斜め上の雲 6

士官学校




 一九五三年七月に朝鮮戦争は休戦となった。
 この戦争でなにが得られたのであろう。
 最初の一年のあいだに、米軍を主体とする国連軍と、おもてむきは義勇兵の集団である中国軍の参戦によって、そのつど地図をペンキで塗りかえるかのように戦況は一変し、ソウルは四回、平壌は二回陥落した。あとの二年間は、戦線は膠着して三十八度線付近での対峙といった様相を呈していた。
 そこまでして得られたのは、戦前とほぼかわりない国境線であった。

 戦争がおわったため、錫元の属していた義勇兵も解散した。
 金錫源も退役することにした。かれは、錫元が復員するさいに、
「これからどうするんだ」
 と、きいてくれた。
 錫元は「十八歳になったことですし」とつぶやきながらすこし考え、
「学校にゆきたいです」
 といった。
「学校にいってなかったのか」
「学資がありませんでした。それにすぐに戦争がはじまりました。できれば高校にゆきたいです」
 じつをいえば、いまも学資がない。義勇兵ということで戦争中も給料は支払われなかった。むしろ陣中で食わせてもらっているだけでも錫元は感謝すべき立場であった。
 それはともかく、学資がない以上学校にはゆけない。無料ただの学校など存在しないであろう。
「いや、ある」
 錫源は即答した。
「いったいなんという学校でしょうか」

「軍人の学校だ」
 と、金錫源はいった。
(なんのことだろう)
 という顔つきで、錫元はぼんやり錫源の口もとを見ていた。
「元」
 錫源は、どなった。
「おまえは、若いのか年寄か」
「若いです」
「若ければ、敏感に反応しろ。ゆくかゆかないか、どっちだ」
「考えたこともないです」
 と、つぶやいた。学校にゆけばいろんなことが学べるとしか考えてなかった。それがいきなり鼻さきで軍人になるかならぬかと問われたところで、即答できるわけがない。
 第一、軍人というのはエリートである。そんなところに割りこむすきがあるのか、と思い、そこから質問してみた。
「韓国人であればたれでも入れる。陸軍士官学校なら学費はかからない。それどころか給料が支給される」
「しかし」
「しかしもなにもない。ここに官費ただの道がある。お前が学校にゆきたいという素志をとげるにはこれしかみちがない。好ききらいは二のつぎだ」
(それもそうだ)
 とおもった。
 だが、受験には高校卒業資格が必要である。錫元にはそれがない。
「そのことはわしがなんとかしてやる」
 韓国軍の重鎮である金錫源が口ぞえすればそのあたりはなんとかなるであろう。年齢をいつわってまで義勇兵として参戦したという経歴もいい方向にはたらくかもしれない。

 さいわい、金錫源の陸軍首脳への働きかけによって、錫元の陸軍士官学校受験が認められた。
「そこまでやってもらっていいのでしょうか」
 その親切に甘えっぱなしでいいものかどうか、錫元は身のちぢむ思いである。しかし金錫源は、
「わしにとってはただの雑務にすぎぬが、お前にとっては一生のことだ。事務のうるささなどたいした問題ではない」
 そういって湯呑みに酒を満たすと錫元にすすめた。錫元はあわてて両手で捧げ、一気に飲みほしむせかえった。
 金錫源には三人の息子がいる。長男の金泳秀は日本陸軍の大尉として昭和二十年フィリピンで戦死している。錫元にたいしてまるで教育者のように接しているのは、その長男とどこか似ているようにおもったことも理由のひとつだったかもしれない。

 韓国における陸軍士官学校は、一九四五年十二月五日にソウル西大門区冷泉洞に開校した軍事英語学校が前身である。庇護者である米軍との連絡調整が不可欠なため、軍事と英語をおもに教えた。
 四六年五月には、ソウル東北方の泰陵に移り朝鮮警備士官学校として再編され、九月には陸軍士官学校に改称された。朝鮮戦争の勃発によって休校、疎開先の鎮海で五二年一月に再開し、五四年に泰陵に復帰した。
 したがって、この時期、学校は鎮海にある。

 鎮海についた錫元は、教えられたとおり陸軍士官学校をたずねた。
 衛門があり、そこで来訪の意を告げると、兵隊が案内してくれた。校庭はひろく、あちこちに校舎が建っている。
 事務室に入らされた。
 大尉が出てきて、願書の書式を教えた。
「試験は、作文と英語と数学じゃ」
 といった。
 錫元はおどろいた。英語というのは軍中で金錫源からすこし習ったが、数学はほとんど知らない。作文は国民学校で綴り方を習ったので多少の自信はあった。それを話すと、
「では作文だけで受けい」
 と、この大尉はひどく大ざっぱなことをいった。要するにどの学課であれ、試験官が答案から頭の内容を察し、よければ合格させようというものであるらしい。

 試験の当日は風のつよい日だった。
 錫元は定刻の九時前に士官学校校庭にゆくと、すでに応募者二百人ほどがあつまっていた。ほとんどは錫元同様田舎くさく、服装なども垢ぬけず、一見して田舎者ぞろいであった。
 こういうなかでは、ソウルっ子がめだった。
 かれらは一群をなしてたむろしており、大声でソウルことばを使っているために、何者であるかよくわかった。
「採るのは五十人ぐらいだろ。伯父上がそうおっしゃっていた」
 と、仲間同士で話している。
(五十人しか採らんと言うなら、これはいかんだろうな)
 錫元は失望した。どっちでもいいと思い、トックをかじっていた。嚢中がとぼしいためまともな食事を買う金がなく、やむなく宿の主人に懇願してわけてもらったのである。
 ソウルっ子たちは、親類か先輩に陸軍幹部が多いせいか、学校や入学試験についてのことをよく知っていた。
「英語をやらん者は落すそうだ」
 という声がきこえてきたが、錫元は平気だった。落すなら落せとおもった。

 試験がはじまった。
 論文の考査である。錫元は、さきに願書を出したとき論文があるということは大尉からきかされなかった。
(ヤッカイだな)
 とおもった。作文ならともかく論文というものは書いたことも読んだこともない。
 そんなことで、試験を受けた。
 正面に、題が貼りだされている。
仁王山インワンサンヲ守ル」
 というのが題であった。
 錫元は、なんのことかわからない。インワンサンという山がこの世にあろうとは夢にも知らないのである。
 仁王山とは、ソウルの西大門ちかくにある土地である。風水説ではソウルの西をまもる白虎とされている。ソウルの者なら子供でもその地名は知っているであろう。
 が、錫元が知るわけがない。
(こりゃ、山の名ではあるまい。仁王におう、山ヲ守ル、とよむべきではないか)
 そうだと思い、そう思うと急に勢いが出てきて書きはじめた。
「京城ヨリ北東ニユクコト何里ゾ。東海ヲ望ミテ名山アリ。ソレ山容嶮シクシテ神韻ヲ帯ブ。古ノ浮屠ノ霊場ナリ。仁王ノ守護セシニヨリテ金剛山ト名ヅク」
 というところから書きはじめ、その山は仁王によって守られている仏教の聖地だという描写をした。
 とにかく時間いっぱいで書きあげて校庭に出てみると、ぼんやり立っている連中がいる。どうしたのかと思って会話に耳をすますと、かれらも仁王のほうであった。
「ソウルっ子どもが話しているのをきくと、あれはソウルの地名じゃそうじゃな。インワンサンと読み、仁王でうて兵隊が山をいかに守るかという題であるそうな」
「ソウルっ子なら誰でも知っているじゃろ。得をしよったな」
(田舎者は来るなということか)
 この出題から考えればそうであろう。出題者はひょっとすると旧大韓帝国の両班で、田舎者をばかにしているのかもしれなかった。

 十日ほど、何の通知もなかった。毎日、旅人宿ヨインスクで待った。
 ――こりゃ、落ちたな。
 と、金錫元はおもった。軍内にもし知り合いがおれば学校に問いあわせてもらえるのだが、退役した金錫源以外につてはなく、あいにくその金錫源も鎮海にはいない。
 ――どうしよう。
 とおもった。旅人宿の宿泊費もかさみ、財布のなかみは心もとない。日々の食事さえ事欠くありさまで、仕方なく海で釣った魚を食べてなんとか飢えをしのいでいる。

 そんなとき、来客があった。
 金錫源のもとで参謀長をつとめた崔慶禄である。今は准将として憲兵司令官をつとめている。錫元が陸士を受けたことをきいて、公用で鎮海に来たついでに見にきたらしい。
 崔は錫元の顔を見るなり、
「しかし、よかったな」
 といった。なんのことですか、ときくと、崔は不審な顔をした。
「知らなかったのか」
 金錫元は合格しているのである。崔が公用で陸士に行ったときにきいたのだという。錫元はようやく微笑した。
(これで、救われた)
 とおもった。その場から崔につきそわれて学校にゆき、入学手続きをおこなった。

 朝鮮戦争では韓国兵の弱さが露呈した。
 戦車が来た、ときいただけで逃げだすものもいたし、負けつづけてもへらへらと笑っている兵さえいた。金錫源や白善ら日本軍出身者の指揮官や下士官がきびしく統率していたためなんとかしのいできたといえる。
 中国軍の参戦後はとくにひどかった。中国軍のチャルメラを聞いただけで銃を捨てて逃げだすこともしばしばあった。
 ひとつには、訓練が未熟な状態で戦争に突入したことがあげられる。白善によれば、多くの部隊が中隊訓練をおえた程度であったという。また、再三ふれたが、装備、とくに火力が脆弱であったのも無視できない。
 長期戦にそなえて韓国軍の強化をはかるため、開戦から約一年後の五一年五月に米軍と韓国陸軍本部は協議をおこない、各師団に新兵を補充し入れかわりで九週間の集中訓練をほどこすという計画をたてた。指導にあたるのは百五十人の米軍教官であった。これによって五二年末までに全十個師団が訓練を受けた。
 また、新兵の訓練所が済州島にもうけられ、一日あたり千人が入所して十六週間の基本教練を受けた。
 戦況が小康状態であるとはいえ、いまだ戦中の五二年一月に陸軍士官学校が正規四年制課程で開校したのもそういう事情のせいであった。そのため士官学校の教育はきびしく校内の空気は張りつめていた。

 鎮海はかつて日本海軍の基地があり、バルチック艦隊を迎え撃った東郷平八郎がここから連合艦隊をひきいて出撃した。さらには李舜臣も根拠地としたことがあり、軍事には縁がふかい土地である。
 学校が泰陵に移るまで一年弱のあいだ、錫元は余暇をみつけては土地の古老をたずね、おもに日本海軍の戦史について話をきいた。六十歳以上のものなら日露戦争をじかに知っている時代である。たれもがよろこんで話してくれた。
 日本軍や満州軍の将兵として太平洋戦争に従軍した若者もいれば、日露戦争時、日本海海戦を見物した老人もいた。さらには一進会に参加して満州まで日本軍の線路を引く工事にたずさわった人もいた。
 そういった錫元の行動については、
「みょうなことをしているやつがいる」
 と、校内で話題になった。

 軍事と英語を習得することに重点が置かれていることは先にのべた。そんななかで、なにを好きこのんで日本の戦史、それも海軍のものを調べるのであろう、学生や教官たちはみなそうおもった。
 錫元にしてみれば、軍事に海も陸もなく、金錫源におそわったようにあらゆる知識にふれて吸収しようとしているだけであった。陸軍については金錫源から多くを学んだが、海軍については学べなかったということもあった。
 それに、韓国軍には朝鮮戦争をのぞいて戦史そのものがなく、日本軍のそれは量が多く簡単にふれることができたというだけの話でもあったであろう。

 なんにせよ、錫元としては、数学や語学が学べることで満足していたし、朝鮮戦争中に作戦の妙にふれたことで軍事学にも興味をもつようになっていた。

 鎮海は桜の名所である。
 春にはまち全体が桜につつまれるといっていい。ロータリーから放射線状にのびる道の両脇には桜が植えられている。
 しかし、それは先年までのことであった。光復後、
「桜は日帝の象徴だ」
 として桜を全部切り倒してしまったのである。
 もっとも、後年のことになるが、結局は植えなおされた。
「ここの桜は済州島の王桜がもとである」
 ということがいわれたからであった。いわば「桜は韓国起源だから」として免罪されたといっていい。ただし、桜を復活させたいがためにむりやり論理をつくりあげたというふうがしないでもない。
 その論理はさらに後年、「日本の桜の代表であるソメイヨシノは済州島原産である」とあらぬ方向へ発展するのだが、ここではく。

 本題からはずれるようだが、いますこし鎮海について。
 円形ロータリーとそこから車輪のやのように八方へのびる道路は、同じ形式をもつ大連のそれとならんで有名だが、これについても伝説がある。
「日帝が海軍旗を模してつくった」
 というのである。

 朝鮮の地にはこのような「日帝神話」があふれている。
 むろんその多くが実話ではない。鉄杭伝説はとくに有名だが、ソウルの北漢山を「大」と見たて、総督府を「日」、京城府庁舎を「本」という字をかたどってつくり「大日本」という字によって、風水的に朝鮮民族の精気をたとうとした、という説にいたっては、韓国人でもうたがうものが多い。この並び方では、総督府は「日」を横にしたかたちで、府庁舎はさかさまになってしまう。そのようなまぬけなものをつくる日本人がいるだろうか。
 この民族はどうやら創造力をあらぬ方向に飛躍させることが得意であるらしい。

 ともあれ、錫元が歩いていたころの鎮海には、桜はない。それにくわえて、もとの持ち主をうしなった日本家屋が多く残り、いっそううらぶれた感じがした。
 ノートと手みやげのマッコルリ、金を節約するためじぶんで釣った魚をかかえて、切られた桜の株が墓標のように林立するまちを歩きまわったことは、錫元にとってあざやかなおもいでとなった。

 五一年に学校が正規四年制課程として再開したとき入学したのは全斗煥、盧泰愚ら十一期生であったが、事実上の一期生とみなされていた。
 ある日、全斗煥が校庭で錫元に会ったことがある。
「金よ、そんなに日本軍のことばかり調べてどうするんだ」
 他の生徒や教師たちにとってかれの行動が奇異にうつったことは先にふれた。この質問はふしぎではない。
 が、錫元はふしぎそうな顔をしてこの先輩の顔を見つめ、
「せっかくの標本があるというのに、これを捨ておいてどうするのですか」
 と、反問した。
 くりかえすようだが、かれにとってはあらゆるものが勉強の対象であり師匠であった。
 全は、一瞬考えてしまった。
(なるほど、そうかもしれんな)
 と、思いなおした。そして、太平洋戦争や朝鮮戦争の戦訓について錫元の話をきいたが、いちいち感嘆した。
(どんな経験からでも、教訓はひきだせるものなのか)
 後年にいたるまで、全はこのはなしをおぼえていたらしい。


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ベッキー「今回は錫元が士官学校を受験するところだ」

くるみ「士官学校の試験って、ほんとにこんなものだったわけじゃないでしょ」

ちよ「はい。『坂の上の雲』に合わせるための大ウソですよー」

芹沢「相変わらずだな……しかし、『仁王山』なんて都合よくあったもんだ」

ベッキー「その山自体は実在するんだ。じゃ、元ネタの原文をたのむぞ」

じじぃ「最初は一巻「春や昔」、大阪で教師になった好古が、松山藩出身の先輩和久正辰によばれ、無料の学校を教えられるくだりが元ネタじゃ。以下原文じゃぞい」


「耳寄りな話、といっていたのは」
 と、酒のなかばで、和久正辰がいった。
官費ただの学校があるのさ」

(中略)

「いったいなんという学校でございます」

「軍人の学校だよ」
 と、和久正辰はいった。
(なんのことじゃろ)
 という顔つきで、好古はぼんやり正辰の口もとを見ていた。
「秋山」
 正辰は、どなった。
「おまえは、若いのか年寄か」
「若うございますらい」
「若ければ、敏感に反応しろ。好きかきらいか、どっちだ」
「考えたこともないけん」
 と、つぶやいた。できれば学者になりたいとおもって勉強してきた。それがいきなり鼻さきで兵隊になるかならぬかと問われたところで、即答できるわけがない。
 第一、兵隊というのは薩長の独占だときいていたが、割りこむすきがあるのか、と思い、そこから質問してみた。
「ある。こんど、学校ができた。日本人であればたれでも入れることになっている。士官学校というのだ」

(中略)

「言った。いまもその心は変わらないが、ここにも官費ただの道がある、とわざわざ教えてやっているわけだ。貧乏士族の子はただのみちでみずからを救ってゆくしかない。好ききらいは二のつぎだ」
(それもそうだ)
 とおもった。



じじぃ「次も一巻「春や昔」、上京した好古が陸軍学校を受けるところじゃ」


 衛門があり、そこで来訪の意を告げると、兵隊が案内してくれた。校庭はひろく、あちこちに日本瓦をふいた木造二階だての、まるで異人館のような校舎が建っている。
 事務室に入らされた。
 軍曹が出てきて、
「矢立はあるか」
 と、好古の腰をみた。好古は、曾祖父が愛用していたという唐獅子を彫った赤銅あかがねの矢立を腰からぬいて示した。
 軍曹は、願書の書式を教えた。

(中略)

「試験は、漢文と英語と数学じゃ」
 といった。
 好古はおどろいた。英語というのは師範学校のころに一年ほど習ったが、数学はほとんど知らない。漢文だけは幼少のころからやってきたから多少の自信はあった。それを話すと、
「では漢文だけで受けい」
 と、この大尉はひどく大ざっぱなことをいった。要するにどの学課であれ、試験官が答案から頭の内容を察し、よければ合格させようというものであるらしい。

(中略)

 試験の当日は風のつよい日だった。
 好古は定刻の八時前に士官学校校庭にゆくと、すでに応募者二百人ほどがあつまっていた。ほとんどは好古同様田舎くさく、服装なども垢ぬけず、一見して田舎者ぞろいであった。
 こういうなかでも、薩摩と長州がめだった。
 かれらは一群をなして屯ろしており、大声で地ことばを使っているために、どれが長州か薩州かよくわかった。
「採るのは五十人ぐらいだろ。従兄がそう申しちょった」
 と、仲間同士で話している。
(五十人しか採らんと言うなら、あしはいけんじゃろな)
 好古は失望した。どっちでもいいと思い、煎餅をかじっていた。朝が早かったため寮では朝飯の支度ができておらず、やむなく途中で買ってきたのである。

(中略)

 薩長の青年たちは、親類か先輩に陸軍幹部が多いせいか、学校や入学試験についてのことをよく知っていた。
「英語をやらん者は落すそうじゃ」
 と本郷は聞きこんできてそう言ったが、好古は平気だった。落すなら落せとおもった。

(中略)


 正面に、題が貼りだされている。 「飛鳥山あすかやまニ遊ブ」
 というのが題であった。
 好古は、なんのことかわからない。アスカヤマという山がこの世にあろうとは夢にも知らないのである。
 飛鳥山とは、上野、隅田川堤とならんで東京における桜の三大名所なのである。(中略)
 が、好古が知るわけがない。
(こりゃ、山の名ではあるまい。飛鳥ひちょう、山ニ遊ブ、とよむべきではないか)
 そうだと思い、そう思うと急に勢いが出てきて書きはじめた。
「余ガ故国伊予ニハ名湯アリ、道後ノ湯トナヅク。湯ノ里ニハ山アリ、山容ナダラカニシテ神韻ヲ帯ブ。古ノ河野氏ノ城址ナリ」
 というところから書きはじめ、その山に鳥が大よろこびで遊んでいるという描写をした。

(中略)

「ところが出てきて、長州の連中が話しているのをきくと、あれは東京の地名じゃそうじゃな。アスカヤマと読み、鳥でうて人間が花見で遊ぶという題であるそうな」

(中略)

(田舎者は来るなということか)
 この出題から考えればそうであろう。出題者はひょっとすると旧幕府の儒官で、田舎者をばかにしているのかもしれなかった。



じじぃ「次は三巻「十七夜」、海軍大学校の坂本校長がアメリカ留学中の秋山真之に会ったとき「なぜ大学校に入らんのかね?」と訊き、「私に教える人がいるでしょうか?」と反問されたくだりじゃ」


 海軍大学校時代の校長は坂本俊篤であったが、この坂本が欧州視察の途中アメリカに寄り、ワシントンで大尉時代の真之に会ったことがある。
「君は、海軍大学校に入らんのかね」
 海軍大学校の甲種学生は少佐か大尉でえらばれるから、この質問はふしぎではない。
 が、真之はふしぎそうな顔をしてこの老先輩の顔を見つめ、
「私に教える教官がいるのでしょうか」
 と、反問した。
坂本は、一瞬考えてしまった。
(なるほど、そうかもしれんな)
 と、思いなおした。ワシントンでの滞在中、公使館の広間でずっと真之の話をきいていたのだが、いちいち感嘆した。
(これは学生というより、教官だ)



ちよ「本文の最後の一行は伏線らしいですよ」

芹沢「この作者にそんな細かい芸ができるのか?」

くるみ「錫元の話に使うだけでなく、弟の華秉の話にも使えるような伏線とするつもりで書いたものも多くあるとかいうけど」

ベッキー「そんな地味な解説はいらんぞ。
 さて、金錫源についてだが、彼の長男がフィリピンで戦死しているのは事実だ。当然靖国神社に祀られている」

ちよ「昭和五十五年に金錫源が来日した際、陸軍軍人の集まりで長男についての発言がありました」

芹沢「おっとちよちゃん、それはネタバレだ。今言っちゃダメだって」

ちよ「す、すみません……あれ?くるみさんはどこに行ったんですか?」

くるみ「どうせ私は地味ですよ……ららる〜(涙)」

ベッキー「ったく世話がやけるやつだな。くるみ、韓国兵の弱さというやつについて解説をたのむ。ほれカンペだ」

くるみ「え、えっと、日本陸軍には朝鮮人兵の取扱いについての通達があったみたい」

一、いつ、いかなる時でも唐辛子粉を食事に際し好きなだけ使わすこと。
一、絶対に頭を叩いてはいけない。怨みを持って復讐する気質があり、脱走の原因となる。
一、清潔な食事運搬用バケツと雑巾バケツの区別をよく教えること。
一、危険な状況下では銃を投げ捨てて哀号!と泣き出す習癖があるから、日本兵二名で一名の朝鮮兵を入れて行動せよ。

朝鮮軍司令部1904〜1945 古野直也著 国書刊行会より抜粋


芹沢「ぼろくそだな」

ベッキー「なかなか徴兵制を施行しなかったわけだ、と納得したくなるな。あとこういう資料もある」

くるみ「朝鮮戦争当時の米軍のマニュアルもあるみたい」

米軍による韓国兵の扱いマニュアル

1.韓国人には強気で押せ。抵抗する場合は大声で命令しろ。
2.命令を聞かない場合は身体で解らせろ。
3.同じことをくり返す場合、犬のように何回でも同じ様に叱れ。こちらが上と言うことを身体で解らせろ。
4.理由は聞くな。どうせ大したことは言っていない。
5.身体で解らせた場合、根に持つ場合があるので、後で身辺には気をつけて行動しろ。
  但し、徹底的に解らせる迄手を抜いてはいけない。
6.相手を三歳児と思って信用したり頼りにはするな。重要な仕事は任せるな。

芹沢「ありゃー、これもまたいっそうひどいな」

ちよ「作者は、金錫源ら日本軍上がりの将校、士官、下士官らが弱卒をどうにかまとめていたんじゃないか、と考えているそうです」

ベッキー「ま、そんな妄想はあてにはならんがな。で、次は鎮海の桜だ」

ちよ「伐採されてしまった鎮海の桜が復活したのは一九六二年のことです。鎮海名物の桜祭りはこの年を起源として回数をカウントしています」

くるみ「『王桜は済州島の桜がもとである』という説は、一九三二年に小泉源一という京大教授が発表していたみたい」

芹沢「韓国人の発表でないと大義名分にならなかったんじゃねーか」

ベッキー「あとは有名な日帝神話のオンパレードだ」

くるみ「鎮海の円形ロータリー海軍旗説、ソウルの『大日本』説、なによこれ、ほんと妄想のかたまりじゃない」

6号さん「妄想オブジイヤー、いえ、オブジアースですね」


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