斜め上の雲 7

李承晩




 この時期の金家にとって、最大の事件といえば、錫元の帰省であった。
 朝鮮戦争の休戦後、金信五は一家一族を引き連れて、釜山から金村に帰っていた。五五年の夏、暑中休暇で錫元は帰ってきたが前ぶれはしていない。
 錫元は坡州で汽車からおり、下士官服に似た士官学校の制服をきて町へ入ってきた。そういう錫元を最初に街角で見かけたのは、幼友達の文景福であった。
「そこへ行かれるは金家の元さんではございませぬか」
 文は、丁寧語でなまぬるくいったが、気持はひどくせきこんでいる。この文景福は錫元より五歳年下であったが、幼いころから仲がよく、いまは高校に在学中である。錫元が士官学校に入ったことはきいていたから、
(この兵隊姿が、きっとそうじゃろ)
 とおもいながら、声をかけたのである。錫元はふりむいた。
 やあ、景福か、と立ちどまった。文はなつかしいよりも、錫元が士官学校に入ったことがうらやましくてならず、
「士官学校ちゅうのは、やはり官費ですか?」
 とたしかめてから、
「ウリも金村で薄ぼんやりすごしていてもつまらんので、士官学校でも入ろうと思うんですが、どんなもんです」
 文にすれば、本気であった。士官学校に入れば英語が学べるという。かれの当時の日本語以外の語学というのは宝石のように稀少価値があり、語学を学べる場所など韓国でもいくつもなかった。ところが錫元は、
「やめえ、やめえ」
 と、帽子の下から汗をながしながら手をふった。文はおどろき、どうしてですか、ときくと、
「どうしてって、あんなところ、しんどぉてたまらん」
 と、錫元は頭をふった。
 まったくその言葉どおり、この錫元の入った時期の士官学校というのは辛い課業を生徒に課していた。朝鮮戦争は休戦になったというものの、陸軍当局としては軍の再編と近代化のために生徒をきびしく鍛えるもくろみでいたから、一年でやる学課や実技を半年で詰めこみ、いっきに一人前以上の士官を育てるやりかたであり、この暑中休暇も規定でい えば夏に五週間ということであるのに、ことしは十日だけしかなかった。
「元さんでも、しんどいんですか」
 これには、文もおどろいた。他家にやとわれて農作業をしたり、狩りのために野山を駆けていた錫元の姿を文は幼友達だっただけによく知っており、その錫元がしんどがるようでは、
(ウリにはどうにもならんな)
 とおもった。文はそろばん勘定には自信があったが、体には自信がない。それに錫元の話をきくといまは英語の勉強よりも軍事学や実技ばかりをやらせるから文が思っているような学校ではなさそうであった。
「ほなら、やめました」
 文は言い、錫元とわかれた。錫元は、こんな地獄のような学校は人にはすすめられんと本気でおもっていたし、「金村で薄ぼんやりすごしていてもつまらんから士官学校へ」というような文にはとくにむりだとおもった。

 錫元の帰省は、金家だけでなく金村じゅうでちょっとした話題になった。
「金家の元さんを見にいってくる」
 と、まるで芝居でも見にいくように、おとなたちは金家に出かけた。
 文景福の父、文士誠もそのひとりである。
「大きくなったもんじゃのぉ」
 士誠は錫元を見るたびに感嘆した。かれは日本時代に苦学して巡査になり、現在も警察に身をおいている。
 かつて光復軍が金村に進駐したさい「日帝の手先を糾弾する」として、接収された職場に呼び出しを受けた。大声をあげて威嚇する光復軍幹部にかれは怒鳴りかえした。
「おれは勉強して、おれの力で職についた。なにが悪いか――おまえらは」
 なにもしなかったばかりか、今ごろのこのこと出てきて戦勝者づらをしてなにをいばりくさるか、ごくつぶしの恥さらしめが、と一気にまくしたてて、机を蹴りあげ、花瓶を投げつけてさっさとその場をあとにした。
 そのかれが「錫元見物じゃ」といって、毎晩どぶろくを満たした一升壷をさげて金家にやってくる。小さいころからよく知っている錫元が成長したのがよほど気にいっているらしい。
「陸士ちゅうたら、やっぱり卒業したら少尉任官かの?」
 と、士誠はきいた。
「はい。四年課程です」
「なんで陸士をえらんだんじゃ」
 理由のひとつはすでにふれた。金がかからないで勉強ができるからである。
 いまひとつの事情は、勉強しながらも給料をとれるということだった。
「父上さま、四年経ってわたしが少尉になると、今よりお金を送りますので、弟たちを学校へやってくださいませ」
 錫元は信五のほうに向きなおってそういった。錫元の下には二人の弟と一人の妹がいる。今も送金をしているが、任官すればその額をもっと増やすという。
「たいした息子じゃのぉ」
 三人の息子と一人の娘の親である士誠は、また感嘆した。

 この時期、韓国は疲弊している。
 せっかくむきずで接収した日帝の主要産業施設も大半は朝鮮戦争で灰燼に帰した。農地も荒廃し、農地改革もうまくすすまず、多くの越南者は職からあぶれた。
 大統領である李承晩は、経済復興について有効な政策をとることができず、アメリカからの援助物資に依存するばかりであった。
 十五年間にわたる李承晩の施政中に総額約三十億ドルにもおよぶ援助物資が供与されたという。年平均で二億ドルという計算になる。
 この援助物資の分配は利権であるといっていい。李はその分配に政治力を行使した。なにやら列強に利権をくらわせつつ対立させようとした清の李鴻章に似ていなくもない。
 その結果、分配された物資をもとでにしていくつかの財閥がうまれた。三星、現代、LG、斗山がその代表格である。

 一八七五年うまれの李承晩はすでに八十歳ちかい老人である。
 零落した両班の末裔である李は、十九歳のとき科挙が廃止され立身の道を断たれたため、ミッションスクールである培材学堂に入り、英語とキリスト教に接した。
 九八年には、「毎日新聞」「帝国新聞」の創刊に参画したばかりか、高宗国王の退位とその次男の擁立計画に加担し、終身刑を宣告された。
 一九〇四年に特赦で釈放され、日本の横暴をルーズベルト大統領に訴えるため、高宗の密使として渡米し、門前ばらいをくらったのちもアメリカにとどまり、プリンストン大学に入学し哲学博士号を取得した。
 一〇年に帰国したものの、すでに「大韓帝国」は存在せず、一二年にアメリカに亡命して独立運動を開始し、一九年の上海臨時政府にさいして大統領に選出されたが、内紛により失脚、ふたたびアメリカにのがれ、光復までアメリカを拠点として活動した。
 独立運動家としての経歴は申しぶんないようではあるが、そのひととなりはどうであったのだろう。

 かれは、北進統一をさけびながら現実の軍備についてはなんら手をうたず、朝鮮戦争がはじまると、首都ソウルの死守を命じておいてさっさと逃げだした。
 さらにいえば、逃げた先の大邱でも退去を拒絶してアメリカ大使ムティオに、
「大韓民国の民衆を見捨てることはできない。ライフル百挺をくれ。死士百人をひきいてともに戦って死にたい」
 とさけびながら、けっきょくは何ごともなかったように鎮海に退去した。
 また、日本の警察予備隊を援軍として来援させるというプランを打診されたときには、
「そんなことをすれば、われわれは向きを転じて日本と戦争する」
 と逆上した。そのくせ、もし敗戦して朝鮮半島を追い落された場合には、亡命政権を九州か山口につくろうと画策していた。
 まことにとらえがたい人物ではある。

 李承晩は、内政においては失政をかさねたといっていい。
 アメリカからの援助物資の分配を通して財閥を育成したものの、農地改革はすすまず、不満の声は高まった。
 年平均二億ドルにものぼる援助物資は、
「李承晩がいるからこそアメリカが援助してくれる」
 という信仰をうみ、かれの支持理由となったが、五〇年代後半に入ってからじょじょに減額された。同時に財界内の対立も表面化しだしてきており、これがのちに権力崩壊の一因となる。

 また、李はたびかさなる憲法の強引な修正によって大統領任期の延長を繰りかえした。
 とくに強引であったのは、五四年十二月の大統領三選禁止の撤廃の是非を問う国会投票であった。
 賛成百三十五票、反対六十票であり賛成票が定員二百三名に対して三分の二をしめてないため、いったんは否決とされたのにもかかわらず、
「国会定数の三分の二は、四捨五入して百三十五票である」
 と、強弁して法案を可決、憲法改正を公布した。このような算術はとうてい常人のなしえるところではないであろう。

 李承晩は外交においてことごとく対外強硬策に出た。とくに休戦中の敵である北朝鮮に対する反共政策はよいとしても、反日をもかかげそれに固執しつづけた。
 大韓民国成立から半年と経っていない四九年一月にははやくも、
「対馬は韓国の領土である」
 といい、「返還」要求の実行を示唆した。
 そのくせ、朝鮮戦争中ふたたびソウルをうしなった直後の五一年一月には、対日講和を支持、日韓友好を希望する声明を発表した。つまりは窮状にあって日本におもねったといっていい。
 五二年一月には、一転して海洋主権宣言を宣言、「平和線」と称して日本海に漁船立入禁止線領域線を設定した。いわゆる「李承晩ライン」である。ソウル再奪還によって戦況が有利に転じ、日本の機嫌をとる必要はなくなったと見定めたことが一因であろう。
 この李承晩ラインによって、三百隻をこえる日本漁船が拿捕され、四千人近くの漁民たちが抑留されたばかりか、銃撃による死者も四十四名にのぼった。しかも、抑留者を返還する条件として、日本政府は身代金をはらった上に、日本国内で重大犯罪者として収監されている在日朝鮮人四百七十二人を仮釈放して在留特別許可をあたえるはめとなった。人質外交の一種であるといえる。
 李はつづいて五三年二月に竹島の領有権を主張した。五四年一月には竹島に領土標識を設置し、五月には民間守備隊を派遣、九月には島の武装化を決定、とたたみかけるようにうごいた。そして十月には、竹島問題を国際司法裁判所に提訴するという日本政府の要請を一蹴した。

 一方、日本経済の復興について、
「朝鮮戦争では国連軍十六ヵ国の青年たちが参加し、血を流して自由陣営を守っているのに、日本の青年たちは何をしていたか。映画をみて、パチンコをして、ストリップに興じていたではないか。そして特需で肥えふとったのではないか」
 と皮肉たっぷりにいいはなった。日本が国連軍の継戦能力をささえた兵站補給基地であったことをきれいに失念した、まことに粗雑きわまりない認識ではある。
 それはくとしても、もし日本の青年たちが、李のおもいに応えて自由陣営のために銃をとって血を流して戦おうとしていればどうなっていたであろう。
 じつをいえば、李承晩自身が朝鮮戦争中に明確に答えを出している。
「日本軍が来たら、銃口を転じて北と一緒にたたかう。二度と朝鮮半島を日本人に踏ませない」
 と。

 また、李は対北政策について休戦交渉に消極的であったばかりか、五五年八月には休戦協定を即時に破棄するという談話を発表するなど、無用なまでに強気であった。
 そのくせ在日朝鮮人の帰国事業については北朝鮮に遅れをとった。
 日本のマスコミは、李の失政によって困窮する農家のようすを報道しつづけた。そのいっぽうで、北朝鮮の宣伝を側面援護するように、北朝鮮を建設途上の楽園として美しくえがいた寺尾五郎ら左翼人士の訪朝記や新聞報道が流されつづけた。
 北朝鮮の宣伝をうのみにしない在日朝鮮人たちも日本のマスコミ報道には一定の信頼をおいたため、北朝鮮への帰還者が増大した。李承晩は北朝鮮と日本政府にたいする非難を繰りかえすのみで、北への帰還の流れをとどめ韓国への帰還者をふやすための有効な手をうたなかった。これこそがかれ最大の失策であるといっていいだろう。

 以下は余談。
 李は、ハングルの制定で有名な世宗大王の庶兄をその祖とする両班の出身である。
 光復後の混乱期には、
「李王家をむかえて立憲君主制をとるべきだ」
 という議論もわずかながらあった。結局採用されることはなかったのだが、李王家が日本に取りこまれていたので神聖性をうしなっていたのが理由であるとされる。
 もっとも、秕政のすえに朽ちるようにして国をうしなった李王家に、国民統合のいしずえとなる求心性があったとは考えにくい。
 李は、王家の親族であるという出自を誇っていたにもかかわらず、王族にはひたすら冷淡であり、その帰国を禁じたばかりか、訪米について査証を発行もしなかった。王族が政治的な対抗馬になることをおそれたための冷遇であったという。
 あるいは、じぶんが「皇帝」になりたかったからであるともいう。

 韓国人は気づかないことが多いが、朝鮮半島にも皇帝は存在した。一八九七年、李氏朝鮮は国号を「大韓帝国」とあらため、国王を皇帝とした。わずか十数年のあいだではあったものの、たしかに皇帝はいたのである。
 前述したように李承晩は王族の血脈である。皇帝に即位できるいわれがないわけではない。そのためにもじぶんより血統のよい王族の帰国をゆるさなかったのだという。
 とすれば、李のめざしたものは、国民によって冠をさずけられたナポレオンのような皇帝であったのかもしれない。

 かれの言行を仔細にみると、これまでもふれたように矛盾や突発的な激情の噴出――一種の火病であろうか――がみられる。
 朝鮮戦争前、北進統一をさけびながら、現実の軍備の整備にはいっこうに手をつけなかったというあたりや、戦況に応じた対日姿勢の豹変ぶりから察するに、かれは、もっともらしく理想のみを語ってなにも行動せず、その場その場でかっこうがついて満足できれば、前後の矛盾、自家撞着のたぐいにはまったく気をはらわない両班そのものであったということもできる。
  

>>トップ

>>次回

<<前回




くるみ「錫元の帰郷という話題ね。ってことは」

じじぃ「一巻「真之」、陸軍学校に入った好古が、夏休みで松山に帰省したときのことが元ネタじゃな。以下原文じゃ」

 真之が十歳のとき、明治十年の夏、暑中休暇で好古は帰ってきたが前ぶれはしていない。
 好古は三津浜で船からおり、下士官服に似た士官学校の制服をきて町へ入ってきた。そういう好古を最初に町角で見かけたのは、幼友達の鴨川正幸であった。
「そこへ行くは秋山の信さんじゃあるまいか」
 鴨川は、松山弁でなまぬるくいったが、気持はひどくせきこんでいる。この鴨川正幸は好古と大阪の師範学校で一緒だったし、その後鴨川は松山に帰って教員伝習所で教べんをとっている。好古が士官学校に入ったことはきいていたから、
(この兵隊姿が、きっとそうじゃろ)
 とおもいながら、声をかけたのである。好古はふりむいた。
 やあ、鴨川か、と立ちどまった。鴨川はなつかしいよりも、好古が士官学校に入ったことがうらやましくてならず、 「士官学校ちゅうのは、やはり官費かな?」
 とたしかめてから、
「あしも田舎で薄ぼんやりすごしていてもつまらんけん、士官学校ィでも入ろうと思うんじゃが、どんなもんじゃな」  鴨川にすれば、本気であった。士官学校に入ればフランス語が学べるという。かれの当時の語学というのは宝石のように稀少価値があり、語学を学べる場所など日本でもいくつもなかった。ところが好古は、
「やめえ、やめえ」
 と、帽子の下から汗をながしながら手をふった。鴨川はおどろき、なんしてや、ときくと、
「何してて、あげなところ、なんぼかつろうてたまらん」
 と、好古は頭をふった。
 まったくその言葉どおり、この好古の入った期の士官学校というのは辛い課業を生徒に課していた。まだ西南戦争はおわっておらず、陸軍当局としては生徒を在学中に戦地へやるもくろみでいたから、速成の士官教育を計画し、一年でやる学課や実技を半年で詰めこもうとするやりかたであり、この暑中休暇も規定でいえば夏に五週間ということであるのに、ことしは十日だけしかなかった。
「信さんでも、つらいかねや」
 これには、鴨川もおどろいた。銭湯にやとわれて水汲み風呂たきをした好古の姿を鴨川は幼友達だっただけによく知っており、その好古がしんどがるようでは、
(あしはどうにもならんな)
 とおもった。鴨川は師範学校の成績は好古よりよかったが、体には自信がない。それに好古の話をきくといまは戦時下でフランス語の勉強よりも実技ばかりをやらせるから鴨川が思っているような学校ではなさそうであった。
「ほなら、やめた」
 鴨川は言い、好古とわかれた。好古は、こんな地獄のような学校は人にはすすめられんと本気でおもっていたし、「田舎で薄ぼんやりすごしていてもつまらんから士官学校へでも」というような鴨川にはとくにむりだとおもった。



ちよ「錫元に声をかけてきた幼友達の文景福とその父の士誠は、作者の義弟の父と祖父がモデルです。当然、名前は変えてありますよ」

ベッキー「本物の作者の義弟の父は、大型小売店の進出によって左前になりつつある雑貨食料品屋の店主だそうだ。競合相手がいなかった昔はぼろ儲けをしていたのだが、気がよすぎて、親戚連中に乞われるままにお金を分けたりしたんだと…ま、気がよく、それでいて思慮の深くない、明るい韓国人ってやつかな」

ちよ「で、でもいい人なんですよ。六十歳を過ぎてから息子(作者の義弟)とその嫁(作者の妹)のために日本語を勉強していますし、作者の家族とも仲がよいし、気のいいおっちゃんですよ」

くるみ「作者の義弟一族が日本びいき、すくなくとも日本に対して好意を持っているのは、義弟の祖父が日本時代に苦学して巡査になり、それを誇りに思っていた事が大きく影響してるみたいだけど。
 たしか三年ほど前に物故したその祖父は、食事前には手を合わせて『いただきます』と日本語で言っていたそうね」

芹沢「巡査と言えば、日帝の手先として真っ先に責められそうなもんだが」

ベッキー「歴史に疎い作者の妹は、最初は、日本語を使う習慣を日本支配の爪痕だとおもっていたらしい、だが事情をわかるにつれてそういう見方からは解放されたみたいだな。
 義弟の心残りのひとつは、祖父に対して、日本人と結婚しますということをきちんと伝えないままに世を去ってしまったということらしい。もし祖父が健在なら、毎週のように義弟宅に来て、作者の妹や曾孫と日本語での会話を楽しんだにちがいない、と言うんだよ。
 日本でもそうだが、真実を知る者は寡黙なんだ。寡黙という美徳を守ったまま生を終える、これは作者の実感だ」

一条さん「知る者は語らず、語る者は知らず」

ベッキー「一条の言うとおりだろうな。『敗軍の将は兵を語らず』に似ているのかもしれん」

ちよ「話を戻しますと、そういう義弟祖父への敬意もあって、光復軍をしばいて帰ったというフィクションをつくったんですね」

ベッキー「これは公私混同(?)だな。士誠という名前は、義弟一族の有名な先祖の名前を同音の漢字にずらして拝借したようだ。あと、自分の力で地位を得た、恥じることはない、というのは実際に言っていたそうだ」

くるみ「その有名人が族譜上先祖であっても、事実かどうかはわからないんでしょ?族譜偽造とか成り上がりの系図買いとかあったんだし」

ベッキー「本貫がひとつしかない姓だから信憑性はあるだろうよ。それに、事実であろうがどうであろうが、作者とその父にかかっては『有名な先祖に負けないようにがんばれよ』と義弟をおちょくるネタでしかないんだ」

芹沢「やな義父と義兄だな……で、『机を蹴りあげ、花瓶を投げつけてさっさとその場をあとにした』って、フィクションにしても過激だな」

ちよ「あ、これは、花瓶と火病が朝鮮音では同音ということを生かしたシャレですよぉ。」

芹沢「なんじゃそりゃ」

くるみ「しょうもない小細工を……で、この李承晩についてはどうなの?」

ベッキー「あのおっさん、なかなか食えない人物だぞ。アメリカからの援助物資の分配を利権のようにして、その分配に政治力を行使したのは事実だ。良くも悪くもしたたかな爺さんだよ。
 で、その結果、三星、現代、LG、斗山といった数々の財閥がうまれたわけだ」

ちよ「李承晩の政治手法というのは、中世の宮廷政治家をおもわせるところがあります。このようにパイの分配や派閥の力関係を利用して均衡をとる、という手です。源平・摂関家を手玉に取った後白河法皇を、もっと我欲を強くしたイメージかもしれません」

ベッキー「権謀術数ってやつかな。ま、これでは近代国家の建設ってのはできないんだがな」

芹沢「『まことにとらえがたい人物ではある』ってのは作者の本音だな」

くるみ「日本の青年は朝鮮戦争間に享楽を貪り、特需で肥え太ったという発言はほんと?」

ベッキー「本当だ。本文にもあるように、日本が兵站補給基地であったということを理解できない、したくないというのが一因かもしれんな。本文で皮肉ったように『日本軍が来たら、銃口を転じて北と一緒にたたかう。二度と朝鮮半島を日本人に踏ませない』と先に言ったのと矛盾してくるのだが、自分の発言をころっと忘れたかケンチャナヨ♪とばかりに言ったのかはわからない」

ちよ「韓国人の、継続性のない対応、長期的な信頼関係に基づかない商慣行については『つきあいきれない韓国人』(渡部昌平 中公新書ラクレ)でも述べられています」

芹沢「つまり、短期的な利益だけを視野において、刹那的に射利に走るというわけだな。どうりで職人仕事や地味な基礎技術が重視されないわけだ」



>>トップ

>>次回

<<前回