三田渡への道 1

Nowhere Man




 豊臣秀吉軍の「唐入り」と呼ばれる1592、3年の壬辰倭乱(文禄の役)、1597、8年の丁酉再乱(慶長の役)によって、朝鮮はいったん滅亡の渕に追い込まれ、その国土は極度に疲弊していたが、それ以上に宮廷内では大問題があった。宣祖の正妃である懿仁王后(朴氏)は病弱で男子がなく、王位継承者である世子が定められてなかったのである。
 宣祖には正妃のほかに仁嬪(金氏)、恭嬪(金氏)といった側室があり、仁嬪に信城君、恭嬪には臨海君・光海君といった男子がいた。
 このため、1591年には領議政(総理大臣に相当)李山海、左議政鄭遒蕕老穗世遼、光海君を世子に擁立することを決定した。
 だが、東人派に属する李山海は宣祖が信城君を寵愛していることを利用して、仁嬪を通じて鄭遒鳰訴した。それを受けた宣祖は、鄭遒叛梢庸匹鯆品したのである。このため、正式な世子決定はいまだ行なわれていなかった。

光海君
「ったく、何をやってんのよ、ウチのオヤジは。李栗谷先生が言っていたように国防を整備しなきゃいけないのに」

 李栗谷は、朝鮮きっての朱子学者であり、1583年には、朝鮮が国防を軽視している現状を憂えて常備兵の整備を説いた「十万養兵」を宣祖に奏上していた。だがそれは無視されていたのである(翌年死去)。
 また、李の存在は東人・西人派による党争を抑制していたため、彼の死後に一気に党争が激化した。がんらい、東人・西人派は、宣祖の王位擁立によって支配層となった士林派が、1575年、官職の任官権をもつポストをめぐって二つに分裂対立したのが発端であった。
 1591年、豊臣秀吉のもとに派遣した使者が帰国後に、正使の黄允吉(西人派)が「戦争が近い」、副使の金誠一(東人派)が「日本の侵略は先の話だ」とばらばらな報告を行い、政権派閥だった東人派が正使の報告を無視して防備を怠ったことはとくに有名である。
 政権を握った東人は、西人への対応をめぐって南人派(穏健派)・北人派(強硬派)に分裂した。
 文禄の役が起こると、宣祖は漢城を脱出、さらに国外に逃れようとして、世子に政治権力を付与して国内で抗戦継続させる「分朝」を行なおうとした。このため1592年4月29日、脱出準備のドタバタの中でようやく光海君が世子に正式決定された。

光海君
「オヤジは明に逃げこんで、私が抗戦しろっての?!」

 この時期、世子争いのライバルであった信城君は病死し、光海君擁立を妨げる障害はなかった。また、国家滅亡の危機にあって奔走する光海君に対して、臣下たちも次第に信頼を寄せるようになった。
 しかし、宗主国である明は、

明 朝廷
「ん?兄貴の臨海君がいるじゃない。どうして長幼の序を無視するかなー」

 と言って、光海君の世子決定を承認しなかった。

光海君
「宗主国ヅラして言いがかりつけてくるなんて!兄貴は凶暴で、人徳も人望もまったく無いのよ!」

 戦後、宣祖の後継者問題は、光海君の世子擁立によって順調に行くかと思われたが、1600年、懿仁王后が病死、後添えに迎えられた仁穆王后(金氏)が宣祖の寵愛を受け、男子(永昌大君)を産むと、宣祖はそちらに王位を継承させようと思い出した。

仁穆王后
「殿下、この子を世子にしていただけるんですか!」

 ここで、北人派は光海君を支持する大北派と、永昌大君を支持する小北派に分裂した。(その小北派も、清小北派と濁小北派に分裂するというグデグデもあった)


大北派

李爾瞻
「すでに光海君擁立は決定されているではないか!」
鄭仁弘
「殿下は何を迷われておるのか?」

小北派

柳永慶
「殿下の意向が最優先だ」


光海君
「……」

 両派はともに弾劾奏上合戦を繰り広げ、宮廷には粛清の嵐が吹き荒れた。
 しかし、病に倒れた宣祖は、無理な意向は通らないと弱気になり、ついに光海君に位を譲る教書を書いた。

柳永慶
「!今さら何ということだ!このような教書を公開するわけにはいかぬ」

 小北派の首領である柳永慶はその教書を隠して公布しなかった。鄭仁弘はたまたまその秘密を知ってしまう。

鄭仁弘
「不忠の臣め!しかし、下手に告発すればかえって逆襲を喰らうかもしれぬ。どうしたものか……よし!」

 鄭は逡巡した末、ついに柳の所業を暴露した。

柳永慶
「おのれ!鄭め」

 しかし、鄭の危惧どおり、柳は言葉巧みに宣祖を動かし鄭を流罪に処した。これにより小北派が優勢となったのだが、1608年2月1日宣祖は逝き、光海君が即位した。
 なお、実在の医者である許浚を描いた韓国ドラマ「許浚」の最終回では、許浚がこの告発をし、そのために流罪にされたというシナリオをつくっている。

光海君
「やっとわたしの時代ね」

李爾瞻
「そうです。我々の時代です。しかし、宮廷はまだまだ安定しておりません。柳永慶のような小北派の連中だけでなく、兄ぎみの臨海君たちのような不満分子もいます。どんどん粛清すべきです」

光海君
「うむ。兄貴はとくに凶暴な上に私の中傷を撒き散らしているし、普通に考えても危ない人間だしな」

柳永慶
「やれやれ、党争の結果とはいえ流罪か…何をする?!ぎゃー!」

 こうして柳永慶、臨海君は流罪となったが、柳のほうは配流先で処刑された。一方、放逐されていた大北の人々が次々と復権していった。とくに鄭仁弘は赦免されたばかりか、ソウル市長に相当する漢城府尹のポストを与えられた。

鄭仁弘
「ありがたいことです。しかし私は病身である上に先王の罪人です。謹んで辞退いたします。故郷の陜川で後学の教育に従事する所存です」

李爾瞻
「そうですか、仕方ありません(しかし、この人の名声と人望、影響力は大いに利用価値がありますしね)。宮廷に何かございましたらお知らせいたしますので、上疏を依頼いたします。よろしくお願いします」

小北の人
「こ、このままでは粛清されつくしてしまうカモ。そうだ!永昌大君を擁立するしかない。それと明を動かしてみよう」

 危機感を抱いた小北派と西人派は、明に要請して、王位継承について真相調査の使者を派遣する、ということを言わせた。

光海君
「ちっ、余計なことを。兄貴を消せ!」

 1609年、臨海君はついに誅殺された。
 さらに1612年、兵役を逃れるために官印を偽造した男を拷問にかけて、反逆事件を「自白」させ、小北派100余人を逮捕し、宣祖の孫晋陵君を殺した。「金直哉の獄事」である。
 その翌年には、有力両班の庶子7人による強盗団を逮捕した。これは、光海君に庶子の差別をなくすように上疏したが聞き入れられなかった彼ら7人が火病ってキレて、強盗を繰り返したという事件である。拷問のすえ、彼らは謀反の資金集めが目的だったと「自白」した。「七庶の獄」である。

李爾瞻
「永昌大君の除去がわれわれの狙いだ。なんとしてもこの謀反事件を永昌大君一派に結び付けなければならぬ」

 李爾瞻は、彼ら7人が「永昌大君を王に擁立し、母后の仁穆大妃が政務(垂廉の政)をとる」という謀反計画を企んでいたとし、大妃の父金悌男に毒薬を与えて自決させ、永昌大君を庶人に落とした上、江華島に配流した。そればかりか、彼の殺害をもはかった。

鄭仁弘
「お待ちください。永昌大君は8歳の幼児です。殿下のおっしゃるように謀反に関わっているはずはありません。どうか終生保護なさって、無実の者を殺さないでください」

光海君
「私もそう思う。殺すのはやりすぎだ」

 陜川の伽耶山のふもとに隠棲していた鄭仁弘は疏文を送ってこれを諌め、光海君自身も殺害には反対した。

李爾瞻
「何を甘いことを言っているんですか!永昌大君は災いのタネです!」

仁穆大妃
「!廃位するだけならともかく、なんということを!!」

 李爾瞻は反対を押し切って強行し、1614年、永昌大君は密室に幽閉されて蒸し殺された。さらに、翌年には宣祖の庶子定遠君の次男である綾昌君が流罪、処刑された。彼は綾陽君(のちの仁祖)の弟である。

綾昌君
「!弟よ」

 李爾瞻はこういった粛清を進める中で、名声のある鄭仁弘を最大限に利用した。田舎に隠棲している鄭に、たびたび中央の情勢を都合のよいように「編集」して知らせ、自分に都合のよい上疏をさせたのである。それどころか、勝手に鄭の上疏を代作し、鄭に事後報告するということまでやってのけたという。
 1618年、李爾瞻は仁穆大妃を廃位、西宮に幽閉し、例によって殺害をも目論んだ。

仁穆大妃
「王の母にあたる私を廃位、幽閉するというのですか!」

李爾瞻
「王妃に反対勢力が結集する可能性があるわ。廃位幽閉だけではぬるいわね。ちゃんと排除しておきましょう」

光海君
「それはならんぞ!殺すのはやりすぎだと言っておろうが!」

鄭仁弘
「私も反対です」

 ここでも光海君は反対し、81歳の長寿を祝する杖を下賜されるため上京していた鄭仁弘も強く反対した。義理とはいえ母に当たる大妃の殺害はさすがに抵抗が大きかったのである。

李爾瞻
「ちっ!」

 李爾瞻は反対する臣下たちを片っぱしから放逐したが、ついに殺害を断念した。弟の永昌大君を殺し、母にあたる仁穆大妃を廃位したこの事件を『廃母殺弟』という。

 このように、朝鮮内部はグデグデであったが、それ以上に外交関係は前途多難であった。
 徳川家康の政権掌握、樹立によって日本の侵攻の可能性はなかったが、北方の国境地帯では女真族と小競り合いが絶えなかった。光海君は即位以来、女真の情勢を気にかけ、国境の防備を固めて銃砲弾薬といった軍備を調えることに余念がなかった。

ヌルハチ
「女真を統一した我々は、国号を金とし、明から独立することを宣言するなりー!」

 1616年、ヌルハチが女真を統一、国号を「金」(通称「後金」)とし、1618年には公然と明に叛旗を翻した。
 これに対し、明朝はヌルハチ討伐のため、朝鮮に援軍の出兵を求め続けた。

光海君
「うちはまだ戦災が癒えてないし、だいたい、うちの兵は弱く天朝(明)の兵の助けにならん、と言って断っておきなさい。それにヌルハチの勢いは強大よ。今の天朝とうちの兵を合わせたところでたやすく勝てるとも思えないわ。軽々しく遠征なんかできるかっての」

張晩
「し、しかし、そういつまでも断りきれるものではありますまい。大臣たちも出兵すべきと言っております」

臣下
「小国が天朝につかえるには父子の義があり、中華に戦乱があれば諸侯が救援に駆けつけるのが春秋の大義です!また天朝には、倭乱で壊滅したわが国を再生してくれた恩もあります!」

李爾瞻
「そうです。朝に命令が届けばその夕方には軍を発するように直ちに兵を出すべきです。今、我が軍は兵糧も不足しておらず、精鋭が揃っています!」

楊鎬
「お前らはうちの皇恩に浴している身であろう。さっさと援兵を出せ!」

 明の遼東経略に就任した楊鎬の厳しい要請もきた。ついに光海君は出兵を嫌々ながら承知し、1618年7月4日、援兵の陣容を発表した。

光海君
「それじゃ発表するわねー。都元帥(総司令官)は姜弘立、副元帥は金景瑞、中軍節度使は李継先、部将は以下省略…兵は、砲手(鳥銃兵)3千5百、射手(弓兵)3千5百、殺手(歩兵)3千、計1万ね……あ、姜弘立は後で来てちょうだい。大事な話があるから」

姜弘立
「はっ!」

 支那の伝統に則って、総司令官の姜は文官、副将の金と李は武官である。なお、鳥銃は日本式の火縄銃であり、光海君がその整備に心を砕いていたものであった。
 この鳥銃は、壬辰倭乱のさい降伏した日本兵が持っていたものや、日本からの輸入品のほか、朝鮮で製造したものも雑じっていた。
 また、鳥銃には必要不可欠な焔硝(火薬)の原料については、日本と同じく硫黄は朝鮮国内で産出した。硝石は、これも日本と同じく床下の土から製造(『朝鮮王朝実録』では焔硝燔煮・煮取焔硝と表記されている)したものの、その大部分は明からの輸入に頼っていた。

姜弘立
「殿下、お話とはなんでしょう?」

光海君
「ぶっちゃけた話、無理に戦わなくていいわよ。勝てるかどうかわかんないし」

姜弘立
「はぁ?」

光海君
「天朝に義理立てして、こんなバカげた戦につきあう必要ないわ。形勢をよく見て、金が優勢ならさっさと降伏しちゃいなさい。傷口は広げないようにね」

 光海君がこのように密命したという話は広く知られているが、光海君を悪者にするために仁祖政権が作った話ではないかとして疑問視する見方もある。
 ともかく、総勢1万3千となった朝鮮軍は秋に進発し、明軍と合流した。

劉挺
「朝鮮軍は私の指揮下に入ってもらうぞ。喬遊撃将軍、そなたは朝鮮軍に同行せよ」

喬一
「はっ」

 1619年1月、明軍総司令官の楊鎬は、全軍を4つの軍団に分け、四路に分かれてヌルハチの本拠地である興京を包囲すべく進撃を開始した。いわゆる「分進合撃」である。
 北路は開原総兵官の馬林がヌルハチと敵対していた海西女直イェヘの援軍とともに、興京のやや西北にあたる開原から出発して北方から回り込み、西路は山海関総兵官の杜松が瀋陽から出発し、両軍は興京と撫順の中間にあるサルフで合流して興京に向かう計画であった。
 また、南路からは遼東総兵官の李如柏が遼陽から清河を越え、東南路からは遼陽総兵官の劉挺が朝鮮軍を帯同して丹東付近から北上して、それぞれ西南と東南から直接興京に迫った。総司令官の楊鎬は、予備兵力とともに後方の審陽で待機し全軍の総指揮をとった。
 2月11日、遼陽で出陣式が行なわれ、全軍はそれぞれ進発を開始した。

楊鎬
「老酋ヌルハチに告ぐ!我らが天兵の精鋭は47万、早々に膝を屈して和を請え!」

ヌルハチ
「47万だってー。ウソばっか♪ほんとは10万程度でしょ」

 楊鎬は手紙を送ってヌルハチを恫喝したが、その実情はすでに把握されていた。

ホンタイジ
「しかし父上、我らは総動員をかけても2万程度。この興京で包囲されてしまうとまずいだろう」

ヌルハチ
「うん。だからねー、明軍が集結する前に各個撃破してまわるんだよー。西のサルフ山とジャイフィヤン山に築城してここで時間を稼ごうかなって」

阿敏
「なるほど。では早速築城人夫1万5千と護衛軍4百をサルフに派遣して築城させます」

姜弘立
「分進合撃はいいのですが、諸将の連繋はうまくいくのでしょうか?雪のせいで進軍も滞りがちです。それに、西路の杜松どのは功をあせっておられますし、北路の馬林どのと潘宗顔どのは仲がよろしくないようです。
 我が軍も、劉挺どのが先に進みすぎではありませんか?」

喬一
「劉将軍は、かつて四川におられた頃、苗族の少数の精兵を率いて、剽悍な少数民族を撃破するのが得意でした。今回もできるだけ少ない兵数で身軽に動きたいと楊さまに願い出たのですが、却下されたのです」

姜弘立
「それで、私たちを後ろにおいて先に進んでおられるのですね……それにしてもお腹がすきました。ああ、ご飯が食べたい」

 姜と喬の東南路後軍は、雪と兵糧不足に悩まされその進撃は遅れていた。

 3月1日、サルフ近郊に着いた西路軍の杜松軍は、金軍がサルフ山とジャイフィヤン山に築城しているのを発見した。

杜松
「この機を見過ごしてはなりません。馬林将軍を待っていては手遅れです」

 功をあせった杜は、渾河を渡って急襲し、サルフ山を占拠、1万の兵を守備に置き、1万5千の兵を率いてさらにジャイフィヤン山に襲いかかった。敵襲を知ったヌルハチは、自ら兵を率いて向かった。

ヌルハチ
「今こそ各個撃破のチャンス!夜にまぎれて、まず手薄なサルフ山を襲うのだー」

 暗闇に乗じた奇襲を受けた明軍は壊滅し、それを知ったジャイフィヤン山の明軍は動揺した。

ヌルハチ
「よし。この勢いでジャイフィヤン山に突撃だー!」

杜松
「ば、ばかな。ぐわぁぁ!」

 杜松ら主だった武将は戦死し、明の西路軍は壊滅した。

 杜松の西路軍と合流するため北からサルフに向かっていた北路軍の馬林は、3月2日、サルフの北にあるシャンギャンハダの南方で杜松の戦死と西路軍壊滅の知らせに接した。

馬林
「なんと、杜松が戦死、西路軍が壊滅したとな!仕方ない。いったん後退して野戦陣地を構築して潘宗顔の後軍を待とう」

 北路前軍を率いていた馬は、シャンギャンハダに後退して塹壕を掘り、火砲を並べて後金軍の攻撃に備えた。

ヌルハチ
「塹壕陣地か。これは厄介だなー。まず高地を占領してそこから攻撃しろ」

馬林
「そうはさせるか!打って出ろ!……なぜ潘宗顔の軍は来ない?!外から包囲すれば一撃ではないか!」

 たちまち乱戦となったが、後軍を率いていた潘宗顔は、馬林と不仲だったせいもあって、自陣を固めて本隊を救援に向かわなかった。このため、馬林はついに潰走した。

ヌルハチ
「このまま潘軍にもなだれ込めー!女真名物『騎兵のなだれ攻撃』だー」

潘宗顔
「むう、あれがかの有名な。こっちは『とりかご』で対抗せよ!」

 勢いに勝る後金軍は、下馬した歩兵が明軍の戦車を排除したあとに騎兵がなだれ込み、潘宗顔をも敗走させた。この敗報を聞いて、明軍に加担して出兵していた海西女直のイェヘ軍は、合流をあきらめ早々に撤退した。

楊鎬
「なにぃ!西路・北路軍とも壊滅だと!これはいかん、李如柏の南路軍と劉挺の東南路軍を呼び戻せ!」

 敗報を聞いた楊鎬は、あわてて撤退を命じる急使をとばした。進撃が遅れていた南路軍にはその命令が届いて退却できたが、東南路軍は戦勝を重ねて敵地に深く入りすぎており、命令が届かなかった。

ヌルハチ
「南路軍は撤退したわ。残るは南東路の劉挺軍だけね。全軍再集結、急速包囲、一気に殲滅するのだー!」

 3月4日、興京の南、アブダリで劉挺率いる東南路の前軍はヌルハチの次男ダイシャンの軍と遭遇した。

劉挺
「あれが後金の主力だな。陣を固めて死守せよ!」

ホンタイジ
「おっと、後金軍は兄貴だけじゃないぞ。我もいることを忘れるな」

阿敏
「明軍は背後の我々に気づいていないぞ!一気に突っ込め」

 ホンタイジ、阿敏らは三方から包囲攻撃を開始した。

劉挺
「聞きしに勝る精悍さだな。もはやこれまでか……ぐふっ」

 激戦の末、劉挺は戦死した。彼の養子劉招孫は包囲され、武器を失ったあとも素手で後金兵数人を殺し、ようやく戦死した。

ホンタイジ
「よし、このまま後軍を蹂躙する。我に続け!」

 ホンタイジはさらに南下して、朝鮮軍前衛の守るフチャに突撃した。

金応河
「後金軍が接近してくるだと!劉将軍はどうなさったのだ?拒馬木を前面に展開し、鳥銃で迎撃するぞ」

 金応河率いる5千の朝鮮軍前衛は、急いで拒馬木を陣の前面に敷設して防備を固め、鳥銃の一斉射撃を行なった。
 なお、拒馬木は、支那では拒馬槍の名前で知られる、野戦陣地に敷設される防御柵である。

拒馬槍

「武器と防具 中国編」 篠田耕一 新紀元社より引用

ホンタイジ
「臆するな!女真騎兵に「にのうち」いらず。天も我に味方せり、突撃せよ!」

 最初の一斉射撃直後に突如大風がふいたことで砲煙があたりに立ち込め、朝鮮兵の視界がさえぎられた。そのうえ、後金騎兵のスピードは第二弾の装填、射撃を許さないものであった。
 また、馬防柵・空堀を何重にもめぐらした城郭陣地を建設していた長篠の戦いとは違い、あわてて展開した拒馬木だけでは、その突撃をとめることはできなかった。ついでにいうと、武田軍と違い、後金軍は純然たる騎兵集団であったことも左右したであろう。
 後軍たる朝鮮軍前衛と喬一の率いる明軍は一撃で壊滅し、金応河は戦死、喬は退却した。

喬一
「無念!撤退して姜将軍の本隊に合流します」

 夜になって、ホンタイジ軍は、朝鮮軍本隊5千と敗残した明軍を包囲したが、あえて攻撃を加えようとしなかった。

姜弘立
「やはりこうなりましたか……仕方ありませんね。降伏しましょう」

喬一
「!朝鮮軍は降伏するのですか?!」

 3月5日、姜弘立は軍に帯同していた通訳の河世国を派遣して降伏を打診し、さらに副元帥の金景瑞を派遣して交渉した結果、降伏が成立した。朝鮮軍の降伏を知った喬は崖の上から投身自殺をとげた。42人の兵士が従ったという。
 こうしてサルフの戦いは後金軍の完勝で幕を下ろした。総司令官楊鎬は敗戦の責任を問われ、獄につながれた(1628年に処刑)。

サルフの戦い イメージ地図


 なお、降伏した朝鮮軍のうち兵士たちと鄭応井(『清史稿』では張応京)ら10数人の武将は朝鮮に帰されたが、姜弘立、金景瑞ら高級幹部は軍中に留め置かれ、厚遇を受けた。

 平安道の観察使から、サルフの戦いの詳報が宮廷に報告されたのは3月12日のことであった。また、4月2日には、ヌルハチからの書状と姜弘立の密書を持参した鄭応井が帰国してきた。敗報と降伏を聞いた宮中は色めきたった。

臣下
「賊に降るとは天下の極悪、逆賊です!かの者の官職を削り、家族を逮捕すべきです」

臣下
「逃げ帰ってきた鄭応井も逮捕すべきだ!」

光海君
「あなたたち、後金の勢いをどう考えてるの?わが国の兵力で防げると思ってるの?明の出兵要請のとき、私が心配したのは派兵自体ではなく、わが国の人心に確固たる信念がなく、兵も訓練されていないから、援軍を送っても何の役にも立たないってことなのよ!(予所憂慮者、非欲防徴兵之送、必先陳我国人心本来不固、軍兵素未教錬、一朝駆入無補於助戦之用、急急敷奏於経略未出来之前。)
 それに、もし天朝の兵が強くて国境を固く守って『虎豹山に在り』って感じの勢いなら、後金がいかに強盛でも私を恐れないでしょうけどね。(天朝若陳兵耀武、厳守華夏之境、有如虎豹在山之勢、賊雖猖獗、必不敢侮予矣。)
 だけど現況はどう?そうじゃないでしょ。これを知らないで軽々しく深入りすれば、負けること間違いなし。(不此之思、軽進深入、則必敗無疑。)
 わたしがこれを懼れて発狂するくらいまでいつも悩んでいることは、みんな知ってるでしょ!(予為是懼、日夜憂憫、心恙尤劇、若発狂疾之状、左右之人、孰不知之?)
 姜弘立はね、不幸にも捕虜になったけど、わざわざ状況報告の密書を送ってきているのよ。これをどう思うの?(弘立等、不幸陷於賊中、凡所見聞、密書以啓、有何不可?苟如本司之啓、則雖陷虜中、不為書送其聞見可乎?)
 ほんと、まともなヤツは排斥され尽くして、こんなバカガキどもしかいないんじゃ、国家を誤っても不思議じゃないわよ!(嗟嗟!廟堂訏 謨老成之才、則斥逐殆尽、使不得預聞、年少生踈之人、多入於備局、謀国不臧、無足怪也。)」光海君日記 光海君11年(1919年)4月8日条

臣下
「天朝の将軍が戦って討ち死にしたにもかかわらず、おめおめと命乞いし、しかも奴酋(ヌルハチを指す)に厚遇を受けるとは!彼らの家族を捕縛し罰して、軍律の厳しさを示すべきです」

光海君
あん?何を偉そうな理屈をぬかしてやがる?んなもん何の役にも立たねぇんだよ。そんなことをグダグダ言ってる暇はねーっつうの。ガキどものちゃらちゃらした議論ゴッコはいい加減にしろ!(原文:高論談鋒、無益於国事。姜弘立等論罪、豈無其時?年少浮薄之論、姑停可矣。)」光海君日記 光海君11年(1919年)4月8日条

 光海君は、平壌で投獄されていた姜の家族を解放させ、上京させて保護した。

張晩
「殿下、ヌルハチからの書状はどのようなものですか?」

光海君
「こんな感じよ」

ヌルハチ
「昔、君の国が日本に攻められて難儀したときさぁ、明は兵を出して救援したから、君の国が兵を出して明を助けるというのは、まぁ仕方ないことだしぃ、わたしもそう怒るとこでもないわ。
 今、君のところの将軍らを捕虜にしたけど、そういう理由もあることだし、お国に返してあげるよ。でさ、ウチか明のどっちにつくか、よくよく考えてみたらどうかなぁ☆(昔爾国遭倭難、明以兵救爾、故爾国亦以兵助明、勢不得已、非与我有怨也.今所擒将吏、以王之故、悉釈還国。去就之機、王其審所択焉。)」清史稿 列伝 属国一 朝鮮

張晩
「これを見る限り、こちらに急に攻めてくるということはなさそうですね」

光海君
「そうね。わたしがずっと言っているように、明との関係、外交戦略を考え直すいい機会だわ。災いを転じて福となすのよ。姜弘立をパイプに使えるしね」

張晩
「ということは、天朝を見放すのですか?」

光海君
「内政が腐敗して、国力も衰える一方の明にお付き合いしてこっちまで亡国なんてバカなまねはしたくないしね。国家を保つためには、春秋の大義がどうとかいう高論より、現実に徹するリアリズムが必要なのよ」

 光海君は、ヌルハチからの書状の返信について、格式がどうとかグダグダと論議を続けている大臣たちを再三にわたって叱咤し、回答案の作成を急がせた。

光海君
「ようやく完成ね。国を保つには、まず後金と交誼を持って外患を避けなきゃ。さっさと送りなさい!」

ヌルハチに送った返書の原文
 洪惟両国、境土相接、共惟帝臣、同事天朝者、二百年于茲、未嘗有一毫嫌怨之意矣。不図近者、貴国与天朝搆釁、兵連禍結、以致生民塗炭、四郊多塁、豈但隣国之不幸?其在貴国、亦非好事也。天朝之於我国、猶父之於子也、父之有命、子敢不従乎?大義所在、固不得不然、而隣好之情、亦豈無之?鄭応井為先出送、致款之義、亦可見於此也。 来書有曰『以我心初来、若犯大国皇帝之意、青天豈不監察?此心足以保有世業、而永享天休者。豈不美哉?』自今以後、偕之大道、則天朝寵綏之典、不日誕降。両国各守封疆、相修旧好、実是両国之福、此意転告幸甚。

光海君日記 光海君11年(1619年)4月21日条

 この文書を送ったことで、朝鮮は親明政策ではなく、後金とも交誼を持つ中立的な方向へと転換した。

 光海君は、親明政策を変更し、一大勢力に成長したヌルハチとの後金との戦いを回避しようとした。その後金は、1621年には山海関以北の大都市である瀋陽・遼陽を相次いで陥落させ、1622年には瀋陽に遷都した。
 この年、一人の明人が山海関の北辺をまわっていた。

女真人
「お前、明人やないか。このへんはうちら後金のなわばりやで。何の用や?」

明人
「は、はい、商人でございます。後金との交易は儲かると聞きまして、このあたりの物産や市場状況を見てまわっているのです」

女真人
「おいおい、外国との交易は明の国禁やろ。ま、うちらは朝鮮人参と貂の毛皮を売りさばかなあかんから、交易は大歓迎なんやけどね。気ぃつけて商売がんばったってな。ほな」

明人
「はい。ぼちぼちやらせてもらいます。それでは失礼します……ふぅ、なんとかごまかせたわね」

 この男の名前は袁崇煥といい、先ほど広東の地方官から兵部職方主事に任じられたばかりであり、後金の状況を探るために変装して一人で山海関の北を偵察していたのである。

袁崇煥
「やはり、山海関の外に強力な防御施設をつくる必要があるわね。この寧遠は戦略的要地だわ。ここに城を築きましょう」

 帰還した袁は、遼東守備の任務につくことを志願して容れられ、さっそく赴任して寧遠に城を築き守将となった。

袁崇煥
教会中華皇朝にあだなす異端者蛮族の攻勢は、この私が退けます!」

 光海君は、降伏したまま後金に留め置かれている姜弘立とも頻繁に連絡を取り、後金との交誼を保ちつつも、北の要衝である義州・黄州の防備を固めるなど、国防には余念がなかった。
 しかし、臣下たちの多くは光海君の労苦を理解しなかった。

光海君
「後金の勢いは日に日に盛んなのに、わが国の兵力人心は、何も備えるところがなく、高尚ぶった大言壮語をしてるけど、後金の圧倒的な攻勢を防ぐことができるの?女真鉄騎兵の馬蹄が蹂躙するとき、その談論で攻撃できるの?筆で突き刺すことができるの?(賊勢日熾、而我国兵力人心、無一可恃、高談大言、能遏滔天之兇鋒乎?鉄騎蹂躪之日、其可以談鋒撃之乎、筆翰衝之乎?)
 あなたたち、後金に送る国書の格式がどうとか言っているけど、そんなことグデグデ言っている場合じゃないでしょ。これは、国家の存亡にかかる大事なのよ!(此係宗社存亡)」光海君日記 光海君13年(1921年)6月1日条

光海君
「今わが国の人心を見ると、国内はグデグデ、外交は偉そうな口先だけじゃない!あなたたちは『武将たちはみんな出征決戦の決意をしている』っていうけど、それが本当なら、どうしてかんじんの兵士たちは、出征することを死地に赴くかのように懼れているんでしょうね!(而近観我国人心、内不弁事、外務大言、試以廷臣收議見之、武将所献、皆是臨江決戦之意、甚為可尚矣。然則今之武士、何以畏西辺如死域乎?)
 わが国人の大言壮語のせいで、最後には国を誤ることになるわ!(我国人終必以大言、誤国事矣)」光海君日記 光海君13年(1921年)6月6日条

 だが、李爾瞻ら政権を握っている大北派による度の過ぎた粛清と、名分論を無視した現実的な外交政策は、生き残った小北・西人派らの反感をかっていた。彼らは、ついにクーデターを決意する。

李貴
「道を外れた王を廃立して、宣祖の庶子定遠君の長子である綾陽君を擁立しよう」

金自点
「そうですね。あの方しかおりません」

綾陽君
「わたしを擁立するのか。承知した。国家を正しき姿に戻さねばならん!」

崔鳴吉
「金瑬 [流の下に玉]どの、あなたを実行部隊の義挙大将にいたします」

金瑬 [流の下に玉]
「わ、わたしがですか?!しかし…了解しました」

 1623年3月12日、光海君の甥である綾陽君を擁立するクーデターが勃発した。

金瑬 [流の下に玉]
「よし、宮廷を制圧して、西宮に幽閉されている大妃を手中に収めろ!」

李适
「クーデター、いやこの義挙のお墨付きをもらうのだ」

光海君
「な、何事よ!まさか謀反?!」

李爾瞻
「な、なんということだ!逃げるぞ……げえぇっ、追っ手が!ぐわっ!」

鄭仁弘
「?いったい何事ですか?……そうですか、殿下は王位を追われたのですか」

 光海君はあっけなく捕らえられ、李爾瞻もいったんは脱出して地方に逃れたものの、官軍に捕らえられ斬られた。このほか、政権を握っていた大北派の人士も多く捕らえられ斬られた。
 故郷の陜川にいた鄭仁弘も捕らえられ、3年後に処刑された。李爾瞻が鄭の名声徳望を利用して政治を動かす一助としていたため、鄭が大北派の有力者であり『廃母殺弟』の首謀者であると目されたのである。
 だが実際には、前にもふれたとおり鄭は『廃母殺弟』に反対していた。なお、李朝末期の1864年、鄭の無実を訴え出た子孫はあやうく重刑に処されそうになった。李朝終焉の直前(1907年)になってようやく彼の罪名は除かれて復爵され、名誉回復がなされた。

綾陽君
「諸君、よくやってくれた!国家を正しい姿に戻す『反正』の義挙は成功したぞ!」

 綾陽君は直ちに李氏朝鮮の第16代国王に即位した。これ以降諡号である仁祖と呼ぶことにする。
 漢語では『撥乱反正(乱をおさめて、正しきにかえす)』という言葉があり、このたびのクーデターも、国家を正しいものに戻した義挙であるとされ、後世、国王に即位した綾陽君の諡号をとって『仁祖反正』と呼ばれた。なお、日本の『反正天皇』という諡号も本来はここの漢語に由来する。

光海君
「あーあ、廃位されてしまったわね。でもさ、実は、李氏朝鮮においてクーデターで王位を追われたのは、私だけじゃないのよね。第6代国王の『端宗』と第10代国王の『燕山君』もクーデターによって放逐されてるのよ」

 しかし、幼君であるがゆえに、王権の弱体化を危惧した伯父(第7代国王世祖)によって14歳で王位を追われ、自殺を強いられた端宗(魯山君)は、200年後に名誉を回復され、『端宗』という諡号を与えられた。
 その一方、『燕山君』は粗暴で学問学者を毛嫌いし、朝鮮全土に使者を派遣して美女を求め、円覚寺を妓生キーセンの養成所にし、最高教育機関である成均館を宴会場にしたあげく、己を批判する文書が訓民正音(ハングル)で書かれていたことに激怒し、訓民正音を書ける者を捕縛し、訓民正音で書かれた書物を焚書したという、まさに「暴君」の名にあたいすべき人物であった。

光海君
「結局、『燕山君』と私『光海君』は廃位された不徳の暴君として名を留めているのよね。
 だから、王としての諡号は与えられず、王族時代の『君』のままなのよ。朝鮮の正当な王としては『いなかったこと』同然だわ。それに『朝鮮王朝実録』においても、王の記録は『実録』、その発言は『謂曰』と表記されているのに、燕山君と私の記録は『日記』、発言は『伝曰』と区別して表記されているのよ。まったく、こんなところまで細かく区別するんだから」

 このあたり、明治になるまで諡号のなかった『弘文天皇(大友皇子)』『淳仁天皇(廃帝はいたい、淡路廃帝、前廃帝)』『仲恭天皇(九条廃帝、後廃帝、半帝)』の事情と比べてみると興味深いかもしれない。

 光海君は江華島に配流され、のち済州島に遷され、1641年に死去した。

 3月14日、幽閉から解放された仁穆大妃は教書をくだした。

仁穆大妃
「光海君は道理に背き、わたしの父母・一族、我が子を殺し、私を幽閉し、人の道に戻ろうとしませんでした。(而光海聴信讒賊, 自生猜隙, 刑戮我父母, 魚肉我宗族, 懐中孺子, 奪而殺之, 幽廃困辱, 無復人理。)
 わが国は天朝に仕えること200年間、義は君臣、恩は父子のごとく、さらに壬辰倭乱のさいには、いったんは滅亡したわが国を再生してくれた恩恵があり、それは万世にわたって忘れるべきものではないのです。宣祖は40年にわたって誠を尽くして天朝に仕え、背いたことはありません。(我国服事天朝、二百余載、義即君臣、恩猶父子、壬辰再造之恵、万世不可忘也。先王臨御四十年、至誠事大、平生未嘗背西而坐。)
 光海君は恩を忘れ徳に背き、天朝に対して二心を抱いて蛮族に通じました。サルフの戦いでは、姜弘立に密かに命令して日和見させ投降させたことで天下に醜名を流しました。(光海忘恩背徳、罔畏天命、陰懐二心、輪款奴夷、己未征虜之役、密教帥臣、観変向背、卒致全師投虜、流醜四海。)」仁祖実録 仁祖元年3月14日条

綾陽君改め仁祖
「うむ。天朝父母の恩に背くことは、東方のわが国の礼儀を滅ぼし、三綱(臣下の王に対する忠・子の親に対する孝・妻の夫に対する烈)を廃することだ。どうして耐えられようものか!」

 クーデターを起こした側は、前政権の政策を間違ったものであると断じることで、己のクーデターの正しさの担保とするのが常道であった。この場合も、光海君の後金への親和政策を非難、否定し、明へ「忠義」を尽くすことを正当とすることを以って「反正」の大義名分とした。

 だが、光海君政権をクーデターで倒した仁祖政権に対して、意外なところで異議申し立てが起こった。

李适
「このたびの義挙に対して、どうしてこの程度の論功行賞なのですか!」

韓潤
「そうだ!納得できないぞ!」

 1924年1月、『仁祖反正』の論功行賞に不満を持った李适 や韓明院Υ攴畤道劼蕕平安道で反乱を起こしたのである。

金瑬 [流の下に玉]
「何という勢いだ。反乱軍の鋭鋒を避けていったん後退せよ!殿下、漢城から脱出してください」

仁祖
「わ、わかった」

 仁祖は反乱軍の攻勢を避けて漢城を脱出した。漢城は反乱軍の手に落ちた。

張晩
「落ち着け!漢城を占拠したことで反乱軍は安心しておる!防備を固めて展開を注視するのだ。必ず勝機はおとずれるぞ!」

 都元帥(総司令官)の張晩の言ったとおり、勝機はすぐにおとずれた。反乱軍はいったん漢城を占領したものの、張晩の指揮する政府軍は態勢をととのえて、隙を突いて攻勢をかけ、短期間のうちに反乱軍を討伐したのである。

李适
「む、無念!うにゃぁっ!」

 李适 は斬られ、2月15日、韓明韻惑朮爾砲茲辰道Δ気譟△修亮鵑賄蟾澆亮蠹攣困砲覆辰拭また、宣祖の第10子興安君は謀反に加担したとされ処刑された。

韓潤
「ち、父上!こうなれば他国に亡命するしかないわね。いつかかたきを討つわ!」

 韓明韻琉貘欧盻莊困気譴燭、辛うじて逃走した韓潤と従兄弟たちは行方をくらました。


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