斜め上の雲 8

台湾




 五七年、士官学校を卒業した錫元は陸軍少尉に任官した。
 当時参謀総長は白善である。錫元については朝鮮戦争中にわずかながら接したこともあって、なにごとかをみぬいていたらしい。情報局に配属したのもそのあらわれであっただろう。
 白は再度の戦争にそなえて軍の近代化をおしすすめていたが、政治にたいしては不干渉の態度をつらぬきとおした。かれのように日本軍の影響を受けた多くの将官たちは、日本が敗亡したのは軍が政治に介入したせいであると考え「兵は政を談ぜず」という信条をまもっていた。
 さらにいえばその経歴のため「親日派」と分類されかねないかれらは、いわば、すねに傷持つ身であるため政治に対しては消極的にならざるをえなかったということもある。李承晩にしてみれば、いつでも「親日派」という理由をつけて粛清できるのである。
 また、一部の将官たちはそういった事情もあって政府に唯々諾々としたがうばかりか阿って利権をもとめるようにもなり、若手将校らの不満をまねいていた。
 軍内は、日本軍、満州軍、中国軍、光復軍出身者がいりみだれており、休戦後しばらくは白善や丁一権のような満州軍出身者が要職を占めていたが、特務部隊長である金昌龍少将が暗殺されるなどその満州軍閥内部でも権力争いが激化した。
 李承晩は、そういった状況を利用して各派閥の対立をあおり、勢力の均衡をはかることで軍部を統御してもいた。

 錫元は信五との約束どおり、給料の多くを金村の実家に送金し、残りのほとんどを軍事資料や史料の購入、戦跡の取材旅行についやした。
 白善の許可を得て、朝鮮戦争の戦跡をもとめて国内を旅行するだけでなく、他国の戦跡をもとめて海外にもとんだ。そのなかでも日本と台湾にはかよいつめたといっていい。
 両国とも近く、かれにとっては言葉にもそう不自由しないことにくわえて、日本には戦史資料が多く、台湾は戦時中であったからである。

 台湾は、金門島にたびたび中共軍による攻撃があるなど、いまだに戦塵がくすぶっていた。むろん戒厳令はまだしかれている。
 金門島は、台湾島からかなりはなれたアモイ沖合いの島であり、中共軍にとっては喉もとにつきつけられた針のようなものであった。

 一九四九年十月、中共軍は兵二万をもって金門島上陸をこころみ、ほぼ無抵抗で成功した。その間、島内の国府軍はずっと息をひそめている。
 中共軍が上陸しおえたときだった。にわかに国府軍の舟艇があらわれ、中共軍の背後に逆上陸を敢行したのである。
 さらにそれに呼応して、島内にひそんでいた国府軍がいっせいに攻撃を開始した。挟撃された中共軍は二日間の戦闘で多数の戦死者を出して潰滅した。
 また、五五年と五八年には海峡をはさんで国共両軍による大規模な砲撃戦が展開された。とくに五八年のそれはすさまじく、中共軍は四十四日間にわたって、合計四十七万発もの砲弾を金門島に送りこんだといわれる。

「これらの戦いについて研究したい」
 と、錫元は台湾訪問を申請し、みとめられた。仁川や江華島などに北朝鮮軍が上陸した場合を想定してのことである。むろん北に加勢してくるはずの中国軍の力量を知るためでもある。

 錫元が台北をおとずれたのは五九年の七月のことである。
 台北の夏は暑い。汗だくになりながら国府軍の兵舎についた錫元は、軍事顧問の林保源中将という人物をたずねた。
 錫元がけっしてうまいとはいえない北京官話であいさつすると、
「陸士二十七期の金錫源将軍と同名か。よい名前ですね」
 と林はいった。
将軍しょうぐんをご存知なのですか」
 かつてふれたように錫元は金を「将軍しょうぐん」と日本語発音でよぶ。それをきいて、林は日本語に切りかえた。
「私は陸士二十三期です。りっぱな後輩を忘れてはなりません」
 といって笑った。林の本名は根本博といい、れっきとした日本人であり日本陸軍の中将であった。

 太平洋戦争の終戦後、国府軍は中共軍との内戦にやぶれて台湾に逃げこんだ。蒋介石は軍の立て直しのために日本軍人をまねくことをおもいついた。
 支那派遣軍の総司令官であり、がんらい蒋と親交のあった岡村寧次大将は、そのたのみにこたえて多くの陸軍軍人を送りこんだ。つい先日まで干戈をまじえていたというのにこのかわりようはどうであろう。まことに奇々怪々というしかない。
 軍事上の理由としては、物資が豊富で物量戦術をとれるアメリカ軍より貧乏所帯でなんとかやりくりしてきた日本軍のほうがじり貧の国府軍には手本になると考えたということがあるだろう。
 また蒋にしてみれば、国府軍内部で抜擢した人材が功績をたてて地位と声望を高めてしまえばじぶんの地位がおびやかされる。それによって軍が強くなっても国家が強くなっても、かれにとっては危険なのである。
 しかし日本人ならいくら功績をたてても、けっしてとってかわられる心配はない。安心して権力の保証となる軍事に関するしごとを任せることができる。
 かれの頭にはつねに権力への執着とわたくしのみがあり国家やおおやけはなかった。
 しかしせんじつめてみれば、支那においては権力者とは大なり小なりそういうものであった。かれの不倶戴天の敵である毛沢東にも多分にそういった面がある。

 蒋は栄達のために若いころからずいぶんいい加減なことを重ねてもきた。異様に権力欲がつよく、義兄弟の契りをむすんでいた杜月笙を、太平洋戦争後、用済みとばかりにうらぎったこともある。杜は上海の青幇チンパンの親分であり、蒋は国民党内部でのしあがるために、かれの力と資金を利用していたのである。

 話がそれた。
 選ばれて台湾に密航した日本軍人たちは中国式の偽名を名乗り、初代団長富田直亮少将の偽名である白鴻亮にちなんで、
白団パイダン
 とよばれた。「紅い」中共に抗するという意味も含まれている。
 白団のメンバーはただの軍人ではなく、陸軍大学校の教官をつとめたものなど、教官としても一級といえる人材がえらばれていた。かれらの真摯な努力にふれた国府軍の将兵たちはすすんで学ぼうとした。
 アメリカで軍事教育を受けた孫立人将軍は、敗戦国の軍人ふぜいが、と当初は軽侮していたが、その姿勢を一転して泥中に身を投じて匍匐前進訓練を率先しておこなうほど熱心な生徒のひとりとなった。

 白団は、国府軍の建てなおしだけでなく作戦の立案にも関与した。
 四九年の金門島防衛戦において作戦をじっさいに立案したのは白団である。さっそく錫元は作戦についてたずねた。
「敵を上陸させておいて背後から逆上陸というのはさほど目新しいものではありません」
 林はていねいに答えた。
「日本史のなかにお手本があるのです。厳島の戦いをご存知でしょうか」
 さすがに錫元は知らない。林はてみじかに説明した。

 一五五五年、安芸の大名毛利元就は、防長両国と豊前の一部を領する陶晴賢をうつため瀬戸内海の厳島に城をきずき兵をいれた。
 劣勢である元就は謀略のかぎりを尽くして、その大軍をせまい厳島に集めさせるようはかった。
 陶晴賢は、軍事において当時第一級の才幹であったといっていい。しかし不幸なことに元就の謀略の才能は陶のそれをはるかに凌駕していた。
 晴賢は、ついにのせられた。
 陶勢は二万の大軍をもって上陸して城を囲んだ。わずか三千の毛利勢は闇夜にまぎれてその背後に逆上陸し、夜明けに城方とともに挟撃した。陶軍は壊滅し陶父子は浜辺で自刃した。

「マッカーサー元帥の仁川上陸も、ねらいとしては似たようなところがあるのかもしれません」
 朝鮮戦争初期の劣勢をひっくりかえした仁川上陸も、敵の主力を釜山橋頭堡までよびこんでおいていっきに政戦略上の要衝であるソウルを奪還、敵を挟撃した。
「やはり日本軍は奇襲をこのむのですか」
 錫元の疑問に林は首を横にふった。
 ほんらいなら、正統な戦略によって敵に倍する兵数をそろえて平押しにおしてゆくというまっとうな戦法をとりたいのである。しかし、
「私たちは豊富な兵力・弾薬を持っているわけではありません。貧乏所帯はあるものでやりくりしていかなくてはならないのです」
 そのために戦術を駆使せざるをえなかった。巧緻に走りすぎたという批判もやむをえませんが、という。
「現実を正確、虚心に受けとめて最善を尽すべく方策をねる。このあたりまえのことがむずかしいんです」
 これが完璧にできればどこの軍隊も負けないんでしょうがね、と林はわらった。

 また、林は、軍事顧問としては教え方も重要だともいった。
「わたしは顧問であって上官ではありません。命令するのではなく指導するだけです」
 つまり先生である。とはいえ、教えこむだけではなく、生徒にやらせることを主眼としなくては生徒の身につかないという。
「先生の質も大切ですが、生徒のやる気はそれ以上に大切なのです」
 先生はでしゃばってはいけない。謙虚に控えめであるべきだともいった。
(ウリナラの教師とはだいぶちがうなぁ)
 錫元はそうおもわざるをえない。
 韓国では教師はえらいものと決まっており、生徒の父母からのつけとどけを当然のごとく受けとっていた。額の多少によって生徒の成績やあつかいが変わるのもよくある話であった。

 台湾に滞在中、錫元は国府の人間だけでなく台湾人にも接した。
 台湾人の優秀性については、錫元は正直なところ、舌を巻いた。さらに他の分野についてひそかに韓国と比較しつつ採点したが、みなわるくない。
 その手記に、
「この数日間の観察によれば」
 と、その台湾と韓国の国力についての概評をかいている。
「農業、工業は、日本のインフラに立脚しており、朝鮮戦争でダメージを受けたわが国にややまさっている。工業における技術力はわが民族の技術力と大差ないだろう」
 と、やっと技術力にいたってまずまず韓国に対して同点をつけている。
「台湾人は」
 と、書く。
「一般に刻苦勉励をいとわない、ことに日本時代に教育を受けた世代は、その上、清廉で正直を愛する美風が残っている」
 どうにもならぬ優秀さである。
 こういう人々の国と韓国に親交があるということは、たのもしいことであろう。

 さらに、政治行政の担当者の能力である。これがもし無能で貪欲ならば、いかにその国民が勤勉で有能であっても、国家の発展はむずかしい。
 錫元はこの担当者の人間をも「見学」するため、台北でも高雄でも、できるだけ多くの人物と会った。その総評は、
「高級の首長、とくに大都市は、国民党の人を備えている。いずれも貪官汚吏である」
 と、書いている。
 よいところは、すこしもなかった。ただ、結論として、
「しかれども時代がかわって、台湾人が登用されて政治行政にかかわることになれば、弊風はあらたまり、清廉になるであろう」
 とある。しかし台湾人が登用されるといっても、結果からみれば台湾人から総統が出るのは三十年以上先の話である。この点は早急にすすまなかった。

 ついでながら、錫元の観察には、二一世紀の韓国人が好んでいった「○○先進国」「○○宗主国」といった妄想的なことはいっさい語っていない。
 すべて、客観的事実をとらえ、空疎な修飾を排して論じている。これが、錫元だけでなく、この時代の多くの韓国人の共通性であり、二十一世紀の韓国人が、自国と世界の国力をはかる上で、根拠のまったくないウリナラマンセーや半万年の歴史を、最初から韓国のほこるべき絶大な優秀性であるとして不動の計算要素にしたということと、まるでちがっている。


  

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ベッキー「錫元の任官と、軍事研究への没頭、台湾への取材が題材だ」

くるみ「韓国軍内部の暗闘はほんとにあったの」

ベッキー「ああ、けっこうドロドロしたものがあったようだ。で、本文にもあるように若手将校はそのグデグデぶりに不満を持つようになった。そこから先、どうなっていったかは次回以降に書く」

芹沢「先のお楽しみ、ってことか。で、この台湾の話は作者の趣味全開だな」

ベッキー「ま、作者はほんらい朝鮮史より中国史のほうがメインだったからな。金門島砲撃を四十七万発もの砲弾を送りこんだといわれる、いう表現については解説がいるな」

ちよ「結論から言うと、ほんとうに四十七万発も打ちこんだか作者は疑問に思っています」

くるみ「どういうこと?」

ベッキー「支那の悪習である、着服、横領、横流しだ。たとえば、数値を単純化して言うとだな、輜重担当が『一万発』の砲弾を前線に供給するよう命じられたとするぞ。
 まず、ここで輜重担当が一千発をくすねて、輸送担当者には口止めのためにそこから三百発を分ける。輸送担当者は帳簿上「一万発」の砲弾を運んで前線に供給する。前線指揮官はそこからまた一千発くすねて懐に入れれば、実数は八千発だ。で、これを撃ち尽くせば記録上「一万発」の砲弾を撃ったということになる」

くるみ「くすねた砲弾はどうするのよ?」

ベッキー「そりゃ売り飛ばして懐を潤すにきまっているだろ。歴世、支那の軍隊ではよくある話だ。
 かつては軍用の糧秣が着服・横流しの対象だったんだが、近現代に入って銃器などの兵器が高く売れるようになると、兵器もその対象になったわけだ。国共内戦時も、共産党軍に装備弾薬を売りつける国民党兵士なんてのもいたしな。
 一個連隊のうち、数%の兵士が実際には存在しない、という員数上の一個連隊ってのもあったぞ。司令官はいない兵士分の給料・装備・弾薬を懐に入れるわけだ。もし点検が来たら仲間の軍から兵士を借りて取り繕う。仲間も当然同じことをしているわけで、互いに兵士を貸し借りしてつじつまを合わせるわけだ。点検担当者にいくらか握らせるという手もあるが」

芹沢「マジかよ」

ちよ「この時期の中共軍がそこまで伝統的悪習に染まっていたかどうかはよくわかりませんが、ありえない話ではないです。
 こちらは日清戦争直前の話ですが、駐清代理公使だった小村寿太郎の報告には、日本公使館の料理人は清軍の兵隊でありながら、演習には代理人を送ってごまかしていたということが書かれているそうです。
 そうそう、日中戦争時、中国軍がアメリカからP−40戦闘機を購入するたびに、キックバックが蒋介石夫人宋美麗の宋家に入っていた、という記述を作者はどこかで見た記憶があるそうです」

ベッキー「米軍アジア方面司令官だったスティルウェル陸軍中将の著書だったかもしれん。
 それはともかく、金門島に大量の砲弾が打ちこまれたこと自体は事実だ。今でも金門島の地面を掘ると砲弾が出てくる。その砲弾を利用して金門島名産品の包丁がつくられるんだ。けっこう品質はいいらしぞ」

くるみ「さすが台湾人ね。で、この白団パイダンについてはどこまで本当なの?」

ベッキー「作者が十年近く前に立ち読みした
白団ぱいだん 台湾軍をつくった日本軍将校たち』(中村祐悦 芙蓉書房)という本の記憶だけが元ネタだ。ま、『若き将軍の朝鮮戦争 白善回顧録』(白善 草思社)でもちらっと書かれてはいるがな」

ちよ「作者らしいいい加減さですね。
 蒋介石が、日本人なら権力闘争関係の心配はないと考えたという解釈は作者のオリジナルです。『白団』を読んだころから、それが主因だと思っているとのことです。
 蒋介石の描写については『坂の上の雲』ではなく『項羽と劉邦』から借用しました」

じじぃ「下巻で「背水の陣」をひいた韓信に敵対する趙の宰相陳余についての描写がが元ネタじゃ。以下原文」

(正気だろうか)
 李左車はおもった。陳余は若いころずいぶんいい加減なことをしてきた。張耳とのあいだに刎頚の交わりを結んでいながら、ある戦場でわが身をかばうあまり、張耳を見殺しにしかけたこともある。異常に栄達欲がつよく、そのために人を踏みつけにしたことも多かったが、趙の支配者になってからは心のひろやかな徳者をよそおうようになった。


芹沢「杜月笙ってのは何者なんだ?青幇チンパンってのは何なんだ?」

ベッキー「杜月笙は、青幇チンパンの大物で上海三大ボスの一人だ。青幇チンパンというのは、大雑把に支那のマフィア、暴力団みたいものだととらえておいてくれ」

ちよ「最近では『蒼天の拳』というマンガでも出てきましたから、現代の日本人にとってもそれなりに知られるようにはなったかもしれません。作者は『八股と馬虎』(安能務 講談社文庫)を主にネタ本にしています」

くるみ「安能務って、あの『封神演義』をはじめて日本に紹介した人ね。でも原作を勝手にいじくったとかいって評判悪いわよ」

ベッキー「ああ、原作では申公豹は雷公鞭なんて持っていないとか、哪 ロ乇 を『ナタ』ではなく『ナタク』とルビを振ったのはまちがいだというやつだな。たしかにルビのミスは事実だ。そういえば『隋唐演義』でも単雄信の呼び名『単二哥』に『タンアルコー』とルビを振ったのもまちがいだな。あれは『チェンアルコー』としなくちゃいけない。
 で、『封神演義』を下敷きにして自分のオリジナルを書いたってことなんだが、そんなに悪いこととは思えん」

芹沢「作者にとっちゃ、普通に訳したやつよりおもしろく読めたから問題はないらしいな」

ベッキー「そのへんは個人の主観だからな。どうこういうこともあるまい。だが、そういった批判をいうなら、吉川英治の『三国志』も原作にはない『芙蓉姫』というキャラを出している時点でアウトになるし、張郃 を三回殺したのもペケだ……そんなバカなことを言い出すやつはいないだろ?」

ちよ「本題に戻します。孫立人の姿勢の変化については、『白団』が元ネタです」

ベッキー「『中華帝国史』(安能務 講談社文庫)では、国共内戦中に台湾防衛の任務についていた孫立人は、もし蒋介石が内戦に敗れて台湾に逃げこむならそれを逮捕監禁しろ、というアメリカの密命を受けていたと書いてある。なんでも一九九〇年代前半に公開された米外交秘密文書にあったそうだ。
 ま、蒋介石もそのへんは抜かりなく、子飼いの精鋭である胡宗南軍団を台湾に移して牽制しておいたため、不発に終ったらしい」

くるみ「蒋介石と逮捕監禁といえば『西安事件』よね。やっぱりそれで痛い目にあったから学習したのかしら?」

ベッキー「そうかもしれんな。ただ、胡宗南軍団を台湾に移した時期が問題なんだが……戦況が逆転して敗走を続ける国府軍が、長江の南岸に布陣して北岸の中共軍と対峙しているときだったんだ。一九四八年の十二月だな」

芹沢「おい!内戦に勝たなきゃ意味がないだろ!はじめから台湾に逃げこむつもりだったのかよ。本末転倒もいいとこだな」

ベッキー「蒋介石にとっちゃ国共内戦の勝敗より、自分が権力の地位を保持し続けるほうが大切だったんだよ。勝っても、その殊勲者に取って代わられるのは困るわけだし、負けても自分の地位が安泰ならそれでいいわけだ。だから国共合作を嫌がったんだ」

ちよ「合作した場合、日本軍と真正面からぶつかるのは兵力装備の優れている国府軍になりますが、そこで損害を受ければ国民党は国内政治の主導権を失うようになるかもしれないし、蒋介石が国民党内での地位を維持できなくなるかもしれないですからね。
 あと、日本という外敵とは、外交交渉などの手段で妥協ができないこともないですが、共産党は中国の覇権をかけて争う相手なので、究極的には妥協が不可能、という考えもありですね」

くるみ「金門島防衛戦が『厳島の戦い』をヒントにしているというのはほんとなの?」

ベッキー「これも『白団』が元ネタだ。せまい島なら大軍の利を生かせないからな。韓国の教師についてはこれが元ネタだ」

 賄賂を渡さない両親の子どもは、先生のやる気がその子どもに注入されないため、授業中に無視されたり、質問しても受け付けてくれなかったりすることもあるのだそうだ。反対にお金さえふんだんに渡しておけば、少々成績が悪かろう素行が悪かろうが、先生の胸一つでどうにかなる。

(中略)

 こういうところ(作者註:ソウルの江南。お金持ち地域)に住んでおり、そして学校に通っている子供を持つ親たちは先生に渡す賄賂として一回に多ければ200万ウォンとも300万ウォン(20万円から30万円程度)ともいわれている。もちろんこれより多いこともあるだろう。生徒たちの中で聞いた一番高い金額がこれだった。安くてもこういうとことろに住んでいる人たちは、見栄があるので50万ウォンは下らないのではないかということだった。江南に住んでいる人間は10万ウォン(約1万円)程度であれば、恥ずかしくて渡せないだろうという人たちもいた。

 面談での渡し方としては、面談が終了する間際に渡すことが一般的だ。最後に「先生うちの子供をよろしくお願いします」といった具合で渡すそうだ。先生はその場合断ることがほとんどないという。

 私が聞いた生徒の話の中でこれはちょっと強烈だと思った話が2つあった。おなじく面談の話なのだが、先生と生徒の親が話している最中に、先生が「ちょっとトイレに行ってきます」と席を外れる。そのときに先生は自分の机の引き出しを少し開けておく。それがなにを指すのかといえば「私が席を外している間にそこにお金を入れておきなさい」と いう意味である。

(中略)

 中学校や特に高校になると賄賂は激しさを増す。昔は小学校が一番ひどかったらしいが、最近は大学受験のため、高校の賄賂が大変なことになっている。高校では面談のときの賄賂だけではなく、学期の最後に親がわざわざ学校に出向いて先生が出てきたところを捕まえて賄賂を渡したり、あるいは家に出向いていって直接現金を渡したりするそうだ。当然成績改竄と大学受験にもう一つ必要な内申点の改竄のためだ。

(中略)

 そして、韓国の教育に関する賄賂を象徴する慣例が、5月15日の「先生の日」だ。韓国には先生の日というものが存在しており、いつもお世話になっている先生に感謝する日だ。では感謝の仕方はどうするのかというと、生徒は花を贈ったり自分たちで作った何かをプレゼントしたりする。しかし生徒の親は当然「お金」で感謝を表す。ここでも同じ ように学校にお金を持ってきたり、プレゼントやギフトカードを持ってきたり、家に郵送したり、家に直接持って行ったりするのだ。非常に稀なケースではあるが、先生に直接銀行口座をきいて振り込むという人もいたらしい。銀行口座を教える教師も大問題である。親も親なら教師も教師だ。

 このようなことが公然と行なわれている学校が非常に多いため、最近では自分の学校のイメージアップを図ろうと、いくつかの学校は「先生の日」を休みにして、先生が学校で賄賂をもらえないようにしている。「先生の日」はただ感謝するというだけで国民の休日ではないのに、勉強命の韓国の学校がわざわざ休みにするのだ。どれくらい学校に賄賂が横行しているのか簡単にうかがい知ることができる。

『韓国人につけるクスリ』中岡龍馬 オークラ出版

芹沢「これ、マジかよ。何でも金でかたがつくんだな」

ベッキー「私も教師だからな。情けないというかはらわたが煮えくり返りそうな話だ。他にもソウル大の卒業証書、TOEICの点数、教員免許が金で何とかなったとも書いてあったな。
 韓国人は、じぶんたちがこういうことが当たり前だから、日本人もそうだと思い込んでいるふしがあるんだ」

ちよ「だから、日本はロビー活動でアメリカに竹島領有を認めさせたとかいう発想が出るんですね」

一条さん「ウリはダイナミック・コリアン、通称ファビョンマン。自慢の賄賂に、担当者はみんないちころさ! 大金つかませて、内申点からノーベル賞まで、何でもそろえてみせるぜ! 」

くるみ「しゃれになんないよ、一条さん」

ベッキー「お金ででノーベル賞というのはほぼ事実だがな。金大中政権下での対北秘密送金事件はまだ記憶に新しい。ま、これもかなりあとで描くことになるが」

じじぃ「台湾人の観察評価については、三巻「風雲」、日露開戦前にロシア軍の演習に招かれた好古がロシア軍を視察・評価したところじゃ。
 ロシア軍の優秀さを台湾人に置き換え、途中からは原文を正反対にして「中国人(外省人)」への批判にし、最後は韓国人批評とするというひねり方じゃな。以下原文じゃ」

 ロシア騎兵の優秀性については、好古は正直なところ、舌を巻いた。さらに他の兵科についてひそかに日本軍と比較しつつ採点したが、みなわるくない。
 その手記に、
「この数日間の観察によれば」
 と、そのロシアと日本の兵卒についての概評をかいている。
「騎兵、歩兵は、馬の点において、すこしくわが騎兵、歩兵にまさりおるべし。歩兵の兵卒はわが歩兵の兵卒と大差なかるべく」
 と、やっと歩兵にいたってまずまず日本兵に対して同点をつけている。
「将校は」
 と、書く。
「一般に勇壮、ことに騎兵将校は、決意、敵中に闖入する気概あり」
 どうにもならぬ優秀さである。
 こういう敵と日本軍が戦わねばならぬということは、どういうことであろうか。
さらに、高級統帥者の能力である。これがもし無能で臆病ならば、いかにその麾下が精兵ぞろいであっても、軍隊の勝利はむずかしい。
 好古はこの高級統帥者の人間をも「見学」するため、浦塩でもニコリスクでも、できるだけ多くの人物と会った。その総評は、
「高級の団隊長、とくに将官は、精鋭の人を備えたり」
 と、書いている。
 わるいところは、すこしもなかった。ただ、結論として、
「しかれどもわが軍隊にしてなお大いに奮励するところあらんか、すなわち露兵を凌ぐ、決してかたからざるを信ず」
 とある。がんばれば追いこすことができるかもしれないという、いわば自らへのなぐさめのようなことしか書いていない。しかし奮励努力するといっても、結果からみればこの翌年に日露は開戦しているのである。奮励努力して追いこす希望がもてるような時間は、日本軍になかった。
 ついでながら、好古の観察には、昭和期の日本軍人が好んでいった精神力や忠誠心といった抽象的なことはいっさい語っていない。
 すべて、客観的事実をとらえ、軍隊の物理性のみを論じている。これが、好古だけでなく、明治の日本人の共通性であり、昭和期の日本軍人が、敵国と自国の軍隊の力をはかる上で、秤にもかけられぬ忠誠心や精神力を、最初から日本が絶大であるとして大きな計算要素にしたということと、まるでちがっている。





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