斜め上の雲 1

ウェーハッハ




 まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。
 その半島のなかの一つの道が京畿道であり、京畿道は、ソウル、水原、坡州などにわかれている。坡州の首邑は金村。
 金村の市街には鉄道の駅があり、線路はソウルからきて、その線路は北にのび、さらに満州鉄道にまでつながっている。古来、この町はソウル北方の要衝とされたが、あたりの風景がさびしいために、そのように厳くはみえない。
 この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな韓国ということになるかもしれないが、ともかくもわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。そのうちのひとりは、ネチズンになった。すりかえ、罵倒といった韓国のふるい論争術に新風を入れてその中興の祖になった韓世実(ハン・セシル)である。世実は二〇〇二年、この故郷の町に帰り、

 ウェーハッハ世界に誇るウリナラかな

 と誇らしげにわらった。多少電波が弱いところが難かもしれないが、世実は、さきにでた呉善花のようには、その故郷に対し複眼的な視線をもたず、ウリナラの優越性やのびやかさをのびやかなままに信じこんでいる点、京畿道と離島の済州島との風土の違いといえるかもしれない。
(ウォン)さん」
 といわれた金錫元(キム・ソクウォン)は、この町の役人の子にうまれた。日帝時代、役人は日本人が多かったが独占とは言えない。金家は代々常民だったが役人になれた。元さんは昭和十年うまれの七ヵ月児だが、成人して大男になったところをみれば、早生児というのはその後の成長にはさしつかえのないものかもしれない。

 元さんが十歳になった年の夏、国も金家もひっくりかえってしまうという事態がおこった。
 日本の敗戦である。
「匪賊が町にくる」
 ということで、役人も町民もおびえきった。この町では、子弟を日本に留学させていたものも多くもあり、朝鮮のなかでは日本にたいして格別な知識をもっていた。自発的に日本軍に志願して、支那や南方で戦ったものも多い。要するにこの時勢での区分けでは、民族の敵であった。
 おなじ朝鮮人でも、朝鮮独立のために戦ったという光復軍は、単に匪賊であったにもかかわらず戦勝者であると自称した。光復軍は、坡州を占領すべく南下したが、その人数はわずか三十人たらずであった。
「日帝にくみした罪を悔いよ。十五万円の賠償金をわれわれにさしだせ」
 と、光復軍の若い隊長が威丈高に命じ、このため町はさわぎになり、結局はそれに屈することになった。光復軍はわがもの顔に闊歩し、ものを買っても代金を払わないなど乱暴狼藉をするという事態になった。市街の役所などには、
「光復軍ご宿舎」
 というはり紙が出された。元さんは十歳の子供ながら、この光景が終生忘れられぬものになった。
「あれを思うと、こんにちでも腹が立つ」
 と、かれは後年、日本から故郷に出した手紙のなかで洩らしている。

 年表ふうにいえば、一九四五年、日本の敗戦後、米ソがそれぞれ南北朝鮮に進駐し、朝鮮半島の国連信託統治案にたいする賛否や政治思想について諸勢力の抗争が激化、一九四八年には大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立した。
 南鮮に成立した大韓民国は、李承晩大統領の失政によって農家が困窮した。金村も例外ではなかった。金家などはとりわけ悲惨であった。
 元さんは年少ながらはたらかざるを得なかった。家の農作業だけではなく他家の農作業もてつだい、山に入っては鹿や兎を獲って町で売った。
 
 金家の当主金信五ほど逸話のすくない人物もめずらしいであろう。
「あんなまじめな男もない」
 というのが若いころの評判であった。早くから釜山の税関でつとめ、篤実に勤務し、そのうち光復がきた。さっさと職を辞し、
「ウリになにができるものか」
 と、なにもしなかった。そのほうがよかったかもしれなかった。あわてて新政権に乗りかえようとした者はほとんどが政争に巻きこまれて失敗し、命を落とす者さえ出てきた。
 信五は、そういうなかで多少めぐまれていたのは、日帝時代のまじめな勤務ぶりを買われ、金村の戸籍係の小役人として採用されたことである。ただし薄給で、この子沢山の金家の家計をその給料だけでまかなうということはできない。
「食うだけは、食わせる。それ以外のことは自分でなんとかしろ」
 というのが、信五の子供たちへの口ぐせであった。
 元さんが他家の農作業をてつだい、山で鹿や兎を追って金銭をかせいだのは、いわば信五の教育方針であった。元さんはこのかせぎで書物を買ったが、しかしこの程度のかせぎでは学校へはゆけなかった。
「学校へやってください」
 と、元さんは一度この父に頼んだことがある。信五は、小声でいった。
「うちに、銭がないよ」

 この父は、ちょっとした名言を吐いた。古今の英雄豪傑はみな貧窮のなかからうまれたが、ウリに働きがないのはいわば子のためにやっているのだ、といった。
 学資もないくせに、
「元よ、貧乏がいやなら、勉強をしろ」
 という。これが、この時代の流行の精神であった。政権は独立運動家どもにとられたが、しかしその政府には実務家がおらず、学問があり実務さえできれば日本統治下で栄達していた人物であっても国家が雇傭せざるをえない。統治者はかわったが、日本時代とおなじく就職の道は学問であるという。
 それが食えるための道であり、光復で職をうしなったひとびとにとって、それ以外に自分を泥沼から救いだす方法がない。
(わたしも、学問をしたい)
 と元さんはおもいつづけた。であればこそ他家の田畑で鍬をふるい、野山をかけて鹿や兎を追ったりしている。
(ウリナラに、ただの学校というものがないものだろうか)
 と、あるはずもない夢のようなことも考えていた。

 この時期、韓国は国内統治に腐心している。その象徴が、南朝鮮労働党の関与する蜂起の群発であったであろう。
 南朝鮮労働党は、一九四六年十一月に左翼諸派が合同して結成された共産主義政党である。とくに軍内部にオルグ工作をおこない多くの同調者をうんだ。
 一九四八年四月には済州島で南労党の指揮する蜂起があり、十月には、麗水、順天で赤色分子の煽動によって軍隊の反乱が起こった。
 かれらは討伐を受けて智異山に逃げこんだのち太白・小白山中に展開した。朝鮮戦争中には北朝鮮軍敗残兵と合流し、最終的に鎮圧されたのは一九五六年であった。

 これに対し、李承晩は徹底的な弾圧をおこない、多くの軍幹部が南労党関係者として摘発、処分された。当時少佐だった朴正煕も除隊処分となった。
 その軍はといえば、政府の財政難によって給与水準は低く、軍服以外の日用品調達と募兵を連隊ごとにまかせざるをえなかった。
 ただ、兵器については一九四八年の夏ごろからアメリカ軍の制式装備が入りはじめていた。しかし、戦車はなく火砲は一〇五ミリ榴弾砲が最大であり、空軍にいたっては練習機と連絡機しかなくとても戦力とはいえないものであった。

 李承晩は内政で失政を重ねた。インフレが進行し失業者がふえたにもかかわらず、対馬返還の要求を示唆するなど好き勝手にふるまった。
 一九四九年六月、米軍は韓国から撤退し、翌年一月には、台湾・韓国を西太平洋防衛ラインから除外するというアチソン国務長官の声明がおこなわれた。
「アメリカは韓国を見捨てようとしているのか」
 官民のたれもがそう不安におもった。
 たしかに、これらの動きを見ると、アメリカが李に愛想をつかしたということがいえるかもしれない。アメリカにしてみれば、一九四八年にソ連軍も北朝鮮から撤退しており、近いうちに朝鮮半島で戦争がおこらないとよんだこともあったであろう。
 ただ、アメリカはアチソン声明の二週間後に、韓国と米韓軍事援助相互協定を調印し、見捨てたわけではないともとれる姿勢をみせてもいた。

 いっぽう、北朝鮮では、ソ連が送りこんだ指導者金日成のもとで企業国有化や農地改革といった政策がとられ、経済の発展がすすんでいる。
 共産主義特有の中央統制による経済政策が功を奏したこともあるであろうが、北鮮は日本時代、ダムや発電所などのインフラが集中的に建設され、工業も発展していたため、光復後、それらの施設や企業を接収、国有化できたことも大きな原因であろう。
 さらにいえば、実情を自由に報道される韓国とはちがい、徹底した情報統制をひくことのことができる北朝鮮のほうが宣伝戦においてぶがよかったということもいえるであろう。

  

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くるみ「ついに始めてしまった『斜め上の雲』。韓国の軌跡と苦難を描く物語です

ベッキー「いいのか。タイトルからしてもろ司馬遼のパクリだぞ……っていうか文章も拝借しているじゃないか」

くるみ「いいのいいの。清水義範さんだって『商道をゆく』『猿蟹の賦』とかでやってたじゃない。パスティーシュってやつよ」

ベッキー「オーソドックスは知性の墓場というらしいが、この場合はさしずめ知性の姥捨て山だな」

ゆかりちゃん「へーっくしょん!」

ベッキー「で、記念すべき第1話のネタ元は『坂の上の雲』1巻冒頭「春や昔」か」

じじぃ「坡州・金村を舞台に選んだのは、作者の義弟の故郷なので情報があって書きやすいというだけの理由だそうじゃ。以下原文じゃ」


 まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。
 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。
 城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間(このま)がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓も、そのように厳くはみえない。
 この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくもわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。そのうちのひとりは、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規である。子規は明治二十八年、この故郷の町に帰り、

  春や昔十五万石の城下かな

 という句をつくった。多少あでやかすぎるところが難かもしれないが、子規は、あとからつづいた石川啄木のようには、その故郷に対し複雑な屈折をもたず、伊予松山の人情や風景ののびやかさをのびやかなままにうたいあげている点、東北と南海道の伊予との風土の違いといえるかもしれない。
(しん)さん」
 といわれた秋山信三郎好古は、この町のお徒士(かち)の子にうまれた。お徒士は足軽より一階級上だが、上士とは言えない。秋山家は代々十石そこそこを家禄として殿様から頂戴している。信さんは安政六年うまれの七ヵ月児だが、成人して大男になったところをみれば、早生児というのはその後の成長にはさしつかえのないものかもしれない。
 信さんが十歳になった年の春、藩も秋山家もひっくりかえってしまうという事態がおこった。
 明治維新である。
「土佐の兵隊が町にくる」
 ということで、藩も藩士もおびえきった。この藩の殿様は、久松家である。徳川家康の異父弟がその家祖になっており、三百諸侯のなかでは格別な待遇をうけた。幕末、長州征伐では幕府の命をうけて海を渡り、長州領内で戦った。要するにこの時勢での区分けでは、佐幕藩であった。
 おなじ四国でも、土佐は官軍である。土佐藩は、松山藩を占領すべく北上したが、その人数はわずか二百人たらずであった。
「朝廷に降伏せよ。十五万両の償金(つぐないきん)を朝廷にさしだせ」
 と、土佐人の若い隊長が要求し、このため藩はさわぎになり、結局はそれに従うことになった。城も市街も領土も、一時は土佐藩が保護領としてあずかるかたちになった。城下の役所、寺などには、
「土州下陣」
 というはり紙が出された。信さんは十歳の子供ながら、この光景が終生忘れられぬものになった。
「あれを思うと、こんにちでも腹が立つ」
 と、かれは後年、フランスから故郷に出した手紙のなかで洩らしている。

(中略)

 秋山家の当主平五郎久敬ほど逸話のすくない人物もめずらしいであろう。
「あんなまじめな男もない」
 というのが若いころの評判であった。早くから徒士目付という職をつとめ、篤実に勤務し、そのうち維新の瓦解がきた。士族の家禄が召しあげられ、その奉還金というのがわずか千円足らずさがった。その千円で他の士族は商売をしたりしたが、
「あしになにができるものか」
 と、なにもしなかった。そのほうがよかったかもしれなかった。商売に手を出した者はほとんどが失敗し、路頭に迷う者さえ出てきた。
 平五郎久敬は、そういうなかで多少めぐまれていたのは、旧藩時代のまじめな勤務ぶりを買われ、県の学務課の小役人として採用されたことである。ただし薄給で、この子沢山の秋山家の家計をその給料だけでまかなうということはできない。
「食うだけは、食わせる。それ以外のことは自分でなんとかおし」
 というのが、平五郎久敬の子供たちへの口ぐせであった。
 信さんが風呂焚きをして毎日天保銭一枚をもって帰るようになったのは、いわば平五郎久敬の教育方針であった。信さんはこの天保銭で書物を買ったが、しかし風呂焚きの賃銭くらいでは学校へはゆけなかった。
「学校へやっておくれ」
 と、信さんは一度この父に頼んだことがある。平五郎久敬は、小声でいった。
あし(ヽヽ)に、銭がないよ」
 この父は、ちょっとした名言を吐いた。古今の英雄豪傑はみな貧窮のなかからうまれたが、あし(ヽヽ)に働きがないのはいわば子のためにやっているのだ、といった。
 学資もないくせに、
「信や、貧乏がいやなら、勉強をおし」
 という。これが、この時代の流行の精神であった。天下は薩長にとられたが、しかしその藩閥政府は満天下の青少年にむかって勉強をすすめ、学問さえできれば国家が雇傭するというのである。全国の武士という武士はいっせいに浪人になったが、あらたな仕官の道は学問であるという。
 それが食えるための道であり、とくに戊辰で賊側にまわった藩の旧藩士にとって、それ以外に自分を泥沼から救いだす方法がない。
あし(ヽヽ)も、学問をしたい)
 と信さんはおもいつづけた。であればこそ風呂焚きをし、番台にすわって湯銭をとったり、入浴者の着物の番をしている。
(日本に、ただの学校というものがないものだろうか)
 と、あるはずもない夢のようなことも考えていた。



くるみ「秋山好古・真之兄弟と正岡子規に相当する主人公は、金錫元・華秉兄弟韓世実ね」

ベッキー「えーと、金錫元は日本陸軍を率いて支那戦線で活躍した猛将金錫源、弟の華秉は「火病」、韓世実は「反省汁」が元ネタ、だそうだ」

芹沢「金錫元は、ハングル表記なら金錫源将軍と同じになるのか。これは伏線だな」

ちよ「名前と言えば、こんなのがありますよ」

くるみ「え?!あんたはたしか美浜ちよちゃん!どうしてここに?」

ちよ「はい。桃月学園には、まともな進行役が欠けているからぜひ来てくれ、って宮本先生に頼まれました」

芹沢「すっげーひっかかる言い方だけど、たしかにC組には欠けているよな」

くるみ「そりゃ、あんたも同じだって。で、ちびっこ先生に子ども高校生かよ」

ベッキー「むきー!子どもじゃないぞ、先生だぞ!で、どういうネタなんだ?」

ちよ「はい。父の金信五の名前ネタにからんでのことです。朝鮮半島には伝統的な命名法として「行列字ハンニョルチャ」というものがあります。五行相生説に基づいて、木・火・土・金・水の順で同族間の世代ごとにその意味を内包した漢字を名前に共通して用いるものです。
 関川夏央氏の『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか』では『オンドル夜話』を書いた尹学準の家を例にして、尹夏瑞(夏は火)の息子は源五・常五・信五(五は土)、源五の息子は鎮漢・鎮毫・鎮萬(鎮は金)、鎮漢の息子が学準・和準・昌準(準は水)というのをあげています。
 あれ?みなさんどうしました?大丈夫ですか?」

くるみ「さっぱりわからん……姫子がいなくてよかった」

ちよ「で、現在でもそのルールを守っているところはあるそうですが、作者の義弟の父&祖父は義弟に命名するさい考慮しなかったということです。作者がいくら義弟の名前の漢字の解釈をひねっても五行に結びつかなかったわけですね」

芹沢「本文で、政権にありついた独立運動家たちは実務家ではなかったとか書いているが、実際にはどうなんだ?」

ベッキー「実際、政権を取った連中の政治オンチぶりはひどかったらしいぞ。予算不足という報告を受け「金がなければ刷ればいいのに」と言い放った独立運動家出身の閣僚がいたとかいないとか。田中明氏の『物語 韓国人』に出ていた話だがな」

姫子「なんだかマリー・アントワネットみたいだね。文句があるならベルサイユへいらっしゃい!……あれ?ベルサイユとエルサレムって似ているよね。
 エルサレムのバラって何色カナ?」

くるみ「……たしかさぁ、日本に抵抗していたとかいう上海臨時政府もお決まりの「党争」でグデグデになり、首班の李承晩は追放されてアメリカに逃げ帰るはめになったよね。政治オンチなうえに権力闘争好きってのはかなりイタいわね」

ベッキー「いちおう弁護するとすれば、李承晩は李朝末期にアメリカへ渡った後帰国していないだろ。日本時代を体験していないせいもあって、朝鮮半島の社会の変化やその実情には疎かったというのはつらいところかもな。
 実際問題として、行政には朝鮮総督府で実務経験のあった人々を『親日派』として追及しつつも任用するしかなかった。李も李なりに苦労はしただろうよ」

ちよ「アメリカのほうでも、話の通じそうな面識のある相手は李承晩しかいませんでしたし、仕方なしにパートナーにしたという側面はありますね」

ベッキー「ま、李のほうもしぶとくアメリカを利用しようとしたがな」

芹沢「ソ連の傀儡として起用された金日成とは対照的だな」


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