斜め上の雲 9

政変




 この間、韓国では李承晩への不満が高まっている。

 第三回の大統領選挙が五六年五月におこなわれた。
 李承晩の政治に飽いていた多くの有権者が野党支持を表明していたが、投票十日前の五月五日、野党大統領候補の申翼煕が遊説途中に急死した。そのせいで野党支持票が流れたばかりか、結局は無効となった申翼煕票が百八十五万票におよび、もうひとりの野党候補である進歩党の鎚岩は二百十六万票となった。そのため、漁夫の利を得たかたちの与 党候補、現職大統領の李承晩は五百四万票で当選した。
 いっぽう、副大統領には野党候補の張勉が当選した。大統領が与党、副大統領が野党というねじれ現象が起きた。
 張勉はカトリック信者であったため、その支持基盤はカトリック団体であり、穏健と目されたこともあってアメリカに受けもよかったとされる。その張勉は九月に何者かに狙撃された。事件には警察が関係していたことが判明したが、捜査は打ち切られた。
 また、鎚岩は五八年一月にスパイ容疑で逮捕され翌年七月に処刑された。光復以前には共産党員であり革新勢力の旗頭とみられてもいた弔僚莊困蓮韓国内の共産党勢力に対する見せしめでもあったのかもしれない。

 六〇年三月の第四回大統領選挙をむかえ、野党大統領候補である趙炳玉は病気治療のため渡米していたが、投票一ヵ月前の二月十五日に死去した。
 予定どおり実施された投票において、投票率は九七%、李承晩は九百六十三万票を獲得して当選、与党の副大統領候補である李起鵬も当選したと発表された。
 李起鵬は前回の副大統領選では張勉にやぶれている。かれは李承晩の同族であり、その長男李康石は李承晩の養嗣子となっている。ちょっとした李王朝であるといっていい。
 しかし、たれもその投票結果を信じなかった。
 第三者による替え玉投票、投票用紙のすりかえ、野党候補票の無効化、集計作業の不正などあらゆる手口がもちいられたからである。与党でさえ批判する者が続出した。
 投票当日の三月十五日のうちに市民や学生による抗議デモが発生し、それにたいして警官が発砲し、十八日には投票結果の発表に抗議して民主党議員が選挙の無効を宣言して国会を退場した。
 四月十九日には、ソウルで市民、学生数万人のデモと警官隊が衝突、百八十人を超える死者が出た。それをうけてソウルをふくむ5都市に非常戒厳令が宣布された。

 アメリカもついに李承晩をみはなした。駐韓大使マカナギーは、
「民衆の不満に正当に答えるべきである。一時しのぎはゆるされない」
 と李にいい、最後通牒を突きつけた。また、李の薬籠中だったはずの韓国軍部は厳正中立を守る声明を発表した。
 アメリカと軍部という後ろ盾をうしなったことをさとった李はついに観念し、四月二十六日下野を声明し、五月二十九日早朝金浦空港から夫人と二人でハワイに亡命した。見送ったのは大統領代行となった許政外務長官だけであった。
 いっぽう、李起鵬とその夫人、長男で李承晩の養嗣子となっていた康石、次男の四人は、四月二十八日に拳銃自殺している。
 許政外務長官が大統領代行となり、総選挙までの政務をおこなう過渡内閣を組閣したことにより、政変はいちおうの終結をみた。

 李承晩時代の後期には、韓国軍にとって昇進人事が頭のいたい問題であった。
 朝鮮戦争中はたれもが短期間で昇進した。戦時中のため、連隊や師団といった大きい単位をひきいる高位の幹部を大量に必要としたからである。それにより二十代の佐官どころか将官もめずらしくはなかった。
 それが戦後になると急に昇進がとまった。佐官も将官も若く同年代の者も多いため、昇進しようがないのである。
 それに対する不満と、政府に阿る軍首脳への反感とがあいまって中堅将校たちはついに軍内部の権力闘争を開始した。目的は高級将官の追放による軍部の浄化である。高級将官が若いせいで出世できないという私憤と、軍部の腐敗に対する公憤がむすびついたこの動きを清軍あるいは整軍という。その先鋒は金鐘泌中佐らである。
 この運動の結果、多くの高級将官が退役に追いこまれた。白善参謀総長も標的になった。

 四月二十六日、李承晩が下野を声明し許政が大統領代行となったことは先にふれた。
 新内閣の国防長官は、五二年の第一回大統領選挙にさいして、李承晩に大統領支持声明を出すよう迫られ拒否したため参謀総長の職を更迭された李鐘賛である。金鐘泌らはこの機会をとらえて、旧支配勢力の一掃と人心の一新をもとめていた李鐘賛に白善の退役をもとめるようはたらきかけた。
 李はやすやすと乗った。

 李の勧告を受けた白は、五月三十一日、おなじく陸軍の重鎮である劉戴興中将とともに除隊した。
 時をおかずに錫元は戦史研究室に転属された。白善に目をかけられていたため巻きぞえをくっての左遷であるという評判であった。
 半面、これはかれにとってさいわいであったともいえる。戦史を研究するという口実で学問をしながら給料がもらえるのである。その人事発令は六月一日付であったというが、韓国政府のずさんな文書管理によってこの時期の公文書の多くが散逸しているためよくわからない。いっぽうでは、本人への内示がすでに五月あたまにはおこなわれていたという証言もある。
 どうやら、かれがよけいなわざわいに巻きこまれることをおそれた白が、退役前に計画し発令しようとしていた人事であるというのが真相であるらしい。

 暫定政権が管理実施した選挙の結果、六〇年八月十三日に尹潽 善が大統領に就任した。かれの率いる民主党の分裂による抗争がつづくなかでの妥協の産物であり、しかも、内閣の首班である張勉総理は尹の属する旧派ではなく新派であったため、最初から内紛、抗争がつづき、年が明けても政情は安定しなかった。
 不満を持つ人々はその問題の大小にかかわらずデモによって示威抗議をおこなった。担任の先生の転勤に抗議する小学生のデモまであったと伝えられる。
 あいつぐ市民、学生、労働争議デモによって治安は混乱し、李承晩政権下で逼塞していた革新勢力と理想しか知らない学生たちは民族統一を旗印にして北朝鮮への接近を慫慂した。その結果、ソウル大学民族統一連盟が南北学生会談を提唱、北朝鮮の石山内務相が賛意を示すなど、状況を利用した北の銃火によらない統一攻勢も盛んになってきた。
 両班出身の尹はなにひとつ有効な手をうたないまま新・旧派の権力闘争にうつつをぬかし、十ヶ月のあいだに張勉内閣を三回改造、参謀総長を四回、治安担当の内務長官を三人も更迭した。
 このような尹政権の無策と迷走に危機感を持った軍部は、ついにクーデターによる政治革新を考えはじめた。

 金鐘泌中佐らによる整軍運動は白善らを追い落したのち、頭領として陸軍本部作戦参謀部長に就任した朴正煕少将を推戴した。
 しかし、整軍運動は軍の統制を乱すものとしたアメリカの圧力によりメンバーは予備役に編入され、朴は左遷されたうえ六一年秋の退役リストに載せられた。
 だが、張勉内閣の無能にあいそをつかした朴や金らはクーデターを模索するようになり、エジプトで五二年におこったナセル中佐らのクーデターを手本として極秘に研究しはじめた。
 とはいえ、その動きは世間のうわさとなっていた。六一年四月十九日に予定されていたクーデターは延期となったが、その日程ばかりか、首謀者が朴少将であることすら公然とかたられていたという。
 さすがに張勉総理も不安になり、参謀総長の張都暎中将をよび、
「軍部によるクーデターの計画があるという話をきいた。参謀総長は知っているか」
 と、じきじきに問いただした。
「いいえ。そのようなものはいっさいございません」
 参謀総長は言下に否定した。
 じつをいえば、かれはクーデター計画があるらしいことは知っていた。だが、かつてアカとして粛清された前歴がある朴正煕には政権が取れるわけがない、とたかをくくってもいた。
 朴も張総理も単独では相手を制することはできそうもなく、参謀総長がどちらにつくかで決着がつくだろう。
(せいぜい高く売りつけてやろう)
 かんたんに旗幟を闡明にすることもあるまい。かれは内心ほくそえみながら退出した。

 張勉がうたがっていることを知った朴正煕は、五月十六日未明、クーデターを決行した。
 兵力は空挺団と海兵旅団の三千五百人だけであった。たのみとしていた第三十師団は、事前に動員計画がもれたため動けなかった。
 クーデター部隊は漢江をわたって陸軍本部と放送局を制圧した。閣僚が次々と逮捕されるなかで、半島ホテルに宿泊していた張勉総理は逮捕直前に脱出、地下にもぐった。
 クーデター部隊はたかだか四千人足らずであり、尹潽 善大統領が在韓米軍に要請すれば簡単に鎮圧できるはずであった。げんにアメリカはクーデター直後に米軍放送を通じて張勉総理とその合法政権を支持する旨を再三発表し、マーシャル・グリーン駐韓代理公使とマグルーダ第八軍司令官は鎮圧要請を出すよう大統領に強く迫った。
 だが、
「国軍同士が戦えば、そのすきに北が南侵してくる」
 と、尹はいい、ついに承諾しなかった。

 いっぽう朴は、洞ヶ峠を決めこんでいるかたちの張都暎参謀総長に親書をおくった。陸軍全体の支持を得るためだけでなく、米軍に受けがよいかれを取りこまないとアメリカにたいして話ができない。
「わしを指導者に推すというのか」
 親書を読んだ張は満足そうに笑い、クーデターを支持する声明を出した。これにより陸軍全体がクーデター支持にまわったことになる。張は軍事革命委員会議長に就任した。
 もっともその最期はよくない。わずか五十数日後、朴がマグルーダ第八軍司令官と会談してアメリカの支持を取りつけた後、用済みとなった張は反革命容疑で逮捕され軍法会議で死刑判決を受けたのち、一年後に釈放されて渡米した。
 みごとに煮られた走狗であるといっていいだろう。


  

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ベッキー「李承晩政権の崩壊と韓国の政変だな」

くるみ「選挙じゃかなり無理なことをやっていたのね」

ベッキー「ま、世界史を見れば、第二次大戦以降の独裁政権というやつの常套手段なんだがな。イデオロギーに関係なく手口はさほど変わらんのがおもしろいところだ」

ちよ「李承晩政権崩壊のあと、大統領に就任した尹潽 善は内紛、抗争にかまけてなにもしませんでした」

ベッキー「尹政権下では、朴正煕の執った経済政策や対日条約締結の雛型やレールをひきかけていたという評価もあるんだが、はっきりいって作者は信じていない。イソジンの内在発展論のコピーにしかすぎないといってな」

くるみ「イソジンじゃなくて李泰鎮でしょ。まぁ、内在発展論の怪しさはわかってるけど」

ベッキー「あれは結局、大韓帝国いや李朝は自力で近代国家になれる萌芽があったとかいう願望だからな。イギリスのエッカート教授だけでなく韓国の経済史学界からも粉砕されている。ある意味、ウリナラ起源説に通じるものがあるだろうな」

ちよ「なんでもかんでも、もともと朝鮮に存在していた、あるいはその萌芽があったのに日帝に潰された、という後付けのこじつけ解釈ばかりです。ともちゃんの言い訳よりひどいです」

くるみ「で、尹政権下のグデグデと、この小学生のデモってほんとなの?」

ベッキー「ああ、これは『韓国大統領列伝』(池東旭 中公新書)が元ネタだ。笑えたので採用した」

芹沢「なんだそりゃ。おもしろけりゃいいのかよ。ま、今の体たらくを見ていればありえないことでもないけどな。最近(二〇〇六年夏)だけでも、反WTOで香港遠征反FTAでアメリカ遠征やらスクリーンクォーター存続の『一人リレーデモ』やら」

ベッキー「正直言って、ソースをしぼるのに苦労するほどヒットする……で、大統領選挙だが」

ちよ「支持率や世論調査では、つねに野党が優勢なのにもかかわらず、野党の複数候補が潰しあって与党が勝利するというパターンがこれからもずっとつづきます。
 たとえば、一九八七年の大統領選挙では、金大中と金泳三という二人の野党候補が潰しあって盧泰愚に敗れました。一九九二年の選挙でも再び金大中と鄭周永が潰しあって金泳三に敗れました」

くるみ「これは党争ってやつの一変形なの?」

ベッキー「ま、そう解釈してもいいかもな。自分が大将になりたいから目先の相手ばかり意識して大局を失い、空気が読めないってのもあるかな。野党で候補を一本化すれば確実に勝てていたはずなのだが……高信太郎もそのへんを皮肉っていたな。『王手飛車取りをかけられて飛車を逃がす』なんて表現があるが、そのとおりかもな」

ちよ「錫元左遷の人事発令の記録が散逸しているというのは、当然フィクションですが元ネタがあります」

ベッキー「実際にあった国璽行方不明事件や公文書の多くが雑に扱われて行方不明という事件が元ネタだ」


韓国国家記録院が憲法の原本紛失、監査院調査で判明

【ソウル=中村勇一郎】韓国の公文書を保管する国家記録院が、1948年制定の韓国憲法の原本を紛失していたことが27日、明らかになった。

 監査院が初めて実施した調査によると、国家記録院はまた、52―62年の改正憲法の原本も重要書類としてではなく、一般書類として保管していた。

 その一方、記録院が大統領関連の重要資料として保存していた文書の73・9%が資料としての価値がない一般文書だったという。

 行政自治省も48年から62年にかけて使われた韓国建国後最初の国印を紛失していたほか、条約の関連文書など重要文書約15万枚を一般文書として大学に預けていた。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20051028id22.html(作者註:このリンクは期限切れ)

芹沢「ふだんからグデグデじゃないか。行政文書の保管ってお役所の鉄則だろ」

ベッキー「こういった状況を見れば、日帝が文化遺産を抹殺したとかどうとかいうのも、単にテメェらが保管できなかっただけだろと言いたくなるな」

くるみ「尹政権のグデグデと、軍部のクーデターってなんだか既視感があるんだけど」

ベッキー「第二次大戦後に成立したアジアアフリカの新興国っていうのは、革命家が樹立した政権が行き詰まるか腐敗するかで、西洋など先進国の教育を受けた技術のエリートである軍人がクーデターを起こす例が多いんだ。世界史全体を見れば珍しくもないのだが」

ちよ「で、朴正煕のクーデターですけど、参謀総長の張都暎が、クーデター計画をある程度知りつつ洞ヶ峠を決め込み、二股をかけたという解釈は『韓国大統領列伝』の記述に拠りました。そのほうが面白そうだったので。
 張都暎は、東洋大学史学科在学中に学徒出陣して日本陸軍に少尉任官しまして、英語が流暢で米軍の受けもよく、政権に従順であるため首脳部の覚えもめでたく、張勉総理が同郷・同姓のよしみもあって抜擢したとのことです」

くるみ「クーデター成功後に用済みとして殺されなかっただけましよね。うまく利用されて追い出されるだけで済んだってのはラッキーかも」

ベッキー「ま、米軍に受けがよい人物を簡単に殺すこともできないだろうが。たしかに追放で済んだのは幸いだろうな」

芹沢「けどさ、なんだかクーデターがすんなりいったようにみえるんだけど、そんなにうまくいったのか?」

ちよ「実際はきわどいところもあったようです。本文にもあるように、閣僚が次々と逮捕されるなかで張勉総理だけは逃れました。かれはホテルを脱出したあとアメリカ大使館職員宿舎にあらわれるのですが、自分の身分を明かさなかったため守衛に開門を拒まれ、支持基盤でもあるカトリック修道院に潜伏しました」

くるみ「そこから反攻に転じればよかったじゃない。アメリカも最初は総理を指示してたんでしょ」

ベッキー「尹大統領がクーデター勢力との対決を避けてしまったのも痛いが、張勉がクーデター鎮圧の闘争を選ばずベタ降りしてしまったのも痛い。同胞相打つ流血の惨事と、そこを北につけこまれることを懼れたのかもしれんが。もっとも、歴史を後から見ると、彼らがさっさと退場してくれたおかげで朴正煕による政権樹立と発展があったんだが」

ちよ「尹大統領は、邪魔な張勉を追い出して権力を掌握できるのではないかとして、クーデターを利用しようとしたふしがあります。結局、張勉はそのあと蟄居したまま一九六六年にひっそりと死去しました。無能総理という評価はいまだ盛んです」

芹沢「尹大統領はクーデターを積極的に認めたわけではないが、しぶしぶというポーズでうまく乗ったわけだな。張勉のほうは気の毒と言えば気の毒かもな」

ベッキー「政治の場においては個人の人柄の善悪なんて関係ないからな。善人だから良い政策を考案実行できるというわけでもない。もっとも、賄賂を取る奴にろくな奴がほとんどいないというのはあるがな。
 嫌な目にあいたくなければ、最初から政治の場に足を踏み入れてはいけないんだ。厳しいようだが、それが他者の命運に影響を及ぼせる権力というものに関われる代償なんだ」

芹沢「非情なもんだな」

ベッキー「実を言えば、作者は張勉最大の失策は、金大中という男を引き立てて政界入りさせたことじゃないかと思っている」

ちよ「……」


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