斜め上の雲 13

ソルロンタン




 錫元は、世界じゅうの兵書という兵書を読もうとした。多くは陸軍兵書であった。かれは士官学校時代からそうであったが、戦術に陸と海のちがいはないという明確な態度をとっていた。
 中国の兵書である「孫子」「呉子」はくりかえして読み、欧米のものは戦史、戦術書をふくめ、ことごとくよんだ。
 それだけでなくて、中国や日本の剣術や格闘術のような武芸書まであさって読んだ。
「剣術や格闘術は個人的な武芸だが、その原理を抽出すると、軍理に応用できるものがある」
 と、つねにいった。
 韓国人の著書や資料はほとんど読まなかった。韓国に研究すべき価値のある戦史や研究書のたぐいがないことは、士官学校時代に知っている。
「ウリナラには世界に誇る忠武公がいるではないか。なぜ公にまなばん」
 というものもいた。忠武公とは李舜臣のおくりなである。

 この時期、こういう話がある。
 士官学校の同期生だった鮮于誼が錫元をたずねてきた。
「こういう本が海軍の図書部にあった」
 誼はそういって五、六冊の書物を差し出した。
「忠武公討倭大功記」
 というハングルで書かれた本であった。錫元の研究の参考になるかとおもったのである。
 李舜臣は李朝の将軍で、文禄・慶長の役のさい、水軍をひきいて戦い、豊臣軍の補給路をおびやかしてなんどか勝利をおさめ、最後は停戦の成立によって撤退中の島津軍を追い、逆撃をくらって戦死した。とくに近代以降、その事績はきわめて誇張されている。古今東西の海将の戦術をすべて李の発案に帰しているこの書物もそのたぐいであったのであろう。その内容はといえば、
「李舜臣が七星壇をきずいて祈ると、西北の風が吹き倭船を押しかえした」
「倭兵は停戦成立後にだまし討ちをかけてきたが、李舜臣はみごとにそれをやぶり、大将の石曼子は戦死した」
「世界中の海軍が李舜臣をたたえ、倭軍をやぶった鶴翼陣の戦法をまなんでいる」
 といったものであった。
(鬼面人をおどろかすたぐいのものだ)
 錫元は内心ひそかにわらった。李舜臣の戦術は、正面決戦をさけて敵の補給路を断つというきわめてまっとうなものであり、その教訓を引き出せればじゅうぶんであった。読み物として楽しいかどうかと、戦訓としての価値があるかどうかは別物であろう。

 ともかく、錫元はあらゆる兵書や資料をよむことで戦術の原理を抽出しようとした。その結果、日本陸軍の戦術を参考としてベトナム戦での独自戦術がうみだされた。
 ベトナム戦争といえば、その戦役がおわってから鮮于が戦闘記録の編纂を命ぜられた。いちいちの戦闘詳報の付図を書くについては、錫元と相談したが、あるとき鮮于は、
「どうもこれらの戦術には日本陸軍のにおいがするようだ」
 と、笑いながらいった。
 錫元は、わらって答えた。
「ソルロンタンは、牛肉ソコギからできるものだ」
 牛肉を煮こんでつくるスープのように、古今東西のあらゆる戦術を煮詰めてエキスを抽出したといいたかったのであろう。

 錫元が戦史資料の購入や研究のためたびたび日本にゆくことについては、繰りかえしふれている。
 かれは日本にゆくたび神田の古書街にかならず足をはこんだ。古書を求めるだけでなく、元軍人や学者への聞き取り調査のため東京以外の地方にもおもむいた。

 六七年の春ごろ、元軍人への聞き取りをおこなうため大阪にいったことがある。時間ができたため、かれは梅田の古本屋街をまわることにした。
 ある古本屋の本棚の片隅でほこりをかぶっている書物をみつけた。「明治卅七八年日露戦史」という題名のそれは全十冊からなっており、ひじょうにぶあついものであった。どうやら日本陸軍参謀本部の編纂したものであるらしいが、目方で売る紙くず同然の値段であった。
(急いで買う必要もないか)
 この日は、あいにく持ちあわせがすくなかった。今日は見てまわるだけにするかとおもい、日露戦争関係の本を見てまわった。購入にあたいする本が何冊かあり、明日買うことにしてホテルに帰った。

 翌日、錫元はふたたび古書街におもむいたが、昨日めぼしをつけておいた日露戦争関係の書籍がことごとく消えていた。
「どういうことですか」
 錫元の問いに、古本屋の店主はすまなさそうに答えた。
「すんません。昨日、日露戦争関係の書籍は全部買いあげるという注文がありまして」
 徹夜で発送の手続きをすませたところだという。
(そんなばかな)
 しかも、その店だけではなく、大阪そして東京じゅうの古本屋にその注文がされたという。

 錫元はあきれるしかない。そのようなとんでもない注文をするのは、いったいどういう人物なのか。
「小説家ですねん。執筆の前にはかならずありったっけの本を買いあげてくれはるお得意さまですねや。ちょうどあそこに来たはりますわ」
 店主の指差す方向をみると、向かいの古本屋の本棚のあいだにひとりの男がいた。老年というわけでもないのに頭髪がすべて白髪なのがひときわめだっている。
 ややあって振り向いたその男の顔に、錫元は見覚えがあった。大東亜戦争中、釜山でであった迷子の頼りなさげな戦車隊長であった。
 錫元は唯一売れ残っていた「明治卅七八年日露戦史」を買うしかなかった。

 産経新聞に『坂の上の雲』という小説の連載がはじまったたのは翌六八年四月二十二日のことである。

 朴正煕は経済発展に必要な外貨を獲得するため、なりふりかまわずあらゆる方策をつくしたといっていい。
 建設ラッシュに沸く中東に労働者を投入し、西ドイツの鉱山には看護婦を派遣し、ベトナム戦争に韓国軍を参戦させた。さらには、妓生キーセンを養成し、韓国観光の目玉として外国人旅行客を集客しようとまでした。

 アメリカは朴のベトナム戦争参戦要求をうとましくおもったが、結局承諾した。
 太平洋戦争に勝利して好戦的気分が残っていた朝鮮戦争でさえ、
「極東の見知らぬ半島でアメリカの青年の血を流す必要があるのか」
 という世論があった。今回の戦争は朝鮮よりさらに遠いベトナムである。しかも南ベトナム政府の腐敗ぶりは知れわたっていた。アメリカ国内ではこの戦争にたいする批判が大きくなっていった。
 これ以上、自国の若者の血を流したくないアメリカとしては兵力がほしい。そこをみこして朴は派兵をもちかけたのである。
 むろん、無料ただではない。経済開発に必要な借款の供与をもとめた。足元をみられたかたちであるがアメリカはそれをのんだ。
 六五年、猛虎師団一万数千を派兵して本格的に参戦し、七三年の撤収まで、のべ三十一万人の兵力が派遣された。

 この時期、中佐になっていた錫元は、戦史研究室から部隊指揮官に転じた。
 クーデターによって成立した朴正煕政権は、信頼できる軍幹部が多くはなかったため、前政権下ではいわば閑職ともいえる場に身をおいて政争に関与せず、さらに政治に関心のないことが知られていた錫元を現場指揮官に登用したのであった。
 また、このころ錫元は結婚をした。相手は幼なじみの文景福の末妹春香である。景福の父である士誠の熱心なすすめによった。
「元ほどええ男はおらん。うちのを任せられる」
 士誠がそういってしつこくすすめたため、ついに錫元も承知した。
「まるで上官命令だったよ」
 後年、錫元はそう笑った。

 一方、金村の金家では異変があった。
 錫元の下にすでに四人の子がある。その養育だけでも大変であるのに、一九七〇年、孟瓔玉の死後にむかえた後妻に男児がうまれたのである。
「いっそ、海外養子にだそうか」
 と、その懐妊中、当主の信五は後妻にいった。朝鮮戦争後の韓国では、戦争で養育者をうしなった孤児を、国内ではなく海外に引きとってもらうということが多かった。ついでながらいうと、戦災孤児が存在しなくなってからも海外への養子はたえることがない。
 それを、帰省中だった錫元がきいていて、「それはだめでございます」と、両親の前にやってきた。由来、朝鮮語というのは世界でもっとも長幼の序をやかましくいうことばであるとされている。
「父上さま、赤ン坊を外国にやってはいけませぬ。わたしの給料で、ハモニカ・カルビほどのお金をおつくりいたします」
 朝鮮語では敬意をあらわすとき、日本人からみれば過剰かとおもえるほど相手に尊敬語をつかう。
「ハモニカ・カルビほどのお金」
 というたとえも、いかにも韓国らしい。ハモニカ・カルビは骨が手のひらほど大きく、たっぷりとぶあつい肉がついており、手にもってかじるすがたがまるでハーモニカを吹いているようにみえることに由来する。紙幣を積みかさねてそのカルビほどのあつさにしたいと、金村のおとなどもはいう。それを錫元は耳にいれていたらしい。


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ベッキー「まずは、錫元の軍事研究ということで、秋山真之のエピソードからいただいた。じいさん先生、さっそく頼みます」

じじぃ「ふぉっふぉっふぉっ、久々の出番じゃの。元ネタは3巻『十七夜』、秋山真之が海軍戦術を研究するところじゃ。以下原文じゃ」


 このころかれはいよいよ海軍戦術の研究に熱中していた。熱心さも度はずれたもので、かれ自身は自分の熱心さにやや照れるところでもあったのか、
「一生の大道楽」
 と、ひとにはいっていた。

(中略)

 かれは、世界じゅうの兵書という兵書を読もうとした。多くは陸軍兵書であった。かれは滞米時代からそうであったが、戦術に陸と海のちがいはないという明確な態度をとっていた。
 中国の兵書である「孫子」「呉子」はくりかえして読み、欧米のものは戦史、戦術書をふくめ、ことごとくよんだ。そのなかでもブルーメの「戦略論」とマカロフの「戦略論」をひとにも推賞した。のちにかれが愛読したその本の著者マカロフ中将を相手にまわして終始勝ちつづけたというのは、偶然ながら、宿命のにおいもする。
 日本のものも読んだ。
 そのなかでもっともすぐれたものとして、かれはいつも山鹿流軍書をあげた。
 謙信と信玄の戦いの棋譜である甲越関係の軍書も愛読した。
 それだけでなくて、馬術や弓術のような武芸書まであさって読んだ。
「馬術や弓術は個人的な武芸だが、その原理を抽出すると、軍理に応用できるものがある」
 と、つねにいった。
「秋山の天才は、物事を帰納する力だ」
 と、海軍部内ではいわれたが、あらゆる雑多なものをならべてそこから純粋原理をひきだしてくるというのは、真之の得意芸であり、この得意芸が、やがては日本の運命に交叉する日がくるということを、真之自身はむろん、自負心のつよい男であるだけに予感していた。

「秋山軍学」
 といわれた真之の作業のしかたはほぼそういうものである。
 この時期、こういう話がある。
 帰朝後ほどなく胃腸を病み、長与病院に入院したことがある。小笠原長生大尉が見舞にゆくと、
「あなたの家に、海賊戦法の本がないか」
 と、真之はたずねた。
 小笠原長生は、九州の唐津の大名だった小笠原家の当主である。そういう家だけに、なにかふる本があるだろうと思ったのである。
「さがしてみよう」
 と、小笠原は家に帰り、旧家臣などにたずねたりして、めずらしい本をさがしだした。
「能島流海賊古法」
 という写本で、五、六冊から成っている。

(中略)

 真之は、入院中この書物を読み、ほとんどおぼれこむようにして読みふけり、あとで見舞にきた小笠原長生に、
「目がひらかれた」
 と、何度もいった。
「日本海軍の戦術は、秋山の入院中にできたのだ」
 と、小笠原はのちになって人に語った。
 水軍(海賊)戦法はおもしろい。
 とくに真之が感銘したのは、
「わが全力をあげて、敵の分力を撃つ」
 というところであった。これが水軍の基本戦法であった。そのための陣形として、
「つねに長蛇ノ陣をとる」
 と、その戦法書にある。近代海軍の用語にいう縦陣である。艦隊をながながとタテにならべて敵にむかってゆく。この陣形は応変がききやすく、敵の分力を包囲するにも便利であり、真之がもっとも感じ入ったのはこの点であった。結局はこれが秋山戦術の基幹になり、日本海海戦の戦法、陣形にもなってゆく。
 日本海海戦といえば、その戦役がおわってから小笠原が戦史編纂委員を命ぜられた。いちいちの戦闘詳報の付図を書くについては、真之と相談したが、あるとき小笠原は、
「どうもこれらの戦術には水軍のにおいがするようだ」
 と、笑いながらいった。
 真之は、無愛想に答えた。
「白砂糖は、黒砂糖からできるものだ」
 真之が、いわゆる秋山軍学をつくりあげてゆく過程は、これであったのであろう。



くるみ「な、なんだか長くない?ネタに使っていない部分まで入ってるような…」

ちよ「それは伏線ですよ。じつはあとでまたここを元ネタに使うのです」

芹沢「なにを企んでるんだ?この作者は」

ベッキー「現在の時点でそれは明かすことはできん。置いておけ」

くるみ「了解。で、『忠武公討倭大功記』なんて本は実在しないでしょ?」

ベッキー「当然だ。大っぴらに秀吉を題材にできない江戸時代に『絵本太閤記』を「大功記」として出していたというのが書名の元ネタだ。
『絵本太功記』は浄瑠璃等でも上演されるが、羽柴秀吉を真柴久吉、織田信長を小田春永、明智光秀を武智光秀、明智配下の猛将四方田孫兵衛を四天王但馬守と改変していた。
 このようなパロディというかぼかしのテクニックは江戸時代に大流行した」

芹沢「なんでそんな面倒なことをするんだ?」

ちよ「宮本先生が言いましたように、徳川家に敵対したものを称揚するようなものは大っぴらにやれないというのと、そうでなくても実在の大名家や事件を題材にするのはご法度だったんです。演劇部の芹沢さんならご存知かと思いますが『忠臣蔵』もそうですよ」

芹沢「なるほど。それで、舞台を南北朝時代にして、吉良上野介が高師直、浅野内匠頭が塩冶判官、大石内蔵助が大星由良之助なのか」

ベッキー「そういうことだ。あと伊達騒動を題材にした『伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ』でも、伊達綱宗を足利頼兼、原田甲斐を仁木弾正としているんだ」

くるみ「『先代』は伊達家のある『仙台』にかけているのね。それにしても歌舞伎のタイトルって読み方が難しいわね」

ちよ「もっとも、そういう手法を使っても罰せられることがあります。柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』は、源氏物語を翻案するかたちで足利義政の時代を舞台にしたものですが、時の将軍徳川家斉の大奥生活を風刺したといわれ絶版されました。
 パロディ、風刺をやっても身の安全が保証されるようになったのはつい最近のことだといっていいでしょう。これは洋の東西を問いません」

ベッキー「たしかに、今でも、宗教的タブーを除いた風刺、パロディですら危険な目にあうという土地も存在する」

一条さん「特アとか、特アとか、特アとか」

ベッキー「一条……で、脱線が続いたが、その『忠武公討倭大功記』の内容だ。李舜臣が七星壇をきずいて祈ると、西北の風が吹き倭船を押しかえした、なんていうのはモロ『三国演義』赤壁のパクリにしてある」

ちよ「作者は、魚腹浦の石兵八陣とか『水滸伝』の公孫勝とか高廉とか樊瑞とかの妖術、あるいは『封神演義』ネタもありだったかと後悔しているようです」

芹沢「……そういうネタになるといきいきしてくるんだよなぁ、この作者。で、司馬遼太郎がまた出てきたじゃねーか」

くるみ「司馬が小説の執筆準備にかかると、その題材の関連書物を全て買い上げるため、古書店から消えてしまう、という逸話が元ネタね」

ベッキー「かなり有名な逸話のようだな。ここに出てくる『明治卅七八年日露戦史』に関する評価は『坂の上の雲』あとがきで司馬が書いていたのをほぼ丸写しだ。昭和30年くらいに道頓堀の古書店で買ったそうだが、『目方で売る紙くず同然の値段』だったそうだ」

ちよ「そのあとがきによりますと、編纂委員は、将軍や参謀連中の圧力や期待で、失策や錯誤を書くことを許されず、いわば総花式記述で全員の功績だけを書くよう迫られ、それではとても成立しないため、功罪ともに書くことを放棄して、時間的事実と物理的事実だけを記述する羽目になり、結局はそのせいで執筆責任者は青島守備隊司令官に左遷されたそうです。
 小川琢治博士は、総司令部付で日露戦争に従軍して、石炭獲得のための地質調査に当たっていたのですが、後年、青島の地質調査に派遣され、そこで左遷されていた戦史執筆責任者に会い、そういう話を聞いたそうです。で、息子の貝塚茂樹博士や湯川秀樹博士にもそういった話や総司令部で聞いた乃木批判等の話をされたそうです」

ベッキー「韓国のほうは、ベトナム戦争に入ってゆくところだ。キーセンがどうとかいうのは他サイトで見ればいいことだし省くぞ」

くるみ「作者の興味ないことだしね。で、作者は、ベトナム参戦じたいについては、アメリカの足元を見てうまいこと売りつけたなぁ、という感想を持っているそうね」

ちよ「はい。詳しいことはのちの回でもふれてゆくのですが、国益のために軍を派遣することじたいには特に批判はないようです」

芹沢「産業も資源もない韓国が、経済発展に必要な資金を稼ぐために、男も女も体を資本にして働いた、ってことなんだな」

ベッキー「その軍が現地で何をしたかについては、また別個の感想を持っているがな。次は、二人めの主人公である金華秉キム・ファビョンの出生だ」

じじぃ「元ネタは1巻『春や昔』、誕生した男児(真之)を寺にやろうかという両親に対して、信さん(好古)が意見をいうところじゃ。以下原文じゃ」

 すでに四人の子がある。この養育だけでも大変であるのに、この「土州進駐」の明治元年(慶応四年)三月にまた男児がうまれた。
「いっそ、おろしてしまうか」
 と、その懐妊中、当主の平五郎が妻お貞にいった。町家や百姓家では、間引という習慣がある。(後略)
 それを、十歳になる信さんがきいていて、「あのな、それ、いけんぞな」と、両親の前にやってきた。由来、伊予ことばというのは日本でもっとも悠長なことばであるとされている。
「あのな、お父さん。赤ン坊をお寺にやってはいやぞな。おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるぞな」
 ウチというのは上方かみがたでは女児が自分をいうときに使うのだが、松山へいくと武家の子でもウチであるらしい。
「お豆腐ほどのお金」
 というたとえも、いかにも悠長な松山らしい。藩札を積みかさねて豆腐ほどのあつさにしたい、と松山のおとなどもはいう。それを信さんは耳にいれていたらしい。



ちよ「ハモニカ・カルビにつきましては『韓国を食べる』(黒田勝弘 文春文庫)に拠りました」

くるみ「現在でも海外への養子は絶えることがない、ってあるけどほんとなの?」

ベッキー「事実だ」


5月11日は「養子縁組の日」

10日午前、ソウル麻浦区ホルト児童福祉会の児童臨時保護所で、ボランティアたちが国内外に養子縁組される乳児の世話をしている。韓国の昨年の出産率は1.08%だが、海外への養子縁組は現在も1年に2000人近くにおよんでいる。これに対し政府は国内の養子縁組を奨励するため、毎年5月11日を養子縁組の日に定め、明日第一回記念式を行うことにした(写真=聯合ニュース)。

2006年5月11日 朝鮮日報



ちよ「問題はどんな子どもが海外に出されているかです」


国内養子縁組子どもの76%「未婚女性の子」

 昨年、国内で養子縁組された子どもは1641人と、一昨年(1564人)より4.9%増加した反面、海外での養子縁組は前年より1.3%減少した2258人であったと集計された。

 保健福祉部は22日、昨年国内外で養子縁組された子どもは計3899人と、一昨年より1.2%(48人)増加したと伝えた。類型別には海外で養子縁組された子ども1人を除いた全員が未婚女性の子どもで、国内で養子縁組された子ども中では76%(1250人)が未婚女性の子どもだった。

 国内の養子縁組の場合、女児(1147人)が男児(494人)の2倍を超え、女児の子どもを好む傾向が強かった。反面、海外での養子縁組は男児(1385人)が女児(873人)よりはるかに多かった。

 しかし、障害児の場合、昨年国内では7人のみが養子縁組されている反面、海外では705人と、一般の子ども(1553人)の半分近くにおよび、相対的に障害児の国内での養子縁組が微々たる水準であることが分かった。

 また、国内で養子縁組をする人の職業は、自営業が632人(38.5%)と最も多く、会社員が603人(36.7%)とその後に続いた。次は公務員(146人)、医者・薬剤師・判事・検事(30人)の順だった。

2005年2月22日 朝鮮日報



芹沢「つまり、未婚女性の子ども、障害児が優先して出されているってことか!」

ベッキー「未だに韓国社会には未婚女性の子に対する風当たりはおろか障害者に対するマイナスイメージがあるってことだ」

くるみ「未婚女性の子どもっていうのは、儒教的道徳観に照らして不義であるということで理解できなくもないけど、後者は障害者に対する差別でしょ?」

ちよ「昔の日本でも障害者に対する目は冷たいものがありましたし、それを笑いにするというのもたしかにありましたが、だんだん変わってきています。
 ですが、韓国はまだそこまで行ってないんですね」

芹沢「ただ、そういうのを錦の御旗にして他者を糾弾したり、脅してゆすろうとする輩も増えてきているぜ」

くるみ「『人権屋』ってやつね。自分たちが『社会的弱者』であると規定して、反対者を人権侵害者として決めつけ、反論を封殺するのよ。作者の最も憎む手合いだわ」

ベッキー「韓国、いや朝鮮において障害者が忌避されるのは『見栄え』が悪いからというのがあるんだ。
 つい最近まで、平壌の街では老人・妊婦・障害者が出歩いてはいけないというお達しがあったんだ。全世界に喧伝されるべき主体思想の首都のカメラ映り、見栄えがよくないから、という理由でな。
 あとこういうのもあったな」


【五輪の中の世界】血筋で盛り上がる韓国

 スケートの“ショートトラック王国”である韓国はトリノ五輪でも威力を発揮している。金メダルはすべてショートトラックだ。過去の金メダルもそうだった。それだけにショートトラックへの思い入れは強い。前回のソルトレークシティー大会千五百メートルで先頭の韓国選手が失格となり、米国の日系アントン・オーノ選手に金メダルを“奪われた”事件(?)は今回まで尾を引いていた。

 韓国ではこの間、ずる賢いヤツは“オーノ的”とか“オーノする”などといわれたりしたものだ。判定は審判の責任だったのにオーノ選手が一人悪者にされてしまった。この“オーノたたき”には韓国世論の反米と反日が微妙にからんでいたというのが、ウオッチャーたちのもっぱらの見方だった。

 しかし今回は千メートル、千五百メートルとも韓国選手が1、2位を占め、オーノは千メートルで辛うじて銅メダルだった。韓国としては4年前の“ハン(恨)”を晴らしたかたちだ。これでオーノ選手も韓国世論の“恨”から解放されるだろう。

 そこで韓国マスコミはトリノでオーノ選手と余裕(!)のインタビューをしている。しかし話題の中心は意外にもスケートではなく、先ごろ行われたアメリカン・フットボール、NFLの頂点を決めるスーパーボウルで活躍したハインズ・ワード選手のことなのだ。

 ワード選手はスーパーボウルで優勝したピッツバーグ・スティーラーズの主力としてMVPになった黒人系の選手。母親が韓国人ということが伝わり、韓国マスコミが大々的に報道したため韓国で一躍有名になった。

 インタビューでは、オーノ選手がアメリカン・フットボールの大ファンということでワード選手の話になった。ところが韓国人記者が「ワード選手が韓国系ということを知っているかい?」と質問したのに対しオーノ選手は「知らなかった。意外だ」と答えている。

 さらに「ワードは混血ということでいじめられたそうだが、あなたはそんな差別はなかったの?」という質問にオーノ選手は「そんなことはなかったね。友達とは仲良くすごしたよ」というのだった。

 ワード選手についていえば、日ごろアメリカン・フットボールなどにはまったく関心のない韓国世論が、韓国系のハーフだという“血筋”ゆえに彼をまるで民族的英雄のようにまつり上げた。そして韓国系ということを米国人ならみんな知っているだろうと思って、やはりアジア系ハーフのオーノ選手に聞いたところ「知らない」というのだ。

 ワードにしろオーノにしろ、その活躍は血統ではなく育ちであり環境だろう。だから日本世論はたとえばオーノ選手に「日本」を意識することはほとんどないが、韓国世論は血統へのこだわりが強い。

 トリノではスキー男子モーグルでやはり韓国系の米国選手トビー・ドーソンが銅メダルを取り韓国マスコミをにぎわしている。彼はハーフではなく孤児として米国人家庭に引き取られ米国で育った。早速、韓国内で“父親”など血縁者が名乗りをあげている。

 韓国ではこうした“血統主義”はいつも美談になる。しかし血統主義ゆえに冷たい目で見られてきた混血や海外養子が、成功物語となると血統主義でとたんにもてはやされるという韓国的風景には、どこか落ち着かない気分が残る。(ソウル 黒田勝弘)

2006年2月24日 産経新聞
http://www.sankei.co.jp/news/060224/spo036.html(リンク切れ)


<取材日記>ドーソンを2度泣かせた故国

親を捜すため来月に韓国を訪問する予定だったトビー・ドーソン(28)が韓国行きをキャンセルした理由が、親を名乗り出る人からのeメール攻勢のためと伝えられ、後味が悪い。

ドーソンは16日、トリノ冬季オリンピック(五輪)フリースタイル・スキー男子モーグルに米国代表で出場し、銅メダルを獲得した主人公だ。 自ら韓国系の養子だと堂々と明らかにし、さらに話題を集めた。

しかしメダル獲得後の所感で「韓国人の親を捜したい」と語ったドーソンの期待は、わずか1週間で憤怒に変わった。 彼の受賞を聞いて、国内から親を名乗り出る人が200通を超えるメールを送ったからだ。 名前と所属会社を明らかにしない放送局のリポーターが「親を知っている」と言いながらドーソンにしつこく電話をかけ、困らせたようだ。

ついにドーソンの代理人スピネロ氏が「ドーソンは親を捜すことに非常に敏感になっている。静かに科学的な方法で捜したい」という声明まで出すことになった。 親を名乗り出る人々のうち、家族関係を明らかにする遺伝子検査に応じるという人は誰もいなかったというのが、スピネロ氏の説明だった。 ドーソンが韓国訪問をキャンセルすることになった背景だ。 「オリンピックでメダルを取ったことが親を捜すのに役立てば・・・」という受賞所感を明らかにしたドーソンにとって、銅メダルはむしろ親探しの妨げになったわけだ。

ドーソンは昨年にも韓国を3度も訪問しながら親を捜したが、見つからなかった。 それほど自分を生んでくれた親に会いたく、韓国系であることを誇らしく思っているというのが、スピネロ氏の説明だ。韓国人の母を尊敬するというアメリカンフットボールのスター、ハインズ・ウォードを彷彿させる。

3歳の時に米国の家庭に養子として渡ったドーソンは、米国人夫婦の配慮で最高のスキー選手に生まれ変わった。 仮に彼がオリンピックメダリストでなく平凡な青年であれば、果たして親を自称する人がこれほど多く現れただろうか。 米国の家庭に渡るまで放っておきながら、今になって親を名乗り出るのは恥ずかしくないのか。 彼が静かに親を捜すことができるよう、みんなが協力しなければならない。

鄭済元(チョン・ジェウォン)スポーツ部門記者

2006年2月23日 中央日報



くるみ「つまり200人も心当たりのある人がいたってこと?」

芹沢「いや、そうじゃなくて、単におこぼれにあずかりたいというヤツが多いんじゃねーか?宝くじに当たったら、知らない親戚が増えるとかいうようなもんだろ」

ちよ「それにしても、韓民族とやらの血筋にこだわるわりには捨て子が多すぎます」

ベッキー「血筋にこだわるからこそ、捨て子が多いんだよ。血筋上問題の有るとされる出生が多い、ってことだ」

くるみ「レイプの結果や私生児、混血児など、彼らの価値観上、望まれないかたちで生まれてきた子が多いってこと?」


 国際化、グローバル化が叫ばれる今日も混血児の悲劇は終わっていない。1980年代半ば、米国が期限付きで移民法を修正し、混血児3000人余りを受け入れたが、このうちの大半は米国定着に失敗して帰って来てしまった。また、「お母さんと別れたくない」という理由でこの地に残った彼らの悲しい歴史はその子孫にも受け継がれている。

 パールバック財団が2001年、財団に所属する混血児を調べたところ、義務教育である小中学校にも通えない混血児は全体の26.9%にものぼっていた。混血児1世の場合、83%がシングルマザーによって、残りの17%は祖父母や知人によって育てられており、両親と暮らしている児童は一人もいなかった。

 同財団の金スンモク代表は、「単一民族を強調する韓国社会が、混血人を暗黙的に『あってはならない出生』として認識付けたことは事実だ。就職も水商売や飲食店などがやっとで、その子孫たちも貧困から抜け出せない場合が多い」と語っている。


2003年5月5日 朝鮮日報より抜粋



ベッキー「そういうことだ。で、南北でこんなバカげたおしゃべりをしているんだ」


「韓民族は単一民族」? 南北代表が論戦

 南北将官級軍事会談2日目の17日、鉄道連結や海上境界線問題などを論議する本会談前の会談で、南北代表間で意外な‘純血論争’が巻き起こった。

 論争は北朝鮮のキム・ヨンチョル団長の「南の気候は暖かいから、農民たちは今、勤勉に働いていることだろう」という言葉に対し、韓国のハン・ミング首席代表が「農村人口が減り、農村の独身男性はモンゴル・ベトナム・フィリピン女性と結婚するケースが多い」と答えたことから始まった。

 にわかにキム団長は顔を曇らせ、「わが国(北朝鮮)は1つの血統を重視してきたが、民族単一性が消えてしまうのではと心配」と述べた。ハン首席代表は微笑みを浮かべた顔で「漢江の水にインクを一滴落とすレベルだ。主流があるから、ともに暮らせば大して問題はない」と答えたが、キム団長は「われわれは昔から三千里錦繍江山(三千里の国土と美しい自然を持つ国、韓国・朝鮮の別称)だ。インク1滴でも落としてはならない」と‘純血主義’を強調した。

 ハン首席代表が「歴史を振り返ると、私たちは東夷族だったが、周辺の靺鞨(まっかつ)・女新真・満州族などとともにありながらも韓民族のアイデンティティを守ってきた」と述べたが、キム団長は負けずに「確かにそのとおりだが、古朝鮮から中世・近代に至るまで、われわれが単一民族として代々受け継いできたことは否認できない」と応酬した。

ユ・ヨンウォン記者

2006年5月18日 朝鮮日報



ベッキー「東夷族とか単一民族とか、最初から最後までバカな話だけで構成されている。私はこういう輩には容赦しないぞ。
 記事を書いている記者のほうも、なにも疑問を抱いていないところがさらにバカの上乗せだ」

ちよ「これから変わっていってほしいものですが」

芹沢「あとは最後の主人公韓世実ハン・セシルが登場するだけだな」

ベッキー「それはかなり先の話になるぞ。華秉だって、今回で生まれただけで、ちゃんとした描写をするのは世実の登場時からだしな」

くるみ「先は長いわね。でさ、錫元の出征するベトナム戦争でも脳内火葬戦記をやるそうね」

ベッキー「ああ、朝鮮戦争と違って元ネタはあるようだがな。だが次回ではまだベトナムには行かない。金錫源と白善に出演していただく」

アホ毛「はやく戦争になぁれ♪」

ベッキー くるみ 芹沢「それはもういい」

ちよ「ツッコミがマキシマム速いです」


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