斜め上の雲 11

日韓基本条約




 朴正煕は計画経済を導入して強力な財閥の育成と果敢な輸出振興策をとることで外貨の獲得をめざした。
 いっぽう外交面においては、自由主義諸国との連帯の強化につとめた。
 ここで避けてとおれない問題がある。
 日本、のことである。

 日韓の国交正常化は、李承晩時代にはまったくそのきざしはなかったが、尹大統領、張勉内閣のもとでややうごきはじめた。経済開発に必要な資金や技術を得るために日本の協力は欠かせないものであったからである。とはいうものの、不安定な尹政権のもとでは、交渉も遅々として進まないままクーデターがおきてしまったのだが。
 あとを引き継いだ朴政権にとっても国交正常化は喫緊の問題であった。韓国の成長によって西側陣営の発展と結束をかためたいアメリカにとってもそうである。日本にとっても韓国が成長してもらわないと中朝にたいする防波堤にならない。三者ともに国交正常化を欲していたといっていい。

 韓国は日本に対して賠償金を要求した。
 しかし、日本と韓国は交戦しておらず賠償金の発生する根拠はない。このことは日韓ともに承知していた。
 ひとつ、手があった。
 かつて他国の支配を受けた国家が独立するさいに「独立祝賀金」という意味あいで金銭を受けとるという慣例があったのである。
 これを柔軟に解釈運用することで日韓基本条約は締結され、「対日請求権資金」という名称で日本は有償二億ドル、無償三億ドルの資金を韓国に支払った。これを韓国側は「賠償金」、日本側は「祝賀金」と理解した。一種の便法である。
 当初、日本は個別の補償支払いを提案したが、韓国はこれを拒否し、韓国政府が資金を一括して受けとり、韓国人徴用者への未払い賃金、個人賠償などあらゆる補償をまかなうかわりに、日本へのこれ以上の請求を放棄、日本も朝鮮半島内に残した資産の賠償請求を放棄すると定められた。

 だが、韓国がその内実について国民に知らせなかったことが、後年、韓国民の認識をいびつなものとした。

 日韓基本条約の締結については日本国内では親北朝鮮勢力による反対があった。また、韓国内でも野党はこれを批判した。
 張勉内閣時代の日韓会談では、韓国が十二億ドルを要求、日本は八億ドルを提示して決裂していたのである。それをたった五億ドルで妥結するのは、
「売国的行為だ」
 といったのは、張勉内閣の外務長官をつとめた鄭一亨であった。
 だが、十二億という金額を算出するさいに、その基礎となる徴用・徴兵者の人数についてまっとうな根拠がなかったことも現在では知られている。張勉内閣のもとで日韓外交に国際法の助言者として参画し、外務次官に抜擢された鄭一永ソウル大教授は、二〇〇五年一月聯合ニュースのインタビューに対して、
「当時、日本に提案した百三万人余の強制徴用、徴兵被害者数は適当に算出した数であり、韓国側がまとめた数値は裁判所に持っていっても証拠能力のないものであった」
 といい、
「当時、各部処に被害者の現況についてを提出するよう指示すると、内務部は洞事務所にきいてようやく数字をまとめてくるなど、とてもいい加減な数字が算出された。被害者が何人なのか、その人たちの貯金がいくらなのか統計すらなかった。韓国銀行にも資料がないというありさまだった」
 と明かしている。
 このように張勉内閣が日本に対して要求した十二億ドルという金額に根拠はないのだが、李承晩時代の一九四九年にはGHQに対して提出した賠償要求書で二十一億ドルという数字をあげている。
 一方、日本の請求すべき金額をまともに算出した場合とんでもなく膨大な金額となり、たとえ韓国に十二億ドルどころか二十一億ドルを払ったとしてもお釣りがくるという試算がある。

 日本は朝鮮半島にもっていた資産の返還を請求できるのであるが、在外財産調査会が四七年ごろにまとめた資料によれば、朝鮮半島に残された日本の資産は、軍事用資産と個人資産をのぞいても四十七億ドル、また、GHQの試算でも五十三億ドルにのぼるという。差し引けば、韓国は朝鮮半島唯一の合法政権として少なくとも二十六億ドル、多ければ四十一億ドルを日本に支払うということになってしまう。
 これに対しては、
「朝鮮半島の日本資産は敗戦後米ソによって接収されたため、日本の韓国に対する請求権利は存在しない」
「これらの数字は、韓国側資料が戦災などで散逸し、確たる基礎がないままで算出され、さらに戦後のハイパーインフレが進行する中で試算されたものでもあり、とうてい信用するにたりない」
 という反論もあった
。しかし、前者は、戦勝国でもないどころか当時地上に存在してさえいなかった「大韓民国」が日本に対して賠償金を要求するのと同様な空理であり、後者は単なる言いがかりにすぎない。
 また、
「たとえその数字が事実であったとしても、実質的に一九〇五年からはじまった植民地統治による有形無形の被害という、それらの数字には含まれない『歴史事実』にどう向かいあうのか。そこを無視したまま試算された数字を提示して、日本がいかに『莫大な資産』を残してきたかを強調しても説得力はない」
 という反論にいたっては、詭弁学派の開き直り、論点をずらすすりかえのたぐいでしかない。

 朴正煕は韓国民に対して個人補償についてのじゅうぶんな告知をしないまま、日本から受けとった資金を、ほんらい支払うはずの個人補償にはほとんどまわさず社会インフラや農業基盤の整備、工業の発展、輸出振興に注ぎこんだ。
 朴は、当時の韓国人の民度を信じていなかった。今の民度なら金をもらっただけで安逸に流れてしまい、なにもうまないであろう。近代国家建設こそが急務である、と酷薄なまでに考えぬき、急速かつ堅実な経済発展による国家建設をおこなうために使用した。しかもかれ自身の懐には一銭もいれていないという点で、特定アジアの統治者に共通する悪癖からはまぬかれている。このあたりは民権をあとまわしにして有司専制による国家発展に徹した大久保利通に似ているとはいえる。
 また、韓国民も個人補償要求の手続きについて「手続きが複雑だ」とめんどうくさがってなにもしなかったものも多かった。

 現代からみて、朴の行為を非難するのはたやすい。
 しかし、もし額面どおりに資金が使用されていれば「漢江の奇跡」とまで称された経済発展がありえただろうか。筆者はその点を疑問に思わざるをえない。
 余談ではあるが、大久保は富国強兵による近代化をなしとげたときに自由民権を振興するという青写真をもっていたふしがあるが、朴は韓国が発展し民度があがったときには、民主化をどうあつかうつもりであったのだろうか。
  

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ベッキー「予告どおり、日韓基本条約についてだ。まー、条約成立の狙いや過程、お金の中身や使途の行方については、今やネット上では広く知られた話だろうがな」

ちよ「韓国側の出した十二億ドルという金額に根拠がなかったというのは、こちらが元ネタです」

「日帝被害者数103万人は適当に算出」

「韓日会談当時、日本に提案した103万人余の強制徴用、徴兵被害者数は適当に算出した数だった」

 1960年10月から2年間、国際法を専攻したソウル大教授として韓日会談に参加し、翌年外務次官に抜擢された鄭一永(チョン・イルヨン/79)元次官は20日、聯合ニュース記者と会ってこのように述べた。

 鄭元次官は「当時韓国側がまとめた数値は裁判所に持って行っても証拠能力のないもの」とし、「関連資料はすべて日本側が持っている」とした。

 また、「当時、各部処(日本の省庁)に被害者現況を提出するよう指示すると、内務部は洞事務所に聞き数字をまとめてくるなど、とてもいい加減な数字が算出された」とし、「被害者が何人なのか、その人たちの貯金がいくらなのか統計がなかった。韓国銀行に行って見ても、資料がなかった」と当時を振り返った。

チョソン・ドットコム

朝鮮日報 二〇〇五年一月二十一日付

くるみ「……なによ、このダメッぷりは」

芹沢「『関連資料はすべて日本側が持っている』ってさりげなく責任の所管をずらそうとしていないか?」

ベッキー「日韓互いに請求すべき金額を相殺したら日本に莫大な支払いをすることになってしまう、ということについて三つの反論だが、最初の一つはどこかのサイトで見かけた論理だ」

くるみ「作者もけっこういい加減ね」

ちよ「後の二つは『マンガ嫌韓流のここがデタラメ』(朴一ら編)の第2話(太田修)からいただきました」

ベッキー「作者が思わず『おれを笑い殺す気ィけぇ!』と言ったほど楽しい展開だ」

 つぎに、山野が「戦後補償問題」は「解決済み」であることを主張していく上で、恣意的な叙述やレトリックを多用していることについて述べておこう。
 まず、「日本は朝鮮半島に莫大な資産を残しているという事実」(51ぺージ、傍点は筆者)について取り上げる。

 山野は「韓国政府が 1949年に対日賠償要求調書として連合国総司令部に出した賠償要求額は当時のドルで 21億ドルと各種現物返還/対して日本が朝鮮に残してきた資産はというと/在外財産調査会が 1947年頃まとめた『賠償関係資料」によれば軍事用資産と個人資産を除いても約 47億ドル/総司令部民問財産管理局の調査では軍事用資産を除き北鮮 30億ドル/南鮮 23億ドル/計 53億ドル/日本は韓国の賠償請求額をはるかに超える資産を残していきました」(51ページ)と書き、日本が植民地支配終焉後にいかに「莫大な資産」を残してきたかを強調している。

 しかし、このような山野の「物語」には二つの問題がある。第一に、韓国政府の要求額、在外財産調査会やGHQ民間財産管理局の金額はいずれも、諸般の資料が「焼失又は散逸」した状態で、しかも敗戦直後のインフレ進行状態のなかで試算されたものにすぎず(9)、かならずしも事実を示してはいない点である。第二に、百歩譲って仮にそれらの数字が事実だったとしても、実質的に1905年から始まった植民地支配による有形・無形の被害・損害という、それらの数字には含まれていない「歴史事実」をどのように考えるかという点である。それらの点を無視したまま、試算された数字を提示して、日本がいかに「莫大な資産」を残してきたかを強調しても、説得力はない。

 結局、「莫大な資産」を残してきたという叙述は、「莫大」であるという「妄信」か、そうであってほしいという「妄想」を、過度に強調したレトリックだと言うことができる。

『マンガ嫌韓流のここがデタラメ』第2話「補償問題は解決したのか?」太田修


ベッキー「さぁ、存分にツッコんでみろ」

くるみ「『植民地支配による有形・無形の被害・損害という、それらの数字には含まれていない「歴史事実」』って、いったい何なの?そんなのを持ち出しても意味ないじゃない」

ちよ「くるみさんの言うように、主観的な『事実』とやらを持ち出すのは全く領域の違う話です。これは、植民地支配=無条件で悪、日本の朝鮮支配は植民地支配で悪、と決め付けた上で議論を混乱させてすり替えるだけの手です。しかも『百歩譲って仮にそれらの数字が事実だったとしても』と予防線を張った上ですり替えようとする周到なやり口です」

芹沢「悪質きわまりねーな。まともな論理では勝てねーからって舞台をずらしたようなもんだぜ」

ベッキー「ああ。法や論理の舞台に妙な主観的な話や感情論をごた混ぜにして投入し、議論の筋道を混乱させ、話題のすり替えをするのは、この手の輩の常套手段であるだけではなく、特ア式論争術の一環でもあるんだ。
 ちなみにこの太田修という人物は、日韓基本条約についての論文で高麗大学博士号を取っている。『日韓交渉―請求権問題の研究』という本も書いているが、ちよちゃんの言ったような、無条件で日帝は悪、というスタンスは相変わらずで、総督府の造林事業についても『収奪するために植えた』としていたがな」

芹沢「ここまで来るとりっぱなもんだな。羊月城よりすごいぜ」

くるみ 「論争術についてはこんなのがあるわね」

(作者註:文中の櫻井は櫻井よしこ氏、関川は関川夏央氏、古田は古田博司氏)

櫻井(作者註:『日韓歴史論争 海峡は越えられるか』(中公文庫)で金両基氏と対談したときのこと)(前略)実際に議論をしてみると、金さんはものすごく激昂するんですね。ときどき灰皿が飛んでくるかと思ったぐらい。対照的に休憩時間になると、非常ににこやかになる方でもありました。(後略)
関川:読んでいると、金さんはご自分にあまり知識がないテーマ、たとえば、十九世紀末ロシアの膨張圧力、日露戦争の原因や評価のくだりがとくにそうですけど、ことさら激越な口調になられるみたいです。
櫻井:「日中韓『靖国参拝』大論争」(「文藝春秋」二〇〇五年八月号)のときにも感じたのですが、都合の悪いところ、自分にとって弱いところを突かれると、韓国の人たちは答えようしない。そして、まったく別のところに話題をポンと変えて、また怒り出す。
関川:そうして、また自分で自分を徐々に激昂させながら、涙と汗の反日に話を運んでいく傾向がありますけれど、いまだそのテクニックは有効なのでしょうか。
櫻井:以前、呉善花さんと話していたら、「櫻井さん、あなたの話し方では絶対ダメよ」と言われました。「とにかく相手より大きな声と尊大な態度、相手より大げさな形容詞と身振り手振りで非難しないと、韓国では論争に勝てない」と(笑)。
関川:もうひとつ付け加えると、相手の話は聞いてはいけない。一方的に自分の言いたいことだけしゃべりまくる。
古田:韓国語に「声討」という言葉があるんですよ。声で討つ。
櫻井:やはり怒鳴ることが効果的ですか。
関川:いやいや、櫻井さんは声が小さければ小さいほどみんなが耳を傾けるんですよ。私のように気の弱い者が怒鳴るしかない(笑)。ただその場合、韓国人の「声討」というか大陸の方法へ日本人が降りて行くのだという苦い覚悟を持たなくてはならず、また先方が実証的歴史事実の積み重ねでは説得されるつもりがないということは認識しておかない といけない。
古田:日韓歴史共同研究委員会も似ていますよ(笑)。当事者なのであまり詳しくはお話できないのですが、たとえば意見が対立しますね。日本側の研究者が「資料をご覧になってください」と言うと、韓国側は立ち上がって、「韓国に対する愛情はないのかーっ!」と、怒鳴る。
関川:「ない!」と答えてはいけないのですか(笑)。
古田:さらに「資料を見てくれ」と言い返すと、「資料はそうなんだけど」とブツブツ呟いて、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と始まるのです。
関川:歴史の実証的研究では韓国は日本に勝ち目はないでしょう。竹島占領の根拠についても同じです。事実よりも自分の願望というか、「かくあるべき歴史の物語」を優先させるようですから。(後略)
古田:民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなんですね。当然、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる。
櫻井:それは韓国の大学の歴史研究者ですか。
古田:イエス。これは韓国の伝統的な論争の流儀であり、思考パターンなのですね。李朝時代の両班の儒教論争も、みなこれですから。
 要するに「自分は正しい」というところからすべてが始まる。しかし、実はこの「自分は正しい」という命題は実証不可能なんです。この思想が突出したものが、北朝鮮の主体思想にほかなりません。その本質は何かといえば、「自己絶対正義」にほかならない。したがって何をやろうと、彼らの「正義」は揺るがないのです。(後略)

『韓国・北朝鮮の嘘を見破る 近現代史の争点30』鄭大均 古田博司編 文春新書


芹沢「『韓国に対する愛情はないのかーっ!』って、学理の前には関係ないだろ」

くるみ「実証的な学問が根付かないばかりか、迫害されるわけね」

ちよ「あと、エンコリ(旧ネイバー)ではこういうのもありました」


朝鮮的思考 投稿者: jpn1_rok0 作成日: 2006-09-12 20:16:51

相手が自分の予測するような対応をするだろうという期待にのみ基づいて行動し、そうでなかった場合の準備がない。

基本的には勤勉である。ただし、その勤勉さを指向する方向が根本的に間違っている。

自分は正しいという思いこみで間違った行動、不法な行動をとり、それを自分は正しいという思いこみによって正当化するという脳内逆流現象を起こす。

終始一貫性が無く、予想外の事態には感情のみをもって対応し、事態の分析やその対策に労力を使うことをしない。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1752955


芹沢「みごとなまとめかただな」

ベッキー「投稿者は古参の日本人IDだ。ネイバー総督府の重鎮でもあるそ。
 日韓基本条約は、本文にもあるように日韓米各国の世界戦略の遂行のために妥協しあって成立にこぎつけたものだ。冷戦が終わり新しい国際情勢が成り立った現在の基準でどうこういうのは後知恵に過ぎない。無知である以上に無能としか言えないな。少しは当時の国際情勢を考えてみろってんだ」

くるみ「それでも平気で条約見直しやら解消、再交渉やらを唱える大バカがいるのがウリナラクオリティってやつでしょ?」

ちよ「それは否定できませんね。また、朴正煕が朝鮮民族の民度について不信感を持っていたというのは事実です」

ベッキー「彼にすれば、悔しく情けない話ではあったんだろうがな。朴が62年に出した著書『韓民族の進むべき道』とそれを紹介した『日本(イルボン)のイメージ』(鄭大均 中公新書)とをあげるぞ」

 朴正煕の自民族や自文化に対する眺めがいかに否定的なものであったかは『韓民族の進むべき道』(六二年)という著書に明らかである。彼がそこで韓国人の特徴としてあげたのは「利己主義」「傍観主義」「虚勢」「党派意識」「特権意識」「自主精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「企業心の不足」「アイデアの不足」「退廃した国民道義」「怠惰と不労所得観念」「奴隷的な屈従の固まり」といった一連の否定的属性であり、韓国社会の特徴としてあげたのも「法よりも腕力の強い者が勝つ世の中」「弱く金もコネもない者は生きていけない不平等社会」「姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会」「情実人事、猟官運動、貪官汚吏、不正蓄財が当然と考えられる価値が転倒した社会」といった否定的性格である。彼はだからこの国には「革命」や「改造」「再建」「更正」「手術」「反省」が必要だと考え、それを実践したのである。

『日本(イルボン)のイメージ』 鄭大均 中公新書


くるみ「えらい言いようね。で、その著書の具体的な記述は?」

ちよ「はい、『日本(イルボン)のイメージ』(鄭大均 中公新書)に引用された朴正煕の言説です。かなり長文ですがおつきあいください」

 わが五千年の歴史は、一言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。いつの時代に辺境を越え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、統一天下の威勢で以て民族国家の威勢を誇示したことがあり、特有の産業と文化で独自の自主性を発揚したことがあっただろうか。いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかったし、せいぜい同胞相争のためやすらかな日がなかっただけで、姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図にすぎなかった。

(中略)

 第一に、われわれの歴史は(中略)始めから終わりまで他人に押され、それに寄りかかって生きてきた歴史である。

(中略)

 高句麗、新羅、百済の三国時代にあった隋・唐の漢民族の侵略、唐の支援を受けた新羅の統一と高句麗流民の渤海国創建およびその反目、高麗朝にあった契丹、蒙古、倭寇などの侵入、李朝中葉までの壬辰倭乱、丙子胡乱をへて、その後日清戦争と前後した三国の干渉を最後に日本の単独侵略により、ついに大韓帝国が終幕を告げるまで、この国の歴史は平安な日がなく外国勢力の強圧と征服の反復のもとに、かろうじて生活とはいえない生存を延長してきた。

(中略)

 このような侵略は半島という地域的な運命とか、われわれの力不足のために起きたのではなく、ほとんどはわれわれが招き入れたようなものとなっている。
 また、外圧に対してわれわれが一致して抵抗したことがなかったわけではないが、多くの場合、敵と内通したり浮動したりする連中が見受けられたのであった。

(中略)

 第二に、われわれの党争にかんすることである。
 これは世界でもまれなほど小児病的で醜いものである。(中略)李朝は結局、この党派争いに明け暮れているうち、亡国の悲運を味わうことになったのであった。(中略)第三に、われわれは自主、主体意識が不足していた。
 われわれの波乱多き歴史の陰になって固定されることのなかった文化、政治、社会はついに「われわれのもの」を失い、代わりに「よそもの」を仰ぎ見るようになり、それに迎合する民族性に陥らせてしまった。(中略)「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。われわれは早くわれわれの哲学を創造しなければならず、独自の文化の形成に進まねばならない。
 なぜなら、この哲学や文化は民衆の道しるべとなるからである。
 第四に、経済の向上に少しも創意的な意欲がなかったということである。

(中略)

 われわれが眠っているあいだに世界各国はいち早く自国の経済向上のため目覚しい活動を展開していた。
 しかし、われわれは海外進出は念頭におかず、せいぜい座ってなわを編んでいるだけではなかったか。
 高麗磁器などがやっと民族文化として残っているのみである。
 それもかろうじて貴族の趣味にとどまっているだけであった。
 しかし、これも途中から命脈が切れたのだから嘆かわしいことである。

(中略)

 以上のように、わが民族史を考察してみると情けないというほかない。もちろんある一時代には世宗大王、李忠武公のような万古の聖君、聖雄もいたけれども、全体的に顧みるとただあ然とするだけで真っ暗になるばかりである。
 われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあってもこの歴史を全体的に改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史はむしろ燃やしてしかるべきである。(中略)これが当代の使命を担うわれわれの義務ではないか。

『日本(イルボン)のイメージ』 鄭大均 中公新書


芹沢「へー、やっぱり燃やすんだ」

ちよ「そこはツッコむところじゃありません!」

ベッキー「いわゆる『嫌韓』でもここまでは言うまいよ。これはまるで『自虐史観』とやらと変わりないな」

くるみ「朴正煕が自分の独裁強権政治を肯定するために、朝鮮社会の欠点を強調したって可能性はないの?」

ベッキー「なるほど。明治維新以降の日本人が江戸時代を迷信と封建道徳の社会だとして暗黒時代のようにとらえたのと同じように、朴も自分のやり方を正当化するために実情以上に過去の朝鮮史を断罪した可能性があると言うんだな」

ちよ「朴正煕政権に対する異議申し立て者として『民主化運動』のシンボル的存在であった咸錫憲のほうからもこういう言説があります。彼の著書『意味から見た韓国史(邦題:『苦難の韓国民衆史』)』からの孫引き引用です」

 苦難の歴史! 韓国の歴史の底に秘められて流れる基調は苦難だ。この地も、人も、大きな事も、小さな事も、政治・宗教・芸術・思想もなにもかもがことごとく苦難を示すものだ。これを聞いて驚かない人はいないだろう。だが、はずかしく、心痛む事実であることはどうしようもない。
 わたしは六、七年前から中学生に歴史を教えるようになったが、どうすれば若い胸に栄光の歴史を抱かせることができるかと努力してみた。しかしむだだった。幼い頃に聞いた乙支文徳(高句麗の名将)・姜邯賛(高麗の名将)の名を大声で叫んでもみた。だがその声で埋めてしまうには五千年の歴史の呻きはあまりにも大きかった。みんながしているように、生生字(李朝時代に中国の聚珍版字典の字体を手本にして造った木製の活字・引用者注)・亀船・石窟庵・多宝塔、あるもの全部を総動員して観兵式を行ってみようとも思った。しかし、外観だけですましてしまうには、三千里(朝鮮半島)に打ちこまれた傷あとはあまりにも大きく、多かった。私は自分自身を偽ることなしには、はやりの「栄光の祖国の歴史」を教えることができないのを悟った。大体がわれわれは大きく民族ではない。中国やローマ、トルコやペルシャがつくったような、そんな大きな国をつくったことがない。また、未だかつて国際舞台で主役を演じたこともない。エジプトやバビロン、インドやギリシャのように世界文化史に誇れるものを何も残してもいない。ピラミッド、万里の長城のような雄大な遺物があるわけでもなく、世界に大きく貢献した発明もない。人物はいるにはいるが、その人によって世界思潮の主流になったといえるようなものはない。それよりも、あるものといえば圧迫であり恥であり、分裂であり失墜の歴史があるだけだ。公正な目で見る時なおさらそうである。それは実に耐えられない悲しみである。

『日本(イルボン)のイメージ』 鄭大均 中公新書


くるみ「これもまた手ひどい批評ね」

ベッキー「咸錫憲は、東京高等師範学校在学中に内村鑑三の無教会主義に傾倒して、のちキリスト教徒の立場から朴政権下での韓国の民主化運動に参加した人物だ」

ちよ「本題からずれるかもしれませんが、そんな彼の言説をもう一つ紹介します」

 われわれがまず明らかにしなければならないことは、この解放が盗っ人のように不意に訪れたということだ。解放後の腹立たしいこと、醜いざまは一つや二つではないが、その中でもほんとうに腹立たしいのは、この解放を盗もうとするやつらが多いことだ。彼らは、自分たちだけはこのことを早くからわかっていたと宣伝する。それは彼らがこの盗っ人のようにやってきた解放を、さも自分が送りこんだようにして盗もうとするためである。それは嘘だ。もし彼らがあらかじめわかっていたなら、それほど先見の明があったなら、どうして八月一四日までへりくだって服従していたのか。その時一言でも予告して民衆を慰め、勇気をひきしめさせていたなら、いまになってことさら宣伝しなくても民衆は指導者としてお迎えしたことだろう。
 そういうことはやめて率直になろう。君も僕もみな知らなかったのだ。みんな眠っていたのだ。神社参拝をしろといわれれば腰が折れんばかりに拝み、姓を改めろといわれると競い合って改め、時局講演といえばありったけの才能を傾けて語り、米・英を罵倒し、転向しろといわれれば実にアッサリ転向し、よく見られようと聖書も直し、教会も売り、信用が得られるとなると四つん這いになり、犬の鳴き声もしてみせた。この国の志士・思想家・宗教家・教育者・知識人・文人に、また海外流浪何十年と格好はよいが、その実、互いに博士派・先生派・なになに系・なになに団と、ハワイやサンフランシスコではアメリカ人の召使いをしながら勢力争いをし、重慶・南京ではとうもろこし粥をもらって食いながら地位争いをしていた人たちが、なにをあらかじめわかっていたというのか。思想はなんの思想で、政治はなんの政治運動をしたというのか。この国が解放されるとあらかじめわかっていた人など一人もいないのだ。

『日本(イルボン)のイメージ』 鄭大均 中公新書


芹沢「立場は違っても、ダメだコリアン的なネガティブなとらえ方は変わらないんだなぁ」

ベッキー「念のため言っておくが、いちいちの表現には誇張やシンボリックなものがあるので、額面どおり受けとることはないぞ。もっとも、そういう事情を差し引いても、過去の社会歴史についての否定的評価は変わらんがな」


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