斜め上の雲 17

鞭声粛々




 七三年一月、停戦と南北ベトナム双方の軍事力増強を禁止するパリ協定が調印され、米韓軍は三月に撤退を完了した。
 事実上の敗戦といっていいが、アメリカにとってははやく抜けだすためのかたちさえととのっていればそれでよかったのであろう。北ベトナムが協定を遵守するかどうかを検証することさえしなかった。
 つまりは、南ベトナムは見棄てられた。七四年十二月に北ベトナムは協定を踏みにじって本格的な攻勢を開始し、七五年四月にほぼ全兵力である十五個師団を一気に投入してサイゴンを陥としベトナム半島を赤化統一した。

 むろん、韓国もアメリカに同調してさっさと足抜けをしている。朴正煕が欲したのは経済発展のための資金であってベトナムの土地ではない。ベトナムの赤化統一がさけられない以上、よけいな長居は無用であった。このあたりの判断も酷薄なばかりに実務的である。
 さらにいえば、ドルの自由化によってドル防衛をせまられたニクソン政権が、経費削減を主な理由として在韓米軍のうち一個師団を撤収したこともあって、韓国はベトナムに軍隊を張りつけている場合ではなくなった。
 また、七二年には北朝鮮との秘密接触がかさねられ、七月には民族団結と平和的な統一をうたった南北共同声明を発表、緊張の緩和と平和的な統一へのみちすじがみえてきたとされたが、朴は、南北対話ときたるべき統一のために国内体制をかためるべきだとして、十月には非常戒厳令を宣布し、翌月、国民投票による改憲をおこなった。そういった体制引き締めの一環としてベトナム撤退による軍の再編も必要であったのである。

 錫元にとっては負けたという意識はない。じぶんにあたえられた職務のなかで、
(やれるだけのことはやった)
 たしかにそうであろう。すくなくとも戦場では負けていない。その点には自信がある。
(将軍や白閣下もそうだったのだろうか)
 金錫源は支那を転戦し、白善は満州・朝鮮国境地帯で匪賊を掃討しのち支那戦線に転じた。ふたりとも戦場では負けていない。しかし、今の錫元と同じように敗者のがわに立った。
(これで将軍たちと同じところに立てたのかな)
 ふと、おかしみをおぼえた。しかし、そうだとすれば次は朝鮮戦争ということになる。
(今度は勝つ)
 そうおもい、腰の軍刀を握りしめた。

 帰国後、錫元は大統領執務室によばれた。
「君には戦史と軍事史を研究してもらいたい」
 朴正煕はそういって、戦史研究室への復帰を命じ、キャビネットから現金を出して、研究費と称して手渡した。
 錫元の功績はたれもがみとめるものであったのだが、軍人事のバランスについてつねづね苦慮していた朴としては、錫元が韓米軍の戦術についてずけずけと批判しながらも戦功をたてたことをこころよからずおもっている――つまりは嫉妬である。この民族のこの手のやっかみほどおぞましいものはない――軍幹部も少なからずいたこともあり、そのため昇進ではなく賞与の支給にとどめたのであろう。

 執務室のキャビネットには、財閥から献金させた数十億ウォンもおよぶ現金が常備されていた。すべて政権維持用の政治資金であり私財ではない。
 朴には、おおやけわたくしして不正に蓄財する悪癖はいっさいなかった。
 さらにいえば、かれは一族親戚を高位につけ利権をあてがうことをかたく禁じていた。この点だけをみても朝鮮人ばなれしていたといっていい。
「今晩はこれから宴会をする。君にも参加してもらいたい」
 錫元にことわる理由はない。そのまま朴と安全家屋(セーフティハウス)に移動した。

 朴正煕は酒をこのんだ。
 とはいえ、贅沢をきらい濁り酒(マッコルリ)を飲み、肴は味噌をつけた生の青唐辛子だけであった。また、質素な手打ちうどん(カルククス)をこのみ、青瓦台での食事会にはかならずそれを出した。この点、台所の隅にあった味噌を肴にして一族の若者とさしで酒を飲んだ執権北条時頼に似てはいる。
 この日もそうであった。肴は生の青唐辛子とキムチだけである。参加者は、朴夫妻と錫元のほかに、軍要職にある全斗煥、盧泰愚らがいた。
「君のことは全君からよくきいていた。現場指揮官というより教官か研究者に向いていると」
 朴はそういってわらった。全斗煥が言葉をついだ。
「陸士時代に校庭で、太平洋戦争と朝鮮戦争について私に語ってくれただろ」
 全は、その内容についてもよくおぼえていた。
「金君、日清戦争と朝鮮戦争について教えてほしい」
 朴はそういって青唐辛子をかじった。
「とくに、平壌攻略についてだ」

 一八九四年、清軍二万のまもる平壌を攻略するため、日本軍は、京城から主要街道の義州街道を北進する大島義昌少将の混成旅団と野津道貫中将の第五師団主力(四個歩兵大隊)、その東を並走する朔寧街道をすすむ立見尚文少将の支隊(二個歩兵大隊)、東海岸の元山に上陸、成川街道を西進する佐藤正大佐の第十八連隊が三方からせまった。
 教科書どおりの分進合撃である。はげしい戦闘のすえ平壌は陥ち、清軍の猛将左宝貴は戦死、総司令官の葉志超は開城降伏と偽って白旗を揚げて夜陰にまぎれて遁走した。

 その半世紀後、国連軍はほぼ同じ状況で平壌を陥としたが、中国軍の攻勢によって二ヵ月後に奪いかえされた。
「なぜ、あんなにかんたんにやられたのか」
 朴、全、盧は当時前線で戦っていた。その疑問ももっともである。
「成川をうしなったからです」
 錫元のこたえは明快であった。
 元山に上陸した第十軍団と平壌の第八軍の連携がとれずに、平壌と元山の中間点の要衝である成川をうしなって分断されたのが原因であるという。
「部隊どうしの連携か。これは経済も同じだな。各分野でばらばらに生産をおこなっても無駄ばかりだ。戦略目標をさだめてしっかり連携をとってたがいに協力させねば」
 朴はそううなった。

 かなり酒がまわってきた。
「それにしても、日本はけしからんですな」
 軍人のたれかがそういった。かつて統治したことをなじっているようだが、経済援助の規模や実施方法についての不満もあったのかもしれない。
「まあ、待て」
 朴はそういって、杯をおいた。
「わたしは、みんなも知ってのとおり貧農の出身だ。まっとうな教育を受けられるものではなかった」
 錫元をはじめ一同はききいるしかない。
「だが、日本の統治下では義務教育がしかれ学校にゆくことができた。そういう機会があたえられただけでも日本には恩義がある」
 ――むろん、欠点もあったが、
「おおむね、日本人は公平にやったとおもう」
 朴はそういって、杯をあげてマッコルリをあおった。

 朴の独白はつづく。
「韓日基本条約をたった五億ドルで妥協したとののしる声もあるが、すみやかな条約締結による日本資本の導入こそが必要だったのだ」
 日韓たがいの請求額をまっとうに算出すれば、日本が朝鮮半島に残した資産のほうがはるかに多く、韓国の要求額を払ったとしてもじゅうぶんお釣りがくるという試算があることはすでにふれた。結局、西側の結束と発展という戦略目的のため、たがいの請求権を放棄して条約は妥結された。
「しかし、日本は独島の領有権を主張しています。あれはわれわれの島です」
 べつの軍人がいう。
「李承晩先生がよけいなことをしてくれた」
 朴はそういった。その口調はややにがい。
 現役の大統領である朴正煕にしてみれば、万一竹島が理不尽にとったものであっても、いったんとった以上簡単に吐きだすわけにいかない。個人的な面子ではなく、国家の面子、威信がかかっているからである。
「悩ましい問題ですね」
 盧泰愚がつぶやいた。これを問題にしてしまえば、日韓双方ともひくにひけないであろう。それこそ日本が主張するように国際司法裁判所に提訴するしかない。
 だが、そこで韓国が敗訴してしまえばどうなるであろう。朴政権の威信は地に落ち、国内世論の混乱はまぬかれまい。政権崩壊すらじゅうぶんに考えられる。
「いっそ、島をなくしてしまえばどうでしょう」
 酔いがまわったせいか、錫元はそう軽口をたたいた。
「うむ。あんなものがあるからみんな苦労する。韓日両軍の共同演習をおこなって、砲撃、爆撃で吹きとばしてしまうか」
 朴の言葉に、さすがに一同はあっけにとられた。
「そういうわけにもいかないので、棚上げするのが、最良ではないにしても、もっともましな方策なんだ」
 朴はわずかに苦笑した。

 朴は酒席で軍歌など日本語の歌をうたうくせがあったが、この日はちがった。
「鞭声粛々夜河をわた
 暁に見る千兵の大牙を擁するを
 遺恨なり十年一剣を磨く
 流星光底長蛇を逸す」
 と、頼山陽の詩の一節を吟じたのである。
「不識庵、機山を撃つ」と題されたこの詩は、武田信玄と上杉謙信が正面から激突した第四次川中島の戦いをうたったものであり、琵琶の題目としても有名である。なお、不識庵とは謙信のことである。
 この戦いで、謙信は、武田方の軍師山本勘助のたてた挟撃策「啄木鳥の策」の裏をかき、妻女山の本陣を引きはらって、深夜ひそかに犀川をわたり武田本陣に接近したという。「鞭声粛々夜河を過る」とはそれをさす。
 夜明けとともに急襲した謙信を、山本勘助と信玄の実弟である典厩こと左馬頭信繁が一命をもって食いとめているあいだに、もぬけの殻となった上杉陣を襲っていた高坂弾正昌信の別働隊が到着し、ようやく武田方は優勢を取りもどした。
 謙信は信玄を打ち損ねた。「長蛇を逸す」の語源である。
 朴はかつてクーデターの前夜にも同志と酒を酌みかわしてこの詩を吟じていた。
(なにか決断をされる気なのか)
 錫元だけでなく、全斗煥、盧泰愚もそうおもった。

 この年の六月、朴正煕は国連への南北同時加盟を提案したが、金日成は、
「二つの朝鮮をつくるものだ」
 として非難し、「高麗連邦共和国」による統一加盟案を逆提案した。また合意事項に違反して、休戦ラインでの拡声器による非難放送を再開した。
 南北の融和機運は一気に冷えこんだ。
 錫元があとから考えるに、朴の提案はそこまでよんだものであったらしい。
(おそらく、あの宴会のころに決断されたんだろう)
 そうおもった。


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ベッキー「久しぶりだな。みんな元気だったか」

ちよ「はい。軍事関係の話は初めて聞くことばかりでした」

芹沢「ベホちゃんとメディアの話はけっこうおもしろかったぜ」

ベッキー「それはよかった。で、水原はまだいるのか」

よみ「ええ、なぜかわからないけど一条さんに引き留められて」

「メガネは絶対必要です」

ベッキー「なんかよくわからんが、まぁいいだろ」

地味「ベッキー、誰か忘れてない?(涙)」

ベッキー「く、くるみか。ちゃんと覚えているぞ(汗)」

芹沢 よみ「(絶対忘れてたよ)」

ベッキー「じ、じゃ始めるぞ。まずは韓国のベトナム撤兵後だ。本文にもあるように、72年7月に、民族団結と平和的な統一をうたった南北共同声明が発表された。
 ま、双方ともこれによって南北対話ときたるべき統一のために国内体制を固めると称して、南は改憲、北は金日成首相が国家主席に就任し「社会主義憲法」を施行したわけだ」

よみ「双方同じようなことをしたわけですね」

ちよ「また、1月には、日本の超党派議員で結成された日朝友好促進議員連盟が訪朝し、朝鮮国際貿易促進委員会と『貿易促進合意書』を調印しました。これによって北朝鮮は各種プラントの輸入による経済発展をもくろむことになります」

芹沢「あれ?北朝鮮って主体思想で自主独歩の国じゃなかったのか?」

ベッキー「主体思想の確立はもうちょっと後の話なんだ。この経済発展計画の推移とも一応関係があるんでな、また詳しくふれるだろう」

ちよ「南北が秘密折衝を重ねるなかで、韓国の発展の様子を見てプラント輸入を思いついたようですね」

くるみ「へー。『漢江の奇跡』の成果を見てしまった北は焦ってパクろうとしたわけだ」

ベッキー「最近までは作者は南のほうが圧倒的に発展していたと思っていたが、南も必死だったようだ。実情より大きく見せる小細工をしていたらしい」


北に見せるため一晩中ビルに灯火…70年代南北接触秘話を出版

「南北(韓国・北朝鮮)の体制が激しく対決していた1970年代初め、北朝鮮から来た秘密特使がソウル中心部にあるホテルのナイトクラブで遊んだ、としたら信じられますか」。

およそ30年間、南北会談と赤十字の人道事業のために活動してきた韓瑞(ハンソ)大・李柄雄(イ・ビョンウン、65)教授。同氏は71年4月19日、北朝鮮側代表のキム・ドクヒョン氏が極秘裏に韓国入りし、李厚洛(イ・フラク)中央情報部長など政権の主要人物に会った当時のことをはっきりと覚えていた。

李教授は「朝鮮(チョソン)ホテルの18階に泊まったキム氏を在日韓国人の大物に見せかけ礼遇した」とした。キム氏は昼間は高官らに会い、夜は豊田(プンジョン)ホテルのナイトクラブで踊ったり酒を飲んだりしながら遊んだ。李教授によると、海外暮らしが長いとされたキム氏はダンスもかなり上手だったもようだ。

キム氏が韓国入りしたのは、翌年7月14日に採択した南北共同声明の地ならし作業のためだった。李教授は、70年代に南北の秘密接触業務を担当していた時代の体験をつづった『平和の旗を掲げて』(図書出版ヌルプム)という本を出版した。同書には、これまで公開されなかった南北関係の秘話が紹介されている。

71年9月20日に板門店(パンムンジョム)で行われた初の南北接触で、最初の発言を先にしようとした双方が1分以上も同時に発言していたこと、韓国側が提案した「7.4南北共同声明」の草案を見た北朝鮮側の随行員が漢字を読めなかったことなども公開された。韓国入りした北朝鮮代表団に見せるため高速道路に大韓(デハン)通運のトラックを並ばせたが渋滞になり大混雑したエピソードもある。

乗用車の動員が厳しく、トラックで道路を埋めようとしたのだ。北朝鮮代表団が通る街の建物などを塗りなおしたり、ビルの電気を夜遅くまでつけておいたり、北朝鮮代表団が泊まる宿所にあった日本製のエレベーターに「韓国産」のレッテルをつけたりもした。李教授は「死ぬ思いで体制の優越さを誇示しなければならなかったのが冷戦時代の切ない状況」と説明。

広報将校としてベトナム戦争に参戦した同氏は、69年9月、中央情報部「勝共」チームの企画官として南北会談業務にかかわりはじめた。その直後、赤十字会談にあたった同氏は、92年から04年まで、赤十字会談の韓国側首席代表を務めた。韓国赤十字会事務総長と総裁特別補佐役を経た同氏は現在、韓瑞大で国際人道主義研究所長を務めている。

李教授は「最近、北朝鮮がコメ・肥料を支援しないからといって、離散家族面会所の工事を中断したのは人道レベルから残念なこと」とし「韓国世論が背を向けるようにした誤った判断」と指摘した。

李永鐘(イ・ヨンジョン)記者

2006年7月25日 中央日報



芹沢「トラックの動員は、交通量を多くみせ経済活動が活発だとおもわせるためのヤラセだな」

くるみポチョムキン村ってやつね。後年のハリボテ都市平壌と同じじゃない」

ベッキー「そのとおりだ。平壌については、関川夏央が88年6月に書いた『日本「常識人」の北朝鮮観光』(『退屈な迷宮』収録)という文章で、ホテルの日本製家電製品の商標を隠して国産に見せかけるってのを指摘していたな」

よみ「結局、やることは同じなんですね」

ちよ「南のほうでは、隠蔽されていた北の実情を過大に評価していたんじゃないか、だから背伸びして大きく見せたがったんじゃないか、というのが作者の考えです。実情が判明した今では滑稽に見えますが、たしかに当事者は必死だったでしょう」

ベッキー「次は朴正煕についてだ。彼の際立った特徴は、一族を優遇し高位や利権を与えるということをしなかった点だ」

芹沢「そういう身内びいきと利権漁りって、普通やらないもんだろ?どうして特筆する必要があるんだ」

ベッキー「簡単なことだ。身内びいきと利権漁りは朝鮮の伝統、いや支那も含めて典型的な『アジア』的腐敗を代表する行為なんだ」

よみ「一族を引き立てて利益誘導をするんですね」

ちよ「贈賄で任官し人脈を構築して、実入りのよい部署を獲得して利権にありつくのがいちばん速い手です」

ベッキー「李朝末期には科挙の点数さえ金銭でどうにかなったし、高宗の時代には、地方官の職位を入札にかける売官も行なわれた。しかも落札に失敗しても金は没収というえぐいルールで朝廷はぼろ儲けだ。
 さらには、一族の関与する企業や団体に優先的に公共事業を請け負わせたり、課税や事業の許認可で優遇ってのも錬金術の一つだ」

くるみ「それで、官を得た後は投資した分も取り返そうと収奪や収賄に励むわけね。ほんっと民度が低いわ。
 この箇所を書いている時点(2006年9月)では、クーデターで追われたタイのタクシン首相も一族厚遇と不正貯蓄で有名よね。タクシンって華僑系でしょ。所詮支那系なんてこんなもんだわ」

ベッキー「だけどな、弁護するわけじゃないが、栄達したら一族を引き立ててやるというのは、彼らの道徳で言えば、子孫に財産を残すように、親に孝行するように、ごく当たり前の人情というか当然のおこないであって、悪徳という認識は薄い場合が多いんだ」

芹沢「そりゃ、身内にいい思いをさせてやりたい、というのは私たちだってあるけど、そのために枉げてはいけないルールがある、ってこともわかっているぜ」

よみ「そこで、肉親の情と、おおやけの理のどちらに忠実に動くのかが、法治と人治の違いかもしれんなぁ」

ベッキー「福沢諭吉が『脱亜論』を書いた背景には、こういった『アジア』的政治システムとそこに群がる人々の民度に嫌気が差したというのもあるんだ。
 福沢は朝鮮人の日本留学を支援したり、弟子の井上角五郎を派遣してハングルを使用した『漢城週報』を発行させるなど、朝鮮社会の改革にも手を貸しているんだ。金玉均のクーデターにも援助したらしいが。その挙句が朝鮮に対する諦めであったということは言えそうだな」

ちよ「作者が学生のころは、『脱亜論』と言えば欧米に摺り寄ってアジアを見くだし、植民地にする方向を位置づけた、いわば帝国主義邁進を表明した書物だとして評判が悪かったです」

くるみ「福沢諭吉は、日本最初の親韓から転向した嫌韓で、かつ『特ア』の本質を見抜いた人間かも。さすがお札の人よ」

ベッキー「そういう言い方は成り立つかもしれんな。福沢が絶望したのはおおやけわたくしの分別のない前近代的な政体と民度であったわけだ。
 その『脱亜論』が掲載された時事新報が、現在の産経新聞になっているというのは、偶然ではあるのだが何か運命的なものすら感じてしまうな」

ちよ「そういうわけで、朴正煕の態度はかなり特異なものだと言えるのです。もっとも、貧農出身の彼には両班のように力を持ってまとまった一族がなく、重用できるほどできのよい者がいなかった、というのもあるでしょう」

くるみ「その点は豊臣秀吉に似てるわね」

ベッキー「朴には小一郎秀長ですらいなかったし、金吾秀秋や秀次を引き立てることもしなかったというわけだ。それに、彼の望んだものは一族の栄耀栄華ではなかったしな。
 その代わりと言ってはなんだが、酒を大いに好んだようだ」

ちよ「安心して宴会を開くために『安全家屋』つまりセーフティハウスを何軒か極秘につくってありました。といっても、『韓国大統領列伝』(池東旭 中公新書)によればつつましいものであったようです。陸英修夫人が暗殺された後にはますます酒を偏愛し、女性を侍らせての酒宴が多くなったそうです」

芹沢「そっか、夫人の陸英修は朴正煕狙撃の流れ弾で殺されたんだよな」

くるみ「犯人は在日朝鮮人の文世光だったわね」

ベッキー「ああ、その辺は次回でやる予定だ。
 なお、日清戦争の話は白善『若き将軍の朝鮮戦争』に書かれていた解釈を下敷きにして、江川達也『日露戦争物語』でイメージを補った」

よみ「日清戦争までで終わった『日露戦争物語』を使ったと、ぬけぬけと言うこと自体、すでにネタですよ」

ベッキー「おもしろい解釈や資料の使い方も多くて楽しめたんだがなぁ。きちんと最後までやり遂げてほしかったが、マンガも商品である以上、打ち切りというのも仕方ないとは言えるな。
 ま、そんなものは置くとして、宴会中に発言したという設定の朴の独白は2つ元ネタがある。まず、2000年1月4日付産経新聞「新春正論対談」の中曽根康弘と福田和也との対談だ」


 韓国の朴正煕大統領がこんな話をしてくれました。
彼の周囲にいるかつて軍人だったような威勢のいい連中は、酒に酔ってくると「日本はけしからん」と言いだす。
それに対して朴大統領は「まあ、待て」となだめながら自らの歩みを語る。
朴大統領は貧農の出身で、教育を受けたいと思いながら、とても無理だろうとあきらめていた。
ところが日本がその統治下で義務教育制を敷いたことで、朴少年も学校に通うことができた。
また満州軍官学校を首席で卒業した彼は、その特典で日本の陸軍士官学校に留学し、卒業します。
日本は朴少年のような存在にそうした機会を与えた。

(中略)

「日本人は名前を変えろとか生意気なこともやったけれど、私はおおむね彼らは公平にやったと思う」
と朴大統領は述懐していたわけです。



ベッキー「次は、月刊『正論』2003年1月号での石原都知事の発言が元ネタだ」


 朴さんが、「石原さん、大事なのは教育だ。このことに限ってみても、日本人は非常に冷静に、本国でやってるのと同じ教育をこの朝鮮でもやった。これは多とすべきだ。私がそのいい例ですよ」と言う。

(中略)

「私は貧農の息子で、学校に行きたいなと思っても行けなかった。日本人がやってきて義務教育の制度を敷いて子供を学校に送らない親は処罰するといった。日本人にしかられるからというんで学校に行けた。その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よくできるな。日本の市谷の士官学校に推薦するから行けといって入学。首席で卒業し、言葉も完璧でなかったかもしれないが、生徒を代表して答辞を読んだ。私はこのことを非常に多とする。相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の高い政策をやったと思う」

http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2003/ronbun/01-r1.html



よみ「ネットでけっこう目にする箇所だよな」

ちよ「鵜呑みにしてしまうのはさすがにどうかと思いますが、ネタとしておもしろいので使ったようです」

芹沢「竹島爆破ネタってほんとうにあるのか?」

くるみ「聞いたことはあるけど、発言したのは金鐘泌首相じゃなかったっけ?」

よみ「私は、日本の官僚の発言だと聞いたぞ」

ベッキー「発言じたいは存在するのだが、誰が最初に言ったのかはよくわからん。朴正煕であるともいい、金鐘泌首相か韓国人議員、あるいは日本人の議員、政治家か官僚だ、と諸説があるようなんだ」

芹沢「究極の解決方法だよな。譲って『友情の島』とかいうきれいごとを吐かすよりは、よっぽどすっきりするぜ」

ちよ「ともちゃんのいたずらや、大阪さんのボケ、ゆかり先生のわがままと違って、こういう偽善はただいやらしいだけです。おもしろくもありません」

よみ「ちよちゃんも厳しくなったなぁ」

くるみ「先生が先生だからなぁ。そりゃ辛辣にもなるって」

ベッキー「コホン……朴正煕が吟じた頼山陽の詩だが、実際にクーデター前夜にも吟じていたそうだ。作者は織田信長の『敦盛』のような感じで使いたかったそうだ」

芹沢「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり♪ってか。それにしても川中島合戦について書き過ぎじゃないか?」

ちよ「だいたい1話は1200字程度を理想として、1100字弱から1400字弱の間に収めるという自分ルールがあって、掲示板掲載時にその文章量を確保するために多く書いたそうです。
 ちなみに、ここにアップするときは複数話をつなげて再構成しているんですよ」

よみ「つまりは字数稼ぎか。道理で高坂弾正昌信とか典厩こと左馬頭信繁という長ったらしい趣味丸出しの語句を使っているわけだ」

ベッキー「実もフタもないことを。もっとも、『坂の上の雲』8巻「沖ノ島」で、第三艦隊はバルチック艦隊を戦場までストーキング誘導したんだが、旗艦の松島艦上で、誘導に入る直前に休息したとき、艦長の奥宮衛大佐が落ち着くために、軍医に薩摩琵琶で「川中島」を弾かせる場面があるから、まったくの無関係というわけでもない」

くるみ「苦しいコジツケね」


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