斜め上の雲 24

ほこらしいウリナラ




 華秉は、陸軍に入ることを決意した。
 まず、陸軍士官学校を受験しなくてはいけないが、競争率はいがいと高くなかった。成長率は鈍化したもののバブル景気によってあいかわらず企業の求人は増加しており、民主化運動によって既成権力の牙城とされた軍に対してはよい印象がもたれてなかったこともあって、軍を志願するものは減っていたのである。
 結果からいえば、たやすく合格した。
 試験前は、
(兄上さまに口ぞえしてもらおうか)
 とおもったのだが、やはりやめた。錫元はその手の請願や運動をなによりもきらっているのを思いだしたからである。結局は合格後に報告した。
「まぁ、いいだろう」
 錫元は苦笑するしかなかった。かれは、華秉をそだて学校にゆかせるために軍人をつづけたのだが、まさか当の華秉がこちらの世界に来るとはおもいもしなかった。

 世実のほうである。
 すでにふれたように、かれの家は両班であり、かなりの資産家であったため学資にこまることはなかった。
 かれは、檀君大学に入学した。この大学は京城帝国大学より以前に設立されたという由緒ある大学であり、日帝の焚書をまぬかれた貴重な資料を多く蔵していることで知られている。
 しぜん、教科書にはのっていなかった文献にふれるようになった。「桓檀古記」「揆園史話」「檀奇古史」といった史書である。これらにえがかれた古代朝鮮の国家像はきわめて雄大であり、誇らしい歴史を有する優秀な民族にふさわしいものであった。
 だが、それ以上に世実の心をとらえたものがあった。
 主体思想、である。

 韓国の大学にはいくつか政治運動組織があるが、そのなかで最大のものが「全国大学生代表者協議会」であった。
 かれらは明確に反体制を標榜しており、指導部は金日成思想、つまり主体思想を信奉するものたちでしめられていた。会員は公称二千名であり非公然活動家をいれると四千人にもおよぶという。
 八〇年代前半から主要な大学にはかれらの活動支部がもうけられ、
「偉首金同(ウィスキムドン)」
「親指金同(チンジキムドン)」
 ということばがはやっていた。「偉大なる首領金日成主席同志」「親愛なる金正日書記同志」の略である。
 朴正煕以来、韓国は反共、滅共をうたって、国民に対して北朝鮮は明確な敵であるという教育をしてきたため、おおくの韓国人は「北韓プッカン――韓国における北の呼称である――」をばけものか何かのようにおもってきた。
 学生たちを主導としておこった民主化運動は世代対決のかたちをとった。既成勢力である年長者および社会の是認するものを否定し、否認するものを称揚するといった価値観の顚 倒がそのあらわれである。
 このため、ずっと否定的なものであった北朝鮮の評価は極端にあがった。だが、これは既成の価値観への異議申したてであるため、現実の北朝鮮への評価とは関係のないものであった。
 いずれにせよ、民主化運動のなかで北朝鮮を公然と支持する学生運動が大学でさかんとなっており、世実はその熱風にあてられた。

 学生運動が北朝鮮を賛美するようになったのは、ほかにも理由がある。
 北朝鮮がかつて経済危機に陥ったとき個人崇拝の強化によって批判を圧殺したことはすでにふれた。また、その発展として「主体思想」なるものをつくりだし、「自主」「自立」「自衛」をとなえた。
 この姿勢が、経済を日米にたよりきった状態のまま発展をつづける韓国の学生たちにとってまぶしくうつった。この場合、現実がどうであったかについて問うことにはほとんど意味がない。この民族の通弊として、あくまでも重視されるのは看板であって中身ではなかったからである。

「反外勢」
 学生たちにとって、これほどきらびやかなことばはなかったであろう。
 外国勢力に従属し、その下請工場としてかりそめの繁栄をあたえられたうえ、うつくしい国土にその軍隊を常駐させるという屈辱にあまんじ続けるウリナラ政府に対し、北朝鮮は分断されたままでありながら、外国になにひとつたよることなく歩いている。
 この同胞たちの気概に韓国もならわなくてはいけない。いや、むしろその苦難のみちをあえてえらんだ指導者のもとでこそ民族の統一はなしとげられるのではないか。
 再三いうようだが、このとき学生たちの脳裏には、現実の北朝鮮が中ソからの援助的貿易によって命脈をつなぎ、中東やアフリカに武器を輸出、軍事顧問を派遣して、みずからが「外勢」となっていたことなどまったくうつっていない。
 もとより、かれらはそのようなことを知ろうともしなかったし、知ったところで脳内妄想があらたまるわけでもなかったのだが。

 ともかく、八八年以降の大学にはこのような学生運動がはびこった。とくに八九年にかけては、学生活動家たちがかつて朴正煕少将のクーデターの直接の契機となった南北学生会談をふたたびさけび、北朝鮮がソウルオリンピックのむこうをはって開催した「第十三回世界青年学生祝典」通称「平壌祭典」に活動家代表を派遣しようとした。
 その代表にえらばれた二十歳の女子大生林秀卿は、八九年六月三〇日、当局の監視の裏をかきヨーロッパ経由で平壌にはいった。空港に降りたった林は歓迎のために殺到した学生代表らにもみくちゃにされ、ホテルへむかうために乗ったベンツは歓迎のこぶしでぼこぼこになったという。
 一方、韓国の諸大学ではすでに五月から学園祭に乗じて北朝鮮ブームとでもいうべきものがはじまっていた。
 壇国大では平壌でつくられた祭典ポスターがはられ、延世大では勝手につくられた祭典記念絵葉書が売りだされ、校門前ではフォークダンスに似た「解放踊り」がもよおされた。また、西江大では平壌酒場という模擬店がだされ、朝鮮総聯のつくった案内図をパクった平壌市街案内地図が貼りだされた。
 檀君大でも事情はかわらず、学生活動家たちが公然と北朝鮮をたたえ解放踊りをおどっていた。入学したばかりの世実もその輪のなかにあった。

 まったくこの時期の学生運動の親北化はすさまじい。
 盧泰愚大統領が「七・七宣言」によって北朝鮮との対峙姿勢を軟化させたことはすでにのべた。
 そのため民主化、学生運動のはたじるしとして公然と赤色がつかわれるようになったのである。がんらい、赤色は共産主義の象徴であり北朝鮮をしめすということで忌まれていた。たとえば、学校の運動会などのように対抗戦でおこなう行事は紅白戦ではなく青白戦と称した。
 ところが、ここにきて学生、労働運動が親北、左翼運動とむすびつき赤色をはたじるしとするようになった。李承晩、朴正煕時代の学生デモが反体制を標榜しながらもけっして赤色をつかわなかったことを考えると隔世の感がある。
 こうして、政治運動だけでなく各種の行事に赤い旗や鉢巻き、垂れ幕、プラカード、衣装などが登場するようになった。後年、それが国内外で悪名の高いサッカーサポーター「赤い悪魔(レッドデビルズ)」につながったことをおもえば、なにやら韓国の未来を暗示するような気もする。

 世実がこういった北朝鮮に親和感をもつ学生運動の影響で主体思想に染まった学生生活をおくっているころ、華秉はべつの思想にとらわれていた。
 民族主義である。それもお花畑に咲きほこるような雄大なものであった。

 韓国陸軍では、毎週水曜日を「精神教育の日」とし、全将兵を対象として民族史教育をほどこしていたのであるが、その古代史の部分が、前述した「桓檀古記」「揆園史話」「檀奇古史」といった史書に題材をとっていた。
「わが民族最初の国家は紀元前七一九九年に建国された桓国であり、その領土はカムチャッカ半島から中東までまたがっていた」
「紀元前三八九八年、白頭山神壇樹のもとに建国された倍達国が時をへて古朝鮮にいたった」
 などと書かれたこれらの史書は、在野の歴史学者たちが称揚し、歴史学界の主流からは黙殺されているものであったため、教材にはまだ定説化の段階ではないと但し書きはつけられてはいたが、歴史事実であるとして教えていたのである。

 陸軍士官学校の事情はもっとややこしかった。朝鮮の歴史の根源について、民族史では「桓国」であるとし、正規授業の韓国史では「古朝鮮」であるとしておしえていたのである。これでは生徒たちは困惑するしかない。
「高校で習った歴史とちがう」
 多くの生徒が民族史の授業にとまどい不満をもらしているなかで、華秉だけはひそかに昂奮した。
(これこそ優秀なウリミンジョクにふさわしい雄大な歴史だ)
 韓民族は無比無類の優秀民族であるとする華秉の信念は、この時代につちかわれたといっていい。


>>トップ

>>次回

<<前回




ちよ「前回予告どおり、華秉の士官学校と世実の大学生活です」

よみ「華秉の入った檀君大学って実在するんですか?」

ベッキー「んなわけないだろ。壇国大学を元ネタにした架空の大学だ。これまで作者がでっちあげてきたパチモン韓国記事によく登場させている」

芹沢「じゃぁ、その檀君大学に所蔵されている「桓檀古記」「揆園史話」「檀奇古史」という史書も作者のでっちあげたパチモンなのか?」

ベッキー「いや、それらは実在するぞ」

 4冊の本を1つにまとめた『桓檀古記』の内容は次の通りだ。まず、『三聖紀』は上編と下編に分かれているが、上編部分を安含老、下編部分を元董中が書いたとされている。『三聖紀』には朝鮮民族の起源から檀君朝鮮の建国とその歴史が書かれている。三聖とは桓因・桓雄・檀君を指す。(後略)
『檀君世紀』は高麗末の官吏・李嵒(1297〜1364.高麗時代の文臣、書画家)が官職を退いた1336年に著述したという。47代・1096年にわたる檀君朝鮮の歴史が主内容である。
『北扶餘紀』は休崖居士・范樟が著述したものであるが、元々『檀君世紀』と1つになっていたものであり、内容も『檀君世紀』の続編である。『太白逸史』は李陌(1455〜1528。『檀君世紀』を著述した李嵒の玄孫、朝鮮前期の文臣)が編纂したのだという。内容は、「三神五帝本紀」(宇宙の生成を記述)、「桓国本紀」(桓仁が治めた「桓国」の歴史)、「神市本紀」(桓仁の治世を記述)、「三韓管境本紀」(王倹が分割したという辰韓[真朝鮮]、馬韓[莫朝鮮]、番韓[番朝鮮]の歴史)、「蘇塗経典本訓」(檀君神話に関する記述)、「高句麗国本紀」「大震国本紀」「高麗国本紀」(高句麗・渤海・高麗の歴史と対外関係)で構成されている。


『揆園史話』
 1675年、北崖老人という号を持った人が書いた(とされる)歴史書。著者の名前は明らかにされていない。序文によると、書名の「揆園」とは著者が建てた(とされる)書斎の名前に由来している。著者は序文で、当時の儒学者らが無視してきた古記録を参考にして朝鮮の古代史を再構成したと述べている。
 内容は「序文」「肇判記」「太始記」「檀君紀」「漫説」で構成されている。「序文」には『揆園史話』を執筆した動機と過程、「肇判記」には桓因と桓雄が天地を開いた過程、「太始記」には桓因が東夷族を治めた数千年の歴史、「檀君紀」には桓雄の息子・桓倹が最初の檀君(檀国の王)になってから47代(1195年)にわたる檀国の王と治世、「漫説」には著者の人生観や歴史認識、文化認識、朝鮮を強大国にするための政策(「強国之要」)などが記されている。


『檀奇古史』
 渤海の始祖・大祚栄の弟・大野勃が王の命を受け、13年の歳月をかけて719年に書き終えた(とされる)檀君朝鮮・箕氏朝鮮の年代記である。原文は渤海語で書かれていたとされ、約100年後に渤海の文人・皇祚福が重刊し、張上傑が註釈を加えたという。その後、柳応斗が中国から『檀奇古史』を求め、李允珪らに伝え、これが大韓帝国学部編集局長・李庚稙に伝えられたという。『檀奇古史』は李庚稙によって学部から出版される予定であったが、日本の妨害で挫折した。その後、李允珪の息子である李華史が『檀奇古史』を翻訳、1949年に金斗和らと出版した。現在伝わっているのは李華史が翻訳し1949年に出版されたものだけで、漢文本は残っていない。
 この本は著者である大野勃の「序文」「前檀君朝鮮」「後檀君朝鮮」「箕子朝鮮」といった構成になっており、1907年に大韓帝国学部編集局長・李庚稙が書いた「とされる)「重刊序」と、1912年に申采浩が書いた(とされる)「重刊序」が付けられている。「前檀君朝鮮」には第1世檀帝である檀君王倹から第25世檀帝である率那までの25代。1214年の歴史、「後檀君朝鮮」には率那が王都を遷して第1世檀帝になってから23代檀帝・古列加に至るまで23代・875年の歴史、「箕子朝鮮」には箕子朝鮮41代・1052年の歴史が記されている。「箕子朝鮮」は「前檀君朝鮮」の第19世檀帝・縦年の弟の曾孫が建てた国で、「後檀君朝鮮」が建国されたとき同時に建国したという。

『日本人はビックリ! 韓国人の日本偽史』野平俊水 小学館文庫

芹沢「え?それじゃ、半万年の歴史ってほんとなのか?」

ベッキー「そいつらは完全な偽書だがな」

くるみ「出たーっ!!ウリナラ誇大妄想史書!!」

『桓檀古記』を構成する書物は、すべて朝鮮時代前期以前に編纂されたことになっている。しかしこれは『桓檀古記』の「凡例」の記述によるもので、実際のところ、その著述・編纂年代を知る手がかりは『桓檀古記』の「凡例」の記述以外に何もないのである。『三聖紀』の場合には例外的に『世祖実録』にその書名が現れるが、それとて『桓檀古記』の『三聖紀』と同一なものであるという根拠は何一つない。おまけに『桓檀古記』とそれを構成する4つの史料は、朝鮮時代に書かれたのにもかかわらず、その内容を引用した文献は1979年に至るまで一切現れないのである。このことは『桓檀古記』が20世紀、それもつい最近になってから書かれたものではないかという疑いを起こさせるのに十分である。しかも1911年に印刷されたという『桓檀古記』やその原本は存在せず、1911年に桂延寿が『桓檀古記』を編纂して印刷したということ自体がすでに怪しいのである。(後略)
 韓国の歴史学界が『桓檀古記』を偽書と見なす根拠は、このような状況証拠だけではない。『桓檀古記』には、朝鮮初期には現れるはずもない清代の地名が現れているのである。例えば『檀君世紀』『北扶余紀』『太白逸史』には「寧古塔」という地名が現れるが、この地名は清の始祖伝説と関連して名付けられた地名であるという。また『檀君世紀』『太白逸史』には「朱家城子」「長春」という地名が現れるが、「長春」という地名は清の嘉慶年間(1796〜1820)に使われはじめたものである。このことから『檀君世紀』『太白逸史』が朝鮮初期までに書かれたという『桓檀古記』の「凡例」の記述が嘘であることがわかる。おまけに『檀君世紀』には「文化」という語彙が、『太白逸史』には「原始国家」という語彙が使われているが、これらの語彙は近代になって使われだしたものである。(中略)このことから韓国の歴史学者らは『桓檀古記』は少なくとも1949年以後に完成したと見ている。勿論、『桓檀古記』を構成する史書の編者とされる李嵒、休崖居士・范樟、李陌などは名前を利用されただけで、『桓檀古記』とはまったく関係がなく、『桓檀古記』を最初に印刷したとされる桂延寿も『桓檀古記』と関連があるのかどうか疑わしい。


 さて、この『揆園史話』は17世紀に書かれたことになっているが、内容や記述の検討の結果、『桓檀古記』同様、実は今世紀になって書かれた偽書であることがほぼ明らかになっている。
 例えば、『揆園史話』(「檀君紀」)の内容には19世紀初めの史書である『海東繹史』を引用したと見られる部分があるのだが、ご丁寧なことに『海東繹史』の記述の誤りまでそのまま引用している。また「檀君紀」には「文化」という語彙が「culture」の意味で使われている。「文化」という言葉は元々「文治教化」という意味であり、「culture」という意味で使われるようになったのは近代に入ってからである。
 何より『揆園史話』が17世紀に書かれたとされるにもかかわらず、最初に引用されたのが1928年『大東史綱』という歴史書であったことも、『揆園史話』が近代、おそらくは1910年以後に書かれたことを物語っている。


 この『檀奇古史』の内容は、翻訳者である李華史の自叙伝である『言行録』の記述と一致する部分が多いことから、李華史によって書かれたものであると見られている。また『檀奇古史』本文に添えられている李庚稙の序文も、李庚稙が1899年以前に学部編集局長を辞任していると見られることから、非常に疑わしいものと見られている。申采浩の序文についても、その内容が申采浩が1917年に作成した光復会「告示文」の内容と酷似していることから、恐らく誰かが1917年の「告示文」に手を加え「重刊序」に作り直したのではないかと見られている。
 さて、この『檀奇古史』、実は『桓檀古記』『揆園史話』の内容と深い関係がある。『桓檀古記』の「檀君世紀」は47代にわたる檀君の年代記なのだが、『檀奇古史』、『揆園史話』(檀君紀)の内容とほとんど同じなのだ(檀君名と在位年に若干の差がある)。『檀奇古史』は8世紀、『桓檀古記』の「檀君世紀」は14世紀、『揆園史話』は17世紀に書かれたとされているのであるが、その内容がほとんど同じだということは、同一のテキストから内容を写したか、もしくは相互に引用されたとしか考えられない。結論から言えば、内容検討の結果、『桓檀古記』(「檀君世紀」)は『檀奇古史』『揆園史話』の内容を参考にして作成されたことが、最近の研究でほぼ明らかになっている。

『日本人はビックリ! 韓国人の日本偽史』野平俊水 小学館文庫

ちよ「作者は「桓檀古記」を読み通したんですが、かなり笑えたらしいです」

ベッキー「野平俊水氏の書いているように、場違いな語句が出てくるのもツボだがな」

桓檀古記 檀君世紀



桓檀古記 太白逸史 高麗国本紀



桓檀古記 太白逸史 高句麗国本紀


ベッキー「まず一枚目だが、ドイツ語の『kultur(英語:culture)』の訳語として『文化』という漢語をあてたのは明治の日本でのことだ。『文化』は本来は『文治教化』といって、武力や刑罰ではなく、学問や教育によって民を感化するという意味なんだ。だから、ここのように現代の「文化」という意味での用例はおかしいんだ」

芹沢「へー」

ベッキー「二枚目の『原始国家』という言葉だが、『原始』は本来『ものごとの根源をたずねる』という意味なんだ。ここのように『ものごとの一番はじめ』の意味に使うのは、これも明治の日本でつくられた用法だ」

くるみ「福沢諭吉が『脱亜論』に「特ア逝ってよし」とか「DQNどものせいで日本が苦労するんだゴルァ」とか使っているくらい不自然よね♪」

よみそういうギャグはどうかと思うが……って、パクリじゃないか」

ちよ「APRIL FOOLさま、ごめんなさい」

ベッキー「三枚目だが、『太白逸史』が書かれたとかいう16世紀前半には『熊本城』なんて存在しない」

ちよ「1607年、加藤清正が城を建築した後に隈本を熊本と改名したものですから。『瀬戸内海』という記述もポイントかと思います」

くるみ「韓国歴史学界からすら偽書認定を受けるようでは話にならないわね♪」

芹沢「でも、作者はこういうのは大好きなんだろ?わざわざ読んでいるし」

ベッキー「笑えるからな。偽書つながりということで、華秉の士官学校のエピソードの元ネタを先に紹介しておこう」

よみ「桓国とか、高校で習った歴史と違うとかいう箇所ですね」

91年10月28日付朝鮮日報には、次のような記事が掲載された。

 韓民族初の国家はBC7199年桓国/陸軍の古代史教材物議
 軍が毎週水曜日の「精神教育の日」の行事に、全将兵を対象とする「民族史教育」の古代史部分が、学界の主流学説とは外れる在野史学者の主張を中心として編集され物議をかもしている。陸軍本部が編集した教材の中で問題となっているのは「我が民族最初の国家はBC7199年に建国された桓国であり、その領土はカムチャッカ半島から中東地域にまでまたがった広大なユーラシア大陸であった」という部分。このような古代史は、資料的価値に対する論争が終わっていない『桓檀古記』『揆園史話』(付記参照―引用者)等を土台にした在野史学者の主張を根拠としたものである。しかしこれに対して、学会では「歴史」というより「神話」であるという批判を加えてきた。この教材は我が民族が建てた国家を「BC3898年、白頭山ペクトゥサン神檀樹の下に建てた倍達ペダル国を経て古朝鮮に至る」と記述している。もちろん、この教材は「まだ定説化段階ではない」という点を明示してはいるが、野戦部隊では「信念化」次元まで発展し、注入式教育が実施されている。第1軍司令部が編纂した民族史教材には「多勿精神(韓国の民間学者によれば「多勿精神」とは高句麗の建国精神のこと―引用者注)」として「古の祖先の領土を回復しなければならない」という内容も掲載されている。陸軍士官学校でも、訓育官らは民族史の根源は「桓国」からだと教え、正規授業である「韓国史」の時間には「古朝鮮」からだと教え、生徒を混乱させている。最近、士官(候補)生を対象にしたアンケート調査によると、全生徒の72%がこのような内容の民族史教育が「高校で学んだ内容と合致しない」と答え、22%が「実証的資料不足により信憑性に欠ける」、15%が「国粋的民族主義を助長する」と答えた。一部生徒らは「時代錯誤的発想」という反応を示した。これに対する陸軍本部の羆癖―攵は「民族的自負心を高揚させるためだけのもので、教育自体に問題点はない」と語った。高麗大・金貞培教授(上古史専攻・53)は、「軍が民族史について関心を持ち、雄飛の意志を育てようとするのは理解できるが、考古学的裏付けがない仮説を全軍に事実であるかのように教育するのは性急なこと」と語った。

『日本人はビックリ! 韓国人の日本偽史』野平俊水 小学館文庫

ベッキー「で、在野史学者とやらは、こういうものも出版した」

 韓国の大手出版社である東亜出版社は94年、『大朝鮮帝国史』なる本を出版した。全3巻の膨大な内容を簡単に要約すると次の通りだ。

 古朝鮮の領土は北はバイカル湖から南は揚子江まで、西はモンゴル砂漠から東は日本にいたる広大なものだった。紀元前9000年前、東夷族である桓因はパミール高原の下に桓国を立て、その後バイカル湖の付近に移った。紀元前7000年前に韓国人の祖先はバイカル湖付近から分かれ、世界各地に散らばっていった。紀元前4500年には中国東北部に紅山文明ひいては黄江文明を打ち立てた。紀元前3500年頃には西に向かった一部が、メソポタミア一帯にシュメール文明を築き、紀元前2700年ごろには中国南部に進出した一部がチベットまで征服し、800年間統治した。また西に向かった一部はフィンランドの北側に定着し、東北に向かった一部はベーリング海を渡ってアメリカに入りインディアンの祖先になったという。東に向かった一部はサハリンを伝って日本列島に入り、日本に定着し、これが「倭」の祖先となった。紀元前2173年には朝鮮族は海を渡ってこの「倭」を征伐した。よって日本族の94%は我が同族(朝鮮族)である。

『日本人はビックリ! 韓国人の日本偽史』野平俊水 小学館文庫

くるみ「あー!私これ知ってる!あの有名なデムパ本よ。ほら、この地図は有名でしょ?」





よみ「へー、この地図ってここがネタ元だったんだ」

ちよ「はい。本の内容はこんな感じです」

 大朝鮮帝国史

ベッキー「最初のほうの地図は、この記述が元ネタだろうと作者は見ている」

桓檀古記 檀君世紀


芹沢「頭が痛くなってきたぜ。電波浴もほどほどにしたほうがよさそうだな」

「電波浴は一日一時間まで。モニターから離れて部屋を明るくしてやりましょう。橋本名人とのお約束です」

ちよ「次は韓国大学内の運動組織です。「全国大学生代表者協議会」というのは1987年8月1日、高麗大学で第一回全国大学生地域代表者連絡会議が開催され、結成が確認された団体です」

ベッキー「で、1993年に韓国大学総学生会連合、つまり韓総連に発展改組されたんだ。ようは反体制の学生運動だけを専門にしている組織だな」

よみ「あまりにも露骨な親北姿勢が嫌悪されるようになり、加盟していた各大学の学生会の脱退も相次ぎ、かなり落ち目だと聞きましたが」

ベッキー「けっきょくは386世代がつくり出した親北派組織だからな。不満層が脱退した分、残っているのは先鋭的な連中ばっかりだ。北のミサイル発射などに際しても活動しているぞ」

ちよ「386世代は盧武鉉の支持層でもありますしね。朝鮮日報で『韓総連』という語句の出てくる記事を検索してみました」

くるみ「ほんと北の擁護に必死よねぇ」

芹沢「なぁ、さっきから386世代って言葉が出ているけど、いったいどういう意味なんだ?」

ベッキー「すまん、基礎的用語だと思って説明するのを忘れていた。「386世代」というのは、1990年代に0代で、190年代に大学生で学生運動に参加し、190年代生まれの世代のことだ」

芹沢「なんじゃそりゃぁ!思いっきり無理やりなネーミングじゃねーか!」

ベッキー「パソコンのCPU名をひっかけたネーミングなんだが、作者も未だにソラで説明できないんだ。華秉と世実も386世代の尻尾に属するようなのだが、ぶっちゃけた話、作者はここの解説パートを書くまで気づいていなかったくらいだしな。
 思想的傾向としては、北に恐怖感を持たないどころか親近感と幻想を持ち、反米反日を好む。盧武鉉を支持する強固な基盤でもある」

くるみ「ようは、ウリミンジョクマンセーの救いがたいバカ、量産型ザコの塊ってことでおっけー?」

ベッキー「実も蓋もない言い方だが、外れているとは言えんな」

よみ「そんな彼らは、どうして北朝鮮を賛美するんですか?」

ベッキー「本文にあるように、上の世代に対する反抗のあらわれであり、韓国の現実を低く見るがために北に理想を投影した結果だ、というのは関川夏央の見方だ」

 学生たちは民族主義に精神を固く束縛されているかのようだ。それは、民族の血は、すべての世界観に、あるいは北朝鮮の現実評価に優先するという確信である。またどうしても学生が世論をリードしなくてはやまないという気配である。
 まず国内における世代反抗の象徴として北朝鮮をとらえる傾向が学生たちにはある。だから年長世代の北の体制に対する否認の度合いが強ければ強いほど北朝鮮株が相対的にあがるわけだが、このことは現実の北朝鮮評価とは関係がない。
 つぎに、北が「反外勢」を高く謳っていることへの共感と支持がある。「反外勢」は近代以降朝鮮民族の悲願の合言葉である。しかし学生たちは北朝鮮が一時期アフリカに武器援助、武器輸出し、同時に多数の軍事顧問団を派遣して、みずからが「外勢」の役割を果たしていたことや、中国から事実上の無償援助を受けていること、あるいは日本の「経済侵略」によらず、北朝鮮人民円そのものの信頼度の低さから日本円の流通が経済の底辺をささえていることなどは問わない。もとより知らない。

『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか』関川夏央 新潮文庫
引用した文章が書かれたのは1989年

ちよ「作者はそれに加えて、外見がきれいなら実勢に関わらず高く見るという、朝鮮民族の通弊である外見至上主義ということでもあったんじゃないか、と解釈しています」

くるみ「何の意識もなく横行する整形、外面がよければよしという手抜き工事、威勢のいい主題をぶちあげておいて結局中身はグデグデな学説、これらと同じものよね」

ちよ「大学の解放踊りや林秀卿の話は、やはり『退屈な迷宮』が元ネタです」

 六月三十日午後、彼女(作者註:林秀卿)は平壌・順安空港に降り立ち、北朝鮮側の「熱烈歓迎」を受けたあと、その場で声涙ともにくだる演説、というか感想を述べた。(注47)(後略)

(注47) 林秀卿嬢の「感想」
 彼女は、インテルフルック機から降りたったとたん、北朝鮮の学生青年代表にほとんど暴力的なまでの歓迎を受けた。泣きながらすがる彼らの行動は、日本語の「もみくちゃ」から連想する語感を十倍にしても余りある。(中略)高麗ホテルへ向かう間に彼女のベンツは歓迎のこぶしでぼこぼこになった。(後略)


 一九八九年五月から六月にかけて、学園祭シーズンのソウルの大学に「平壌風」が強く吹いた。それは「北朝鮮ブーム」と呼ぶにふさわしいものだった。
 壇国大では、平壌でつくられた祭典ポスターが持ちこまれ、堂々と貼り出された。延世大では自主製作された「平壌祭典記念絵葉書」が売られ、校門前では活動家考案の「解放踊り」のデモンストレーションが行なわれた。これはフォークダンスに似た素朴かつ奇妙なもので、男同士で踊るのである。西江大には「平壌酒場」という名の模擬店が出現し、平壌市内案内地図がベニア板に貼り出された。(中略)八九年六月十日、延世大図書館前で「北韓学生ソウル訪問妨害糾弾および平壌祝典参加決意大会」がひらかれた。「全大協」所属の学生二千人あまりが参加「祖国はひとつ」と叫んで右のこぶしをこぞって振りあげた。林嬢のソウル出発は、この十日後のことである。

『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか』関川夏央 新潮文庫
引用した文章が書かれたのは1989年

芹沢「男同士で踊る「解放踊り」って何なんだ…orz」

よみ「うちの木村が聞いたら泣いて拒絶するだろうな」

くるみ「ほんと、あんたバカぁ?!もしくは、バカばっか♪」

よみ「いや、その台詞は、キャラも中の人も違いまくってるから」

ベッキー「まぁ、今から見ればアホにしか見えんし、北朝鮮の正体を見抜くどころかまったく疑ってもいないというのはイタ過ぎるがな」

ちよ「で、この世代の運動家たちが最近また注目されています」

【386スパイ】民主労働党幹部2名逮捕、3名拘束
「忠誠誓い労働党入党、暗号で北朝鮮に機密提供」

 386世代(1990年代に30歳代で80年代に大学に通った60年代生まれの世代)の元活動家ら3人のスパイ容疑事件を捜査している国家情報院と検察は26日、米国市民権保持者であるチャン・ミンホ容疑者(44、米国名マイケル・チャン)が1989年から93年の間に北朝鮮でスパイ教育を受け、忠誠の誓いとともに朝鮮労働党に入党した後、10年間にわたり固定スパイとして活動した容疑を確認した。

 国家情報院はチャン容疑者に取り込まれた民主労働党前中央委員のイ・ジョンフン容疑者(42)と事業家のソン・ジョンモク容疑者(42)が最近まで国家機密を収集し、北朝鮮の工作員などに提供していた容疑についても捜査している。

2006年10月27日

くるみ「盧武鉉政権は北工作員の巣窟っていうのは、笑韓、楽韓などウォッチャーにとっては常識だったでしょうけど、普段は優しい日本のマスコミも報道するくらいだから、世間的にはけっこう衝撃だったみたいね」

ちよ「参考までに、「386スパイ」で朝鮮日報を検索すればおもしろいですよ」

ベッキー「ここを書いている時点(2006年11月3日)だけでも、おもしろいものがかなり出てくるな。進行中の事件なので検索結果はあげないでおく」

ちよ「赤色についての話は、もともとここを書いているときに『ソウルからヨボセヨ』で取りあげられていたので使いました」

【ソウルからヨボセヨ】 韓国人見物(06/17)

 韓国では以前、赤い色は共産主義、つまり北朝鮮を意味するということで嫌われていた。だから反政府学生デモでも昔は赤旗は決して登場しなかった。そこで日本の「紅白歌合戦」のような、二つに分かれてやる各種の対抗戦も、韓国では“青白戦”といっていた。

 韓国社会の“赤色拒否”に変化が起きたのは1980年代末のいわゆる民主化がきっかけだった。親北・左翼運動や労働運動が解禁になったことが大きい。その後、政治運動はもちろん各種イベントに赤い色の旗や鉢巻き、垂れ幕、プラカード、衣装など赤がたくさん登場するようになった。それが日韓共同開催の2002年W杯サッカーにつながり、韓国のサポーターたちが「赤い悪魔」といって赤いTシャツを着込んだことから、赤は国を挙げての“応援色”になった。赤が「非国民カラーから愛国カラー」に大変化してしまったのだ。

 ドイツW杯で韓国はまた盛り上がっている。韓国戦の日はソウル中心街は今回も街頭応援の赤い群衆で埋まっている。そこでソウル市庁前広場に面したプラザホテルなど、真っ赤な群衆応援風景を見物するのに絶好だといって客室セールスに余念がない。この時期、外国人にはが面白い。(黒田勝弘)

くるみ「『“韓国人見物”が面白い』か。達韓は言うことが違うわねぇ。まだまだその域にいけそうもないわ」

よみ「今回はかなり長くなりましたね」

ベッキー「作者が大好きなトンデモ本について、ついふれてしまったからな。まぁあの手の電波をちゃんと解説するサイトも少ないだろうし、いい機会だったんじゃないか」

芹沢「おい、まさかその手の解説コンテンツをつくろうかと言い出すんじゃないだろうな?」

ちよ「その構想が変形して『あずまんが嫌論文』をつくったきっかけの一つになったのですよ」

ベッキー「そういうことだ。今はまともな史書を読むほうに忙しいようだが。今回はここまで」


>>トップ

>>次回

<<前回