斜め上の雲 22

華秉と世実




 このころ、錫元は末弟華秉ファビョンの生活費および学資を負担しないようになっている。金村の金家から華秉がいなくなったからであった。
 養子に出たのである。
 朝鮮の家族制度においては「異姓ハ養ハズ」といい、原則的に他家の男子を養子にせず一族の中からむかえるのであるが、族譜上じぶんの同世代にあたる者の男子から養子をえらぶことで、一族をつらぬく父系の血脈と族譜の世代秩序とをきわめて厳格にまもっている。娘に婿養子をとらせるという発想はほとんど例をみない。
 錫元、華秉の父である信五は金家の本家筋であったが、いとこすじにあたる金源五の息子が病死し後嗣がいなくなったため、華秉は養嗣子としてもらわれたのである。

 ゆらい儒教は孝をやかましくいう。
 代々の先祖より血脈を受け継ぎ親から授けられた肉体をきずつけることなくまっとうして、次の世代へ血脈をつたえて先祖の祭祀をたやさないようにするというのが、かれらのいう孝である。
 ゆえに、男子が跡継ぎのないまま死ぬことは祭祀を途絶えさせることであり、最大の不孝であるとされた。これを回避するための末期養子、死後養子による家督相続がしばしばあった。
 七四年、四歳の華秉は、金村の実家を離れ慶州の養家に引き取られた。

 慶州は新羅の古都であり、朝鮮戦争中錫元はその北の浦項で戦ったことがある。養父である金源五は銀行の支店長をつとめているため、養家は経済的にややめぐまれていた。近所にはおなじ年頃のこどもが多く、華秉もしぜん群れて遊ぶようになった。

 としは金華秉よりひとつ上で、国民学校から高校までずっと同学だった韓世実ハン・セシルのばあいは、国民学校に入る前に書堂ソダンというものに入った。儒者が漢字や儒礼をおしえるもので、寺子屋とかわらなかった。
「世実は、この書堂に入ったとき、まだまげを結っていた」
 と、華秉は後年よくからかった。世実の父方の祖父は大韓帝国の両班であり、かなりの資産家であったが、このひとが大の倭洋ぎらいで、自分もまげのまま生涯を通し、初孫の世実にもまげを切らさなかった。断髪令は国が朝鮮であった一八九五年に出ており、まげはもはや過去の遺物となっていたため、書堂に入ると、
「おきまりのシル」
 といわれた。朝鮮語で「おきまりの」は「常套サングトゥ」といい、まげと同音である。世実は従順な子だったが、このことを子供心に苦にしていた。
 華秉は家が近所どうしであるため、書堂にかよう世実のすがたをよく見かけたが、とくに接触があったわけではなかった。国民学校に入ったときおなじクラスになり、ようやく親しくなったが、しかしあそび仲間としてはべつべつのグループに属していた。

 華秉は国民学校時代は野山をかけめぐってあそびに熱中していたが、世実はそういうものにはまるで興味がないらしく、近づかなかった。
 中学二年生のころは世実は当時はやりの民主化運動の演説に熱中していた。
「おもしろいか」
 と華秉がきくと、
「おもしろいかどうかが問題じゃない。韓民族の正義にてらしてやってるんだ」
 と世実はいった。恥ずべき軍事独裁政権を終わらせて平和を愛する韓民族ほんらいのもつ民主政治を振興しなくてはならないのだ、と世実はいう。
(むずかしいことをいうやつだ)
 と華秉はおもったが、当時、慶州のある慶尚北道ではこの種の民主化運動がさかんであった。
 なにぶん、一九五四年以来野党の一方の雄として民主化運動にとりくんできた金泳三の出身地である巨済島は南どなりの慶尚南道であり、そのうえ朴正煕は慶尚北道内の亀尾出身であり、いぜんかれをなつかしむ声が大きかった。いきおいかれを否定する民主化運動は過激にならざるをえなかった。

 このころ、つまり八五年ごろにはすでに民主政治への移行が既定路線にのりつつあった。プラザ合意による円高ドル安が原油安と国際金利安、さらにはウォン安をもたらし、韓国はこれによって第二次オイルショックによる不況からぬけ出したのであるが、ソウルオリンピックの招致に成功していたことで、国際世論に対して成熟した民主主義の国家であることを示す必要にせまられていたのである。
 世実は一人で何グループもの民主化運動サークルの会員をかけもつほど熱心であった。
「民主とは何ぞや」
 といった演題で、世実は慶州ばかりか浦項までいって演説をぶったりした。そんなかれに影響されたのか、華秉もしだいに行動をともにするようになった。

 かれらの青春と韓国の情勢は多忙であった。
 八八年、ふたりが高校三年生のときソウルオリンピックが開催された。かれらだけでなく多くの韓国人がはじめてみるような国々から選手団がソウルにあつまった。
「ウリナラはすごいんだな」
 ふたりはあらためて祖国の偉大さに感心した。これで先進国の仲間入りをしたのだという実感がわいてきた。その前年には全斗煥大統領が退陣し、盟友であった盧泰愚が大統領に就任している。
 結果的に民主政治への移行を実行した盧泰愚政権は、八九年には「七・七宣言」をだして北朝鮮との対峙姿勢を軟化させた。
 経済の発展とオリンピック成功は、解放感と拝金的な傾向だけでなく治安の悪化をももたらした。八九年の国内犯罪は一日あたり千四百六十八件となり、八八年の六百二十二件の倍以上となった。また、インフレが進行してきたこともあって物価高をまねき成長率はやや鈍化した。民主政治に移行したにもかかわらず、それら経済面に対する不満のため民主化運動はさらにもり上がった。
 華秉と世実も、民主化運動に昂奮した。大学受験を目前にひかえていたため直接行動はできなかったが、ひまがあれば民主国家大韓民国の未来について語りあった。


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よみ「やっと、金華秉と韓世実が前面に出てきましたね」

ベッキー「ああ、掲示板掲載時では第74話になっていた」

くるみ「第1話掲載から7ヶ月弱経っていたのね。ま、2週間の中国旅行の直前に、第68〜74話プラスそれぞれの解説を集中投下していたけど」

芹沢「今思えば、そこまでせずに地道に引っ張ってもよかったなぁとちょっと後悔しているみたいだな。でさ、華秉はいきなり養子に出ちまったじゃん」

ちよ「こういうかたちで家を継ぐという養子は支那朝鮮ではポピュラーです。
 支那の例を挙げますと、周恩来はまだ1歳にもならないときに、跡継ぎのないまま病没した叔父の死後養子となり、叔父の未亡人を母として育てられました。
 また、三国志で有名な袁紹は、ほんらい袁一門の当主袁成の実子ではなくその弟袁逢の庶子であり、子のない袁成の養子となって当主を継いだため、袁逢の嫡子であり異母弟になる袁術とは仲がよくなかったとも言います」

くるみ「一族内での世代秩序を尊重して縁組するのね。袁術にしてみれば、いちおう兄とはいえ妾腹の袁紹が一門の当主となったことは腹立たしかったでしょうね」

ベッキー「そういういがみ合いもあって、史実の三国志の序盤、董卓死後の情勢なんて、袁紹陣営(曹操、劉表ら)と袁術陣営(公孫瓉 、孫堅・孫策ら)による袁家の内輪争い同然だもんな。
 だから、袁紹幕下だった荀が曹操に鞍替えしたのは、引抜きではなく一種の出向みたいな平和的な異動だったんだ」

よみ「三国演義もおもしろいですが、史実のほうも楽しめるともっといいですね。『兵糧が無い!』『地方豪族が非協力的じゃー!』といった曹操らのリアルな悩みも感じられて」

芹沢「ロマンはぶち壊しになるけどな。曹操が天下統一できなかったのは鉄が足りないからでしたー、とか、孔明が北伐を続けたのは利益拡大の可能性を蜀の豪族にちらつかせて国内の政治的安定を図るためでしたー、とか」

ちよ「み、みなさん辛辣過ぎです。朝鮮と支那の違いは異姓養子を認めるかどうかという点ではないでしょうか。支那の場合、異姓養子や義子、猶子というのはけっこうあります」

よみ「他姓の者に相続させない、ってことは婿養子制度もないってことになりますね」

ベッキー「ちなみに、1939年(昭和十四年)の朝鮮民事令第11条改正のさい、『養子は養親と姓を同じくすることを要せず』として、『不養異姓』の慣習を解消できるようにした。また、その理由書において、婿養子制度について『十数年前から婿養子制度の実現を要望する声が大きくなってきた』とあるのは興味ぶかいな」

【8ページ目】
理由
朝鮮人間に於て壻養子制度の実現を要望すること熾烈なるを以て之を創設し之と関係を有する氏に関する規定を設くる等の為本令中改正の必要あるに依る

【10、11ページ目】
然るに、朝鮮に於ける壻養子制度の実現に対する要望は十数年前より擡頭し、近時該要望は愈熾烈急迫を加ふるに至りたると共に、民衆の間には、一般の輿論に徴し、早急に該制度の実現を見るに至るべしとの期待を抱き、家女を出嫁せしめざる者相当数に上れる実情なるを以て、之が実現を荏苒全般的立法完成の機に遷延するは、実情之を許さざる所なり。
仍て茲に壻養子を中心とし、之と連環関係を有する氏等に関する規定を設け、以て緊急の須要に応ぜんとす。

(中略)

第十一條の3 壻養子縁組は、養子縁組の届出と同時に婚姻の届出を為すに因りて其の効力を生ず。
2 壻養子は妻の家に入る。

理由
法定の推定戸主相続人たる男子無き場合に於ても、女子は相続を為すことを得ざるを以て、必ず他家に出嫁するを朝鮮の慣習とす。
然れ共、親子の情愛よりせば、愛児を他に嫁せしめて血縁遠き他人の子を養ひ、故らに親愛を求め且之に全財産を相続せしむるが如きは、人生自然の情誼に非ず。


ちよ「このあたりについては、そのほとんどをdremtale日記さんの『創氏改名』というエントリーにたよっています。興味のある方はそちらを参照してください。
 また、原資料を確認されたい方は、アジ歴レファレンスコードA02030160700『朝鮮民事令中ヲ改正ス・(壻養子制度創設及之ト関係スル氏ニ関スル規定)』をご覧ください」

芹沢「おいおい、他人任せかよ」

ベッキー「dreamtaleさんがあれだけ詳細に書かれている以上、今さら作者がどうこう説明しようとしたところで、結局はパクリか二番煎じになってしまうだろうしな。作者自身の無能を認める謙虚さは持ち合わせているが、他者の解釈を素知らぬ顔でパクってすませるような厚顔さは持ち合わせておらん」

くるみ「そうね。そんなどこかの半島人のような恥知らずなことはしたくないわね☆」

ベッキー「ま、そういうことだ。学問に必要なのは愛情じゃなくて誠実さなんだよな」

くるみ「『韓国に対する愛情はないのかー』ってネタね。ちょっと長いけど元ネタはこれ」

ちよ「これも、第11回で紹介していますが、今回は中略無しのフルバージョンです」


韓国・北朝鮮「自己絶対正義」の心理構造

櫻井よしこ(ジャーナリスト) 
関川夏央(作家)       
古田博司(筑波大学教授)   

――現在、日本は北東アジアにおいては四面楚歌といってよい状態にあります。靖国参拝、歴史認識を言挙げして、中国はもとより、韓国でも盧武鉉大統領が靖国参拝を止めない限り首脳会談に応じないと言い出し、政権ぐるみの反日キャンペーンを続けている。北朝鮮に至っては先の日朝国交正常化交渉でも、拉致の責任は棚上げして日本の戦前の強制連行を補償しろ、と言い張る始末です。こうした「反日トライアングル」、ことに韓国、北朝鮮に、日本はどのように対したらいいのか。本日は、両国との論争経験豊富な皆さんに、日本はいかに対峙してゆくべきかを論じていただこうと思います。

関川 四面楚歌でも、そう悲観する必要はないように思います。まず櫻井さんに非常に素朴な気持ちでおうかがいしたいのですけれども、この席に臨む準備で拝見したご本なんですが、『日韓歴史論争 海峡は越えられるか』(中公文庫)で、どうして金両基さんと対談しようと思われたんですか。彼は端的に言うと、「日本人を叱る在日コリアン」という立場というか、仕事というかがまだ成立していた時代の代表的な人だと思うんですよ。怖かったのではないですか。

櫻井 金両基さんと対談をしたのは九七年でしたが、当時、「従軍慰安婦」問題が論じられるなかで、私は「そもそも『従軍慰安婦』という言葉そのものが、当時の文書のどこにも出てこないおかしな言い方ではないか。それに、必ずしも強制連行されたわけではない」と言って、各方面からすごくバッシングをされたんですね。そのとき、最も反日的な人と意見を言い合ったらどうか、という企画をいただき、すぐに思い浮かべたのが金両基実さんだった(笑)。
 実際に議論をしてみると、金さんはものすごく激昂するんですね。ときどき灰皿が飛んでくるかと思ったぐらい。対照的に休憩時間になると、非常ににこやかになる方でもありました。私が心したことは冷静に話すことでしたが、いま読み返してみると、もっと激しく言い返せば良かったな、と(笑)。

関川 読んでいると、金さんはご自分にあまり知識がないテーマ、たとえば、十九世紀末ロシアの膨張圧力、日露戦争の原因や評価のくだりがとくにそうですけど、ことさら激越な口調になられるみたいです。

櫻井 「日中韓『靖国参拝』大論争」(「文藝春秋」二〇〇五年八月号)のときにも感じたのですが、都合の悪いところ、自分にとって弱いところを突かれると、韓国の人たちは答えようしない。そして、まったく別のところに話題をポンと変えて、また怒り出す。

関川 そうして、また自分で自分を徐々に激昂させながら、涙と汗の反日に話を運んでいく傾向がありますけれど、いまだそのテクニックは有効なのでしょうか。

櫻井 以前、呉善花さんと話していたら、「櫻井さん、あなたの話し方では絶対ダメよ」と言われました。「とにかく相手より大きな声と尊大な態度、相手より大げさな形容詞と身振り手振りで非難しないと、韓国では論争に勝てない」と(笑)。

関川 もうひとつ付け加えると、相手の話は聞いてはいけない。一方的に自分の言いたいことだけしゃべりまくる。

古田 韓国語に「声討」という言葉があるんですよ。声で討つ。

櫻井 やはり怒鳴ることが効果的ですか。

関川 いやいや、櫻井さんは声が小さければ小さいほどみんなが耳を傾けるんですよ。私のように気の弱い者が怒鳴るしかない(笑)。ただその場合、韓国人の「声討」というか大陸の方法へ日本人が降りて行くのだという苦い覚悟を持たなくてはならず、また先方が実証的歴史事実の積み重ねでは説得されるつもりがないということは認識しておかないといけない。


はじめに「自分が正しい」ありき

古田 日韓歴史共同研究委員会も似ていますよ(笑)。当事者なのであまり詳しくはお話できないのですが、たとえば意見が対立しますね。日本側の研究者が「資料をご覧になってください」と言うと、韓国側は立ち上がって、「韓国に対する愛情はないのかーっ!」と、怒鳴る。

関川 「ない!」と答えてはいけないのですか(笑)。

古田 さらに「資料を見てくれ」と言い返すと、「資料はそうなんだけど」とブツブツ呟いて、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と始まるのです。

関川 歴史の実証的研究では韓国は日本に勝ち目はないでしょう。竹島占領の根拠についても同じです。事実よりも自分の願望というか、「かくあるべき歴史の物語」を優先させるようですから
 韓国の知識人と話していて強く感じるのは、強烈な早飲み込みなんですね。頭もいいんでしょうが、何か日本についての話題をふると、ほとんど瞬間的に「分かった」と言う。その典型が『「縮み」志向の日本人』で有名な李御寧さんご本人とその著作でしたね。ほら、市川昆の金田一耕助の映画で、すぐ「分かった!」と手のひらをぽんとたたく加藤武の警部がいたじゃないですか(笑)。盆栽が好きだから日本は「縮み」志向だとかね。それだと大阪城とか、江戸の雄大な都市機能だとかはまるで説明がつかない。断章取義なんですね。日本のことなら任せておけと彼がいうのは、日本に対するなみなみならぬ愛憎のあらわれなのでしょうが。

古田 民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなんですね。当然、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる。

櫻井 それは韓国の大学の歴史研究者ですか。

古田 イエス。これは韓国の伝統的な論争の流儀であり、思考パターンなのですね。李朝時代の両班の儒教論争も、みなこれですから。
 要するに「自分は正しい」というところからすべてが始まる。しかし、実はこの「自分は正しい」という命題は実証不可能なんです。この思想が突出したものが、北朝鮮の主体思想にほかなりません。その本質は何かといえば、「自己絶対正義」にほかならない。したがって何をやろうと、彼らの「正義」は揺るがないのです。

「自分が世界の中心にあり、最も道徳的に優れている」とするのが、中華思想です。韓国、北朝鮮、中国、それぞれ独自の中華思想を持っている。そして、この「自己絶対正義」の論理をたどっていくと、彼らの社会構造の根幹を成す「宗族」に行き着く。「宗族」というのは、文献上で遡れる自分の祖先に連なる一族のことで、要するに「血族」です。彼らのいう「道徳」とは、この宗族の中だけの道徳であり、正義ですから、宗族以外の人間には何をしても構わない。他の宗族と墓争いをすると、相手の墓を暴き、遺骨から何から焼き尽くして、その上に自分の一族の墓を平気で建てる。こうした例が、李朝時代の記録には非常に克明に記されています。

櫻井 靖国参拝に関する議論のおおもとにも、そうした他者に対する倫理観の違いがありますね。

古田 まさにそうです。自分の祖霊だけが大事で、相手の霊魂などまったく考慮しない。いわんや他国の神社の霊においてをや、です。儒教もまた、この宗族の論理と支えあう論理なのです。
 ちなみに日本では江戸時代までには、血族にこだわらない家族原理としてのイエ制度がほぼ成立していました。婿や養子を取り、よその血が入ってきても、経営体としてのイエが続いていけばよい、という考え方なのですね。その分、外に開かれている。
 一方、身内だけを重んじる朝鮮社会には、外の人間に対する理性的な交流が、伝統的に存在していなかったのです。関川さん、初めて韓国に行ったときには大変だったでしょう?

関川 ええ、懐かしく思い出します(笑)。日本人や外国人一般に悪意がある、というのではないんです。ただ、家族とか身内とか知人、それ以外の人々には何をしてもいいし気にしない、という空気なんです。道で肩がぶつかっても挨拶なし、というのが非常に新鮮な最初の衝撃でしたよ(笑)。


『韓国・北朝鮮の嘘を見破る 近現代史の争点30』鄭大均 古田博司編 文春新書

芹沢「お、おいおい、どこが『ちょっと長い』だ?かなり長いじゃねーか!」

ちよ「いい機会だから、長くなっても紹介しておきたかったそうです」

よみ「たしかに論争の話だけじゃなく、宗族とかウリとナム――自己と他者――の話も出てきたし、興味深くはあるよな」

ベッキー「正直、今回はネタが薄めなんで字数稼ぎという狙いもあったんだがな。さ、じいさん先生、原文をたのみます」

じじぃ「元ネタは1巻「真之」、正岡子規の小学校時代と中学校時代の話じゃ。以下原文じゃ」

 明治四年から六年にかけて、伊予松山に六つの小学校ができた。
 としは秋山真之よりひとつ上で、中学から大学予備門までずっと同学だった正岡子規のばあいは、最初末広学校というものに入った。末広町の法竜寺という寺の本堂が校舎で、寺子屋とかわらなかった。
「子規は、この小学校に入ったとき、まだまげを結っていた」
 と、柳原極堂(正之)という子規の同郷の友人が書きのこしている。子規の母方の祖父は大原観山という旧松山藩随一の学者でながく藩儒をつとめていたが、このひとが大の西洋ぎらいで、自分もちょんまげのまま生涯を通し、初孫の子規にもまげを切らさず、外出には脇差一本を帯びさせた。断髪令はすでに明治四年に出ており、町の子はことごとく丸坊主になっていたが、子規だけがそんな頭でいた。末広学校に入ると、
「まげ升さん(子規の幼名)」
 といわれた。子規は従順な子だったが、このことを子供心に苦にしていた。
該当箇所


 中学四年生のころは子規は当時はやりの自由民権運動の演説に熱中していた。
「おもしろいか」
 と真之がきくと、
「こっちがききたいことじゃ」
 と子規は妙なことをいった。要するにおもしろいからやっているのではなく、おもしろいかどうかを考えもとめているのだ、と子規はいう。
(りくつの多いやつだ)
 と真之はおもったが、当時、この種の民間政論は全国でも愛媛がさかんなほうであったろう。
 なにぶん、自由民権運動の本場のような土佐にちかく、そのうえ明治七年にこの県の権令になった岩村高俊はさきにのべたように土佐人であり、権令が先頭に立ってこの運動を県下にまきおこし、明治十年には岩村の独断をもって特設愛媛県会ができあがった。全国最初の県会である。

(中略)

 明治十四、五年ごろになると松山市内に青年演説グループがいくつもできたが、子規は一人でその三グループの会員になるというほど熱心だった。
「自由とは何ぞや」
 といった演題で、子規は市内の会場をぶってまわったりした。該当箇所


よみ「ここの書堂ソダンっていうのは何ですか?」

ベッキー「本文中にあるように寺子屋のようなものだ。李朝時代には両班が教育のために建てており、主に「千字文」「童蒙先習」といった教材を使って漢籍の素読や習字を教えた。当然、生徒は両班の子弟だけだぞ。
 日本統治がはじまり、近代的学制に基づいた学校が設置されてゆくと、初等教育の場としての書堂は徐々に減り、漢文教養を教える塾のようなものにシフトしていったんだ」

くるみ「李朝の国民の水準を上げることには全く寄与しなかった施設よね。寺子屋と比べるなんておこがましくてー♪」

ちよ「基本的には両班のための基礎教育の場でして、寺子屋というより、支那の閭学、社学、学館といったものと同じようなものとみたほうがいいかもです。
 近代的学制に基づいた学校や、社会生活のなかで必要な読み・書き・そろばんといった実用的なものを教える寺子屋とは、その意義が違いましたから、寺子屋というたとえ自体はともかく、両者を比べることにはあまり意味はないでしょう」

ベッキー「当然、寺子屋と書堂の間に優劣を論じることも無意味だぞ。くるみ」

くるみ「…はーい」

ベッキー「日本時代には、漢文だけでなく当時諺文とよばれていたハングルも教えるようにして、時代に対応していったところもあるようだ。
 朝鮮人の入植者が多かった満洲(吉林省)の琿春ではこんな事態があったらしい。例によってアジ歴ことアジア歴史資料センターから引用だ。レファレンスコードはB03030262600、琿春副領事から外務大臣にあてた報告だ」

 大正七年八月廿二日
      在 琿春
       副領事秋洲郁三郎

 外務大臣男爵後藤新平殿

  支那側の朝鮮人教育に関する件
本年春以来朝鮮総督府に於て当地に普通学校を設置し在来の琿春書堂生徒を引継ぎ授業を為し居る処尚進んで徐に地方の鮮人子弟を収容するの目的を以て該学校長より先般京城視察団に加入せし者に学務委員を嘱託する等我が施設の漸次地方鮮人部落に及ぶものあるより支那側に在りては各地方に於ける私立学校及び書堂(朝鮮人設立)に僉し在来の教科書(千字文、漢文、朝鮮諺文、朝鮮歴史地理)を廃止し間島の例に依り画一墾民教育弁法を施行し中国国語国歌を主とし中国地理歴史等を教授し墾民をして支那化せしむるに力め墾民児童をして普通学校(日本学校)に入学せしめざる様注意すべき旨各郷長に対し布達せりとの事に候
尚ほ先般延吉道尹より当県に送附したる墾民教育補助費(其の送附の時日と全額を知悉せず)と当県各郷に点在せる学田(私立学校財産)より徴収する財源を以て当琿春市内に華墾民中学校を設立し各地方私立学校及び国民小学校卒業生を之に入学せしめ以て将来の国民を養成せざるべからざる旨運動し居る者ありと聞き込み候間御参考迄に此段及報告候敬具

 本信写発送先
  在支公使、間島総領事、朝鮮総督府




よみ「中国のほうでは、いろんな手段を使って入植者を清・中華民国に取り込もうとしていたわけだな。その中にこういった教育分野もあったわけだ」

芹沢「得意の民族抹殺教育ってやつじゃねーのか」

ちよ「そういった中国側の行動については、アジ歴のキーワード検索で『発朝鮮辺境清国領土内居住ノ朝鮮人ニ対スル清国政府ノ懐柔政策関係雑纂』と入力して出てくる資料に詳しいです」

ベッキー「作者は、本来これを資料集に載せてコンテンツをつくるつもりで保存していたのだが、書堂ネタとしてこっちで使えそうだと思ってもってきたんだ。当時、間島地域の書堂では千字文や漢文、諺文、朝鮮の歴史地理を教えていたということがわかる資料だな」

よみ「ふうん。ところで「おきまりの」と髷の話ってほんとなのか?」

ちよ「発音が同じ(상투:サングトゥ)というのはほんとですよ。そこからネタをでっちあげました」

くるみ「ソウルオリンピックについてはやらないの?」

ベッキー「ボクシングで、ライトミドル級決勝戦で朴時憲がありえない判定勝ちとか、バンタム級二回戦で辺丁一の判定負けに不服をとなえた韓国コーチが審判に殴りかかり、韓国役員たちが会場の照明を落として帰った事件やら、かなり多くのネタがあるな。けど、アホらしくなって、つっこんでやる気力がないらしい」

芹沢「おいおい、関連情報についてリンク張ることすら放棄しているじゃねーか。せめてウィキ程度は張っておけよ」

くるみ「かなりアホらしくなったみたいだわね」

ベッキー「作者はリアルタイムで見た世代だしな。もっともあのころは、韓国って国は、初めて世界の舞台に出て舞い上がり過ぎとんのかなぁ、という程度の感想だったようだがな。そうだ!どうでもよいネタがひとつあった」

よみ「なんですか?」

ベッキー「オリンピックやWCなどの競技が行なわれた会場の多くはソウルの蚕室チャムシルというところにある。
 支那では伝統的に宦官を作るとき、手術を施した者を暗い部屋でしばらく安静させていたんだが、その部屋を『蚕室』と称したんだ。漢代には宮刑に処すことを『蚕室に下す』と表現したこともあるらしい」

芹沢「は?」

ちよ「蚕を飼育する部屋のような暖かい暗室ということなんですね」

くるみ「それで、なにか関係があるの?」

ベッキー「いや、何もないはずだ。ただ作者は初めてソウルを訪れた際に『蚕室』という地名を見て『常に周辺国を利用することしか思いつかないタマ無しどもにはふさわしい地名やんけ』と意地悪く思ってしまった、というだけのことだ」

じじぃ「ふぉっふぉっふぉっ、とくに意味もオチもないぞぃ」


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