斜め上の雲 12
国民防衛隊事件
朴政権による開発独裁が進行しているなかでも、錫元はあいかわらず軍事史の研究に没頭していた。
「錫元の軍事研究の途中で挿入というかたちになったが、朝鮮戦争中の『国民防衛隊事件』だ」
じぶんが従軍した朝鮮戦争についてもさらに深くまなぼうとした。そのなかでは、朝鮮戦争中、赤化分子を駆逐するさいに大量の住民を虐殺したという居昌事件や、軍幹部が軍隊をだしにして大金を着服した国民防衛隊事件が衝撃的であった。
仁川上陸作戦後、敗走した北朝鮮軍が智異山に立てこもってゲリラ化したため、居昌付近の村は、昼は韓国軍、夜はゲリラの支配下に置かれるという事態になった。
結局、国連軍のソウル再奪還によってゲリラは敗走したのだが、赤化したとみられた居昌に進駐した韓国軍は「堅壁清野」と称し、村を焼きはらい住民の強制移住をはかった。
しかし、赤化分子の選別に失敗し、ついには住民たちを付近の谷に追いこんで無差別に射殺した。これが居昌事件であり、被害者数は六百八十人といわれる。
国民防衛隊は、五〇年の十二月、総力戦のため正規軍とは別に現役軍人、警官、学生をのぞく十七歳から四十歳までの男子五十万人を招集して組織された軍隊であった。大韓青年団の構成員が多かったため、幹部には青年団出身者が多く現役軍人はすくなかった。
組織は陸軍のそれに準じて構成され、金潤根青年団長が陸軍准将となり司令官に任命され、他の幹部にも将校の階級と待遇があたえられた。
ところが、その幹部たちが就任直後から防衛隊用の予算を計画的に着服し、隊員を困窮させていたのである。
防衛隊員の状況を点描したい。
まず、憲兵司令官の目撃した状況。
五一年の一月というから、ソウルを再奪取された直後の話である。
金錫源ひきいる第三師団の参謀長から憲兵司令官に転出した崔慶禄准将が、釜山東莱の捕虜収容所から大邱に向かう途中、とあるまちの国民学校の前で異様なものを発見した。
ムシロをかぶった兵隊たちが立っているのである。しかも近づいた崔に敬礼をしないどころか白目をむいて反抗的な視線をそそいでいるものもいる。
(軍紀がたるんでいる)
崔も日本軍出身者であるため、その点についてはきびしい。
「お前たちはどこの部隊だ。指揮官はどこだ」
ムシロたちからの返事はない。しばらくしてそのうちのひとりが、
「見せたいものがある」
と、かぼそい声を出し、崔を校舎内に案内した。
各教室には、ムシロをかぶった兵が五、六人ずつよこたわっていた。ひとめで飢餓状況にあるものとわかる。それどころかすでに息絶えているものも多かった。
「閣下、わたしたちは国民防衛隊です。入隊以来、米一粒、薬一包みも与えられず、村民に食をめぐんでもらっております。ご覧のように、戦友たちは餓死、凍死、病死していっております」
ムシロは息をつきながら、どうにかそれだけをいった。
「国民防衛隊?」
憲兵司令官に就任したばかりの崔にはなんのことなのかわからない。
だが、軍服を着た人間が窮迫しているのは事実である。早急に調査する旨をのべてその場を離れた。
国民防衛隊員の状況の点描、つづける。
国民防衛隊金海教育隊に配属された林快童の叙述を抄録してみる。
かれが入隊して支給されたのは、軍服でもなく兵器でもなく、一枚のかます――藁むしろを二つ折りにしてつくった袋――であった。それも二人に一枚であった。
「それで寝ろ」
小隊長はそういった。召集されたのは十二月というから真冬である。とても寒さをしのげるものではない。
さらに、小隊長は戦闘訓練や軍人としての心得はいっさい教えなかった。ただ近くの村にいって食事を乞う要領だけを教えた。食事は自給しろ、ということであった。
食事が支給されないばかりか、入浴の機会も施設もあたえられなかった。しぜん、防衛隊員は悪臭を発するようになり、村民たちはかれらを「乞食隊」とよび、その悪臭で接近を知ると、食料を隠して避けるようになった。
隊員たちも食料の調達に必死であった。村内の情報を集め、豪勢な食事が用意される冠婚葬祭等の行事をねらって出現するようになった。
ある家の主人が還暦をむかえたため祝宴をはるときいた隊員五十人は、その現場を急襲した。祝宴の参加者たちは隊員たちの悪臭にむせてへどを吐きながら退散し、隊員は祝膳をたいらげた。
ところが、その夜かれらのうち四人が急死したのである。飢えきった体に急に食事を詰めこんだため腸が破裂したのであった。
防衛隊幹部による着服の手口は、支那で二千年間にわたってみがかれてきた手練手管の引き写しであったといっていい。
まず、予算の策定基礎となる防衛隊人員を水増しして算出し陸軍本部に請求した。あまりにも不自然なその数字に不信感を抱き、隊員数の承認を拒んだ防衛局人事処長は就任一ヶ月で左遷された。
そうして水増し支給された予算のうち、まず三分の二が高級幹部の懐に入り、残った予算も幹部の手を経るにつれつぎつぎと削りとられてゆき、最終的に隊員たちの手には一銭もわたらなかった。隊員たちは軍靴も軍服も売りはらって食費を調達するはめになった。売るものが尽きると、ついには前述のように食を乞うことになった。
着服の中心人物は、金潤根司令官ではなく副司令官の尹益憲大佐であり、かれがすべての経理書類を決裁していた。また、公金を着服した幹部は、あるいは金融業をいとなみ各地に妾宅をもうけ、あるいは大邱郊外にアメ工場を建設して隊員に支給するはずの米でアメをつくって売っていた。
むろん、しかるべき筋へのつけとどけも忘れてはいない。申性模国防部長官をはじめ官界の要人に金銭をばらまいて口止めをはかった。申長官もじぶんの政治勢力を扶植するための資金として軍幹部や国家議員にばらまいたという。
司令官である金潤根准将は、横領した金を貯蓄せず、もっぱら大邱の料亭での飲み食いにあてていた。青年団の相撲選手出身のかれは「相撲将軍」を自称する肥満体であり、その飲食量はすさまじかった。
かれらが着服した金額は七十五億ウォンにもおよぶという。
もっとも、これらの事実が判明したのはかなり後のことであった。
崔准将がムシロ兵をみかけた一週間後、国会で金従会ら二人の議員が国民防衛隊の問題を提起した。防衛隊の惨状についてはすでにうわさが流れており、他の議員たちもある程度の情報を得ていたが、ようやく表面化したのである。
実情を調査するようせまる議会に対して、司令官の金准将は記者会見をひらき、
「百万の国民兵が編成訓練の途上にあるというのに、この愛国的壮挙にデマを流す一部人士がいることは遺憾のきわみである」
といい、申長官も、
「最後の勝利を得る戦いのなかでは多少の突発的な事故もある。問題は、その偶発的な事故ですら敵の工作に利用されることだ。国会にはやつらの策動に乗せられて動揺することのないようもとめたい」
といった。
憲兵司令官崔准将は、申長官に調査をつよく進言したがすべてしりぞけられた。崔の部下である尹中佐は李承晩が大邱に来た機会をとらえて、大統領警護責任者である旧知の金長興に事情を告げた。
金から報告を受けた大統領は、申長官と崔准将に調査を命じた。
だが、申長官は消極的であるばかりか、国防部からは崔が政権転覆をたくらんでいるという中傷がなされ、ことあるごとに調査の妨害がおこなわれた。その結果、調査は短期間で終了し、着服金額は二十七億ウォンであるという報告がされた。
崔の強硬な主張でひらかれた軍法会議では、金司令官は起訴却下、他の幹部も最高で懲役三年六ヵ月という軽い処断がくだされた。
申はあきらかに事態をもみ消そうとしていた。
申性模長官によって事件のもみ消しがはかられているとき、居昌事件がおこった。
軍隊が民間人を虐殺したという不祥事であり、防衛隊事件よりもむしろこちらをもみ消す必要にせまられた。居昌事件から国民の耳目をそらせるため防衛隊事件を大きくとり上げ断罪するのである。
さらには、乞食同然の国民防衛隊員が各地に徘徊し、もはや隠しとおせることができなくなったこともあった。
国会で調査委員会が結成され、十五人の委員が真相解明のため動きはじめた。金司令官は委員の接待や買収をもくろんだが失敗した。
四月二十五日の国会本会議で中間報告がおこなわれ、防衛隊の実態が明るみに出た。その結果、三十日に提出された「国民防衛隊廃止法」が可決され、防衛隊は廃止、帰郷する隊員には旅費と米が支給されることとなった。
もっとも、それらですらほとんど横流しされたという。
李承晩は、調査委員会の中間報告をもって調査を打ち切り、事態の収集をはかろうとした。
申国防部長官は趙炳玉内務部長官、金俊淵法務部長官とともに四月二十四日に解任されている。さらには、軍幹部の人事異動をおこない申長官につらなる人脈をほぼ排除した。
李承晩は開戦以来評判のよくなかった申と野党出身の二人の長官を解職することで、不評の一掃と政治力の強化をねらったのである。事件を政治的に利用したといっていい。
政治的に利用したというなら金司令官ら防衛隊幹部の処断もそうであろう。
十一人の被告は七月五日からはじまった軍法会議にかけられた。前回の軍法会議は国防警備法に基づくものであり、今回は非常措置法に基づくため、一事不再理は適用されないというりくつである。
その措置法では、軍需物資の不正処分した者の最高刑は死刑と定められている。また、太完善議員は、国民防衛隊疑獄事件調査処理委員会を結成したことを李承晩に報告したとき、
「防衛隊幹部の非行はよく知っている。何人かはかならず死刑にする」
といわれたという。結論は最初から決まっていたといえる。
大邱の東仁国民学校の講堂でひらかれた軍法会議は、きわめて異例なことに公開され、傍聴におしかけた市民たちで講堂どころか運動場、道路にまで人があふれたため、校庭にスピーカーが設置された。
つまりは、国民たちの不信感と不満をそらすための公開劇であった。
七月十八日、金潤根ら五人に死刑、一人に懲役十五年の判決がくだり、残りの六人は公訴棄却となった。
この日、特別傍聴席には申の後任である李起鵬国防部長官のほか、憲兵司令官崔慶禄准将、戦時特命検閲官に任命されていた金錫源准将もいた。
「金潤根はそう悪い人間ではなかったのだが。軍歴どころか兵卒の経験すらなかった。おもわぬ高位を得ておかしくなってしまったのかもしれない」
金錫源は、事件の研究のためおとずれた錫元に対してそういった。取り調べのさい金潤根は従順であったばかりか、涙を流しながら、
「国民が窮乏に耐えているのに、じぶんの飲食欲に負けた。もうしわけない」
といったという。
副司令官であった尹益憲大佐も金司令官とおなじく六尺の豊かな巨体を持つ人物であったが、取り調べ中もつねに泰然としていた。
「ありゃぁ、
錫元の訪問をうけた崔慶禄はそういった。取り調べ中、尹は検察官にむかって、
「こんなことになると知っていれば、貴官にもすこし握らせておくのでしたな」
平然としてそういったという。
「不気味なほどに堂々としていた。まるで支那の大官かなにかのようだったよ」
たしかに、尹は中国での生活が長かった。
「錫元が身を寄せていた第三師団の崔慶禄参謀長が関与しているのね」
「例によって児島襄『朝鮮戦争』が元ネタです」
「ってことは、今回は『坂の上の雲』本文が元ネタはないんだな。じいさん先生、つーわけで今回は出番なしです」
「なっ?!」
「『居昌事件』って、たしか朝鮮戦争の『ソンミ事件』って言われてなかったっけ?」
「ああ、で、居昌の村はずれに建てられた慰霊碑は横倒しにされたんだ」
「え?誰がそんなことを」
「わかった!全斗煥とかの軍事政権のしわざだろ?」
「いや、親北勢力のしわざって線もあるわよ。だって逆バージョンのこんな事件もあったもの」
北派工作員ら、非転向長期囚の墓石6基全て破壊
「南派工作員は英雄で北派工作員は逆賊か」
6人の非転向長期囚(転向を拒否したまま長期服役している人民軍の捕虜や南派スパイ)の墓地が設けられた京畿(キョンギ)道・坡州(パジュ)市にある普光寺(ポグァンサ)敷地内の蓮公園の墓石6基が北派工作員出身者らにより5日午前、すべて壊された。非転向長期囚関連団体側はこの日午後5時ごろ、油圧ショベル1台と作業人夫3人を動員して30分ほどかけて骨壷を収集した。
北派工作特殊任務同志会、北派工作特殊任務国家有功者、大韓民国愛国青年同志会など、北派工作員らが集まって作る会の会員約50人が、午前10時30分ごろ乗用車などに分乗して普光寺に到着。彼らはハンマー2つで墓地に建てられた墓石を壊した後、その残骸に赤いスプレーペイントを吹き付けた。
当初会員らは、この日普光寺側に「墓石事前撤去勧誘書」を手渡した後、寺側がこれを拒否する場合、午後12時に墓石撤去を強行する計画だった。しかし、北派工作特殊任務国家有功者坡州本部のチェ・スンヨン(50)会長を始め、先に到着した一部会員らは「不法墓地は死線をさまよった北派工作員たちをないがしろにする所為」とし、約10分の間ハンマーを振り回した。一部会員らは金槌で破壊された墓石を細かく砕いたりもした。「義士故チェ・ナムギュ先生之墓」と刻まれた南派スパイ出身のチェ・ナムギュ氏の墓石は4つに割られた。「民族自主祖国統一のため一途に全生涯を捧げられた....」で始まるリュ・ラクジン氏の墓石はひどく損傷し、墓石の下にあった骨壷が外にあらわれた。墓地周辺に警察官がいたが、かれらの奇襲的な墓石破損を防ぐことはできなかった。
墓地周辺には「南派工作員は英雄で北派工作員は逆賊か」、「スパイ・パルチサンが義士・烈士とは何事か」、「蓮公園を造った住職一門は出て行け」などと書かれたプラカードが掲げられた。一部会員らは「非転向長期囚○○○の墓、祖国分断の犠牲者」などと黒字で書かれた立て札を立てようとしたが、警察官により制止された。
会員らは声明文を通じて「分断祖国が生んだ哀れな犠牲者であり消耗品として、この国を破壊するために活動し、その思想的転向を拒む者たちを統一烈士・義士・志士云々するのは理解に苦しむ」とし、「不適切な墓石を撤去することは、一日も早い祖国統一により同族間の痛みがこれ以上続かぬことを願う気持ちから」と主張した。事態を見守っていた地元住民のファン・ジョンウン(65)さんは「普光寺が南派スパイの聖域にならずに済んで幸いだ」と語った。普光寺側では僧侶1人がその場にいたが、「言うべき言葉がない。やるせない思いだ」と語った。
実践仏教全国僧伽会は、この日ソウル堅志(キョンジドン)洞・曹溪寺(チョゲサ)で記者会見を開き、「蓮公園に対する思想論争を即時中断せよ」とし、「非転向長期囚たちと彼らの遺骸が人道的立場で送還されるよう、大局的な決断を下すことを重ねて求める」との立場を示した。
大韓民国在郷軍人会は声明を出して、「スパイ・パルチサンを美化する逆賊的妄動を直ちに中断せよ」と呼びかけ、墓地を造成した関連者の割出し・厳罰と、墓地の即刻撤去を訴えた。
朝鮮日報
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/12/06/20051206000078.html
「くるみさんも芹沢さんも不正解です。実は、1988年、政府に謝罪と賠償を求めた遺族たちが、デモンストレーションのためにやったんです。出典は『退屈な迷宮 北朝鮮とはなんだったのか』(関川夏央)です」
「んなアホな。壊したり火をつけるのがデフォだといってもやりすぎだろ」
「鶏肉輸入反対のデモで鶏をこんなふうにしたり、食堂経営者たちが不況対策を政府に訴えるデモで商売道具の鍋を叩きつけたりするというのはあったけど」
「いくらパフォーマンスとはいえ、生き物ばかりか商売道具を粗末にするなんて、おのれの商売に誇りも何もないとしか思えん。『職人』『職人仕事』が存在せず敬われもしないわけだ」
「作者の妹が『韓国には職人仕事が存在しない』と断言したのもわかるわ。かつて妹夫婦が住んでいたマンションの階段は段ごとに高さが違ったし」
「そりゃ、職人仕事以前の問題だな」
「ここで紹介されている横領着服の手口は、本文どおり支那伝来の手法です。
公金を着服した幹部が金融業に手を出していたというのは、支那の官僚、地主階級、あるいは宦官が高利貸しを営んでいたのと同じです」
「ちゃんと申性模国防部長官とかにも工作していたのね」
「李承晩のほうは、この事件をうまく利用して軍内の反李承晩勢力を追い出したわけだ」
「なかなか食えないじーさんだな」
「呼んだかの?」
「呼んでねーっつーの」
「今回はあまり解説ネタがないので、少し余談をするぞ。
明清代の中国では、皇帝の寵愛が厚く要職にある権臣に贈賄するさい、その権臣の息のかかった骨董屋に行って骨董品を買い、それを贈呈するという手口があったんだ」
「は?現金を渡さないと意味ねーじゃんか」
「それがな、くだんの骨董品屋がその代金を権臣に送れば、骨董品は引き換えに骨董品屋へ返送されるんだ。で、また店頭に並べられるわけだ」
「ああー、美術品の取引、贈呈というかたちでの贈収賄ね。上場間近の株券とか金屏風とかと同じで」
「それで稼いだお金を高利で貸して、担保の土地を取れば大地主のできあがりです」
「今回はなんか地味手抜きっぽく見えるわね」
「実は、いったん完成していた解説パートに、まちがって白紙状態の解説パートを上書きしてしまったことに気づいて、やる気が萎えてしまったらしい」