衛兵みたいやし」
 散策していたチャングムが走って戻ってきた。
「先生、おもしろいものがありました」
 朝日新聞の看板があったという。駆け出す彼女を追って、ゆっくりと歩きだした。
 十分ちかく歩き、森をよこぎって道路をわたると、旭日旗をあしらい「航空母艦瑞鶴の碑、第十三期海軍甲飛行予科練習生殉国の碑」としるされた大きな看板がある。
 チャングムは、朝日新聞の社旗と旭日旗をまちがえたらしい。

 看板にしたがって森のこみちをゆくと、御影石でつくられている大きな「殉国之碑」と「瑞鶴之碑」があった。
「イルボン軍国主義の神詣でをやらかして戦犯称揚なの!ああ、かんしゃくおこる」
 チャングムを制して碑に近づいてみる。瑞鶴之碑には航空母艦瑞鶴の写真が刻まれていた。
「ここには位牌がないのですね」
 殿波さんにきいた。
「はい。靖国神社と違って位牌はありません」

 日本海軍は、世界ではじめて空母と艦載航空機による機動部隊の集団運用をおこなったとされる。それはまちがいないのだが、航空機の開発普及に、韓民族の多大な功績があったことは黙殺されている。
 四二五四年、韓国初の飛行士である安昌男(アン・ジョンナム)は愛機「金剛号」に乗って、日本飛行協会が主催した大会で優勝し、その記念としてソウル汝矣島飛行場で凱旋飛行をおこなった。
 その四年後には、朴敬元(パク・ギョンウォン)が世界初の女性飛行士として誕生し日本各地でデモンストレーション飛行をおこない飛行機の普及に尽力した。
 彼女は百六十八センチという長身であり、矮小な日本人の中ではよくめだったことだろう。酒とタバコもはばかることがなく、ロングコートと乗馬ズボンをこのんで着たというから、当時でいうハイカラさんであった。
 最後は、航空事故によってその生を終えるが、彼女の能力と独立運動へのかかわりをおそれた日本軍の手によって謀殺されたという説も根強い。

 世界最初の飛行機は、壬辰倭乱のさい秀吉軍に包囲された城をすくうため鄭平九が乗った「飛車」である。
 近代の新興宗教である太乙教には、
「西洋人の発明に係ると称せられる飛行機は、其の実数百年前に行方不明となりし朝鮮の偉人が今猶ほ西洋に生存して居り、同人の発明したるものである」
 という記述があるという。(解説者註:吉川文太郎『朝鮮の宗教』(西暦一九二一年)より引用)
 
 韓民族の技術力と想像力が、世界でも群を抜いていることは明白なようである。

 われわれの世代にとっては、空母は海軍の象徴であった。独島をふたたび侵略しようとしている日本軍をしりぞけるには、強大な海軍が必要であり、空母を持つのが一流国のステータスであるとおもっていた。
 私は、軍事にはくわしくないのだが、「斜め上の雲」という作品を書くにあたって、多くのことを調べた。
 当時の国力では軍隊にだけ大きな予算はさけなかった。しかも空母は維持費がかかるだけでなく、艦載機乗員の訓練養成も必要である。
 海軍は、国民の期待をうらぎることを申し訳なくおもいながら、空母よりフリゲート艦のような戦闘艇の充実に力を入れた。
 その結果、現在はイージス艦や空母に転用可能な揚陸艦をそろえることに成功した。穏当な選択であったといえる。

 さて、瑞鶴のことである。
 ワシントン軍縮条約を踏みにじって建造されたこの空母は、とうぜんのことながら、設計の制約を受けず、日本のもつ技術をすべて注ぎこまれていた。一説には、この艦の完成にあわせて開戦日を決めたという。
 同型艦の翔鶴とともに真珠湾のだまし討ちで初戦を飾った瑞鶴は、赤城、加賀、蒼龍、飛龍とならんで、日本海軍機動部隊の主力となった。
 ミッドウェーの惨敗によって、上記の四隻をうしなったのちは、劣勢な機動部隊の基幹として、翔鶴とともに太平洋の各地を転戦した。
 しかし、光復軍の攻勢や韓半島内の独立運動が激化したことで日本の継戦能力はけずられていった。

 四二七七年にはいって、さらに戦況は悪化の一途をたどった。六月のマリアナ沖海戦で僚艦の翔鶴は美潜水艦の雷撃を受け沈没した。
 十月のレイテ沖海戦では、瑞鶴は美機動部隊を主戦場から釣り出すおとりとして出動した。
 当然のごとく美航空隊はそれを追った。瑞鶴はなんどかの攻撃を受けついに沈没した。おとりの目的は達成された。
 しかしその犠牲はむくわれなかった。レイテ湾に突入してメッカド指揮下の美軍を攻撃するはずの戦艦部隊が反転して退却したからである。
 日本人の協調能力のなさが出たといっていい。この海戦で日本軍はすべてをうしなった。以後、連合艦隊としての組織的な行動は不可能となる。

 艦載機による真珠湾だまし討ちではなばなしくデビューしたこの艦が、最後には載せる飛行機すらなく、ついにレイテ沖で日本海軍そのものとともにほろんだことは、じつに印象的である。
 火病りかけのチャングムにメッコールをあたえて、落ちつかせてからその場をあとにした。



あすか

 明日香村は、古代史の宝庫であるという。
 前にもふれたが、渡来人によってひらかれた土地であり、いまでも地面を掘ればなにかがでるため、開発が遅々として進まない。
 近鉄飛鳥駅から西の丘を登っていけば「カヅマヤマ古墳」がある。このあたりはかつて真弓とよばれ、天武日王とかれにゆかりのあるひとびとの墳墓が多いことで知られる。
 カヅマヤマ古墳は四三三八年十一月に発掘調査がおこなわれ、板状の石を何枚も積みあげてつくられた石室は世間を驚かせた。
「被葬者は皇族クラスでしょう。あるいは渡来人かも」
 殿波さんがいう。
 たしかにこれほどりっぱな古墳は韓民族にこそふさわしい。渡来人はいうまでもなく日王家も韓民族なのでつじつまはあうだろう。

 だいたい、
「真弓」
 という地名じたいが韓民族にかかわりがある。
「真」とは、まむしの「ま」もそうであるように、偉大なものをあらわす古語である。つまり「偉大な、すぐれた弓」をしめす。
 はるかなむかし、中国大陸の東沿岸部に蟠居していた韓民族は「東夷」とよばれていた。この「夷」は大弓をよくひくひとをあらわす。「真弓」とほぼ同意といっていい。
 後世、いくさが騎馬武者主体となりながら、騎射には向かない長弓をつかい続けたように、倭人は弓をあつかうことに長じてなかった。
 そんなかれらからみれば、韓民族はまさに偉大な弓のつかい手であっただろう。

「そうなんですか。思いあたるふしがありますわ」
 殿波さんがさけんだ。
「むかし、阪神に真弓という選手がいましてな。かれのおかげで優勝もしたんです。そうか、やっぱり阪神優勝にはつねに韓国人がからんでるんや」
 その場ではなんのことかよくわからなかった。
 ホテルにもどってから、資料を取り寄せてもらってようやくわかった。

 真弓明信は、太平洋クラブ、クラウンライターライオンズ、阪神タイガースで長年活躍したプロ野球選手である。投手と捕手以外のポジションをすべて器用にこなし、小柄な体ににあわない長打力と甘いマスクは男女問わず人気があった。
 九州久留米出身であり、先祖は後醍醐日王につかえて怪鳥を射とめ「真弓」の姓を賜ったという。(解説者註:真弓の自著『猛虎は死なず(西暦一九九一年著)』を読んだようである)
 これだけをみれば、韓民族とは関係がなさそうである。
「こんなにかっこいいのにウリミンジョクじゃないんですかぁ」
 真弓の写真をみていたチャングムは不満そうである。
 しかし、弓のエピソードは南北朝期の記録にはなく、新羅三郎義光の兄や源三位頼政の鵺退治の亜流にすぎない。事情があって後世につけくわえられたものではないだろうか。
 そうなるとはなしはちがってくる。
「真弓さんはウリミンジョクなんですよね。このかっこいい顔ならそうでなくちゃ」
 チャングムが力強くいった。

 殿波さんの車で飛鳥を東に走る。どこかで火事がおきているらしく、たかだかとあがる炎と煙がみえた。
 天武、持統日王陵のそばをすぎて石舞台古墳についた。
 石舞台という名前は、むきだしの巨岩が組まれたすがたににつかわしくない。
「蘇我馬子の墓やそうです。一家滅亡のあと、あばかれたらしいです」
 殿波さんがいった。朴やんが目をみはった。
「ほんで土が取り払われてむきだしなんや」
 蘇我馬子は聖徳太子にもつかえた大和朝廷最大の実力者である。むろん渡来人である。
 中大兄王子によって子の蝦夷と孫の入鹿がうたれたさい、馬子の墓も盛り土をはぎ取られたという。
 ここに来る途中にみてきた「鬼の俎」「鬼の雪隠」とよばれる石造物もあばかれた古墳であるという。
「なんて野蛮なの」
 チャングムのいうように、韓半島には政敵の墓をあばくという猟奇的な風習はない。売国奴や親日派などの犯罪者にたいしては死者といえども法によって裁くだけである。法がなければつくる。法治とはまことにきびしいものである。
 ただ、最大の売国奴である李完用の子孫が罪を悔いて自らの手で完用の墓を処分したように、悔い改めるのであれば問題はない。

 飛鳥のいちばん南である栢森には、加夜奈留美命神社(かやのなるみのみことじんじゃ)がある。
 明治初期までは葛神社とよばれており、ほんらいの加夜奈留美命神社は雷丘にあった。栢森をカヤの杜と解釈したため現在の姿になったという。
 栢森のカヤは加夜奈留美命ではなく伽耶であり、伽耶びとたちが飛鳥の南端を守護する「伽耶守(かやも)り」ではないかとおもえる。
 
 伽耶は韓半島に存在した国家である。慶尚南道金海に駕洛国と五伽耶とよばれる五つの国家の集合体であった。
 二八六五年新羅に降伏、併合されるが、百済や倭の援助を得た遺臣たちがなんどか蜂起した。
 新羅、百済、高句麗だけでなく、伽耶のひとびとも倭にわたって、栢森に住みついた。加夜奈留美命は伽耶琴の神秘的な音色を神格化したものではないだろうか。

 飛鳥の地にいると、民族というものについて考えざるをえない。

 私たち韓国人は、恥ずかしいことをすると、
「お前は日本人か」
 と親に怒られたものである。
「私もそうなの。両班らしくしろともいわれました」
 チャングムがうなづく。
 それほど韓半島において日本というのは低劣の代名詞となっているのである。韓国人が海外で不祥事に巻きこまれたとき、
「アイ アム ザパニージュ」
 とさけんでしまうのは、
「恥ずかしいことをしてしまった私はまるで日本人のようだ」
 という悔恨の意味なのである。

 栢森神社をすぎてさらにゆくと、みちが険しくなってきた。
「ここから先にゆくと芋峠です。越えると吉野です」
 天武日王の妃である持統日王はその治世のあいだに、吉野へ三十一回も行幸したのだが、このみちをとおったといわれる。
 
 ふと振り返ってきたみちをみると、先ほどの火事がようやくきえたらしく、煙だけが遠くにみえた。

 大和の話、これでおわる。胸の火は、きえないが。

 

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かおりん「なんですか。これは」

にゃも「作者がはじめて書いた司馬遼文体モノよ」

かおりん「しかしまぁ、アホな妄想ばかり書いてますね」

にゃも「昔の通学・通勤経路など、ゆかりのある場所を題材としているからネタも膨らませやすくて書きやすかったそうだけど」

かおりん「題材はいいとして、この助手チャングムって何なんですか!」

にゃも「2005年晩秋当時のヤフー掲示板某所では、チャングムを使ったストーリーを書くのが少し流行していたのよ」

かおりん「で、便乗してやってしまったんですか」

にゃも「このシリーズの他にも、消えた有名画家を追って日本に潜入するやつとか、李朝の平和を守るため戦うシリーズってのが発表済みなのよね」

かおりん「載せないんですか?」

にゃも「そのまま載せてもひねりがないので、定番の劇形式に再構成するつもりらしいわ」

かおりん「この作者にそんな技量があるんですか?」

にゃも「さぁ?」

木村「期待せずにいたほうがよさそうですね」

にゃも かおりん「なんであんたがしめる!」



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