あずまんが嫌論文 1




よみ:水原暦「えーっと、嫌論文って何ですか?」

ベッキー:レベッカ宮本「読めば読むほど頭が悪くなるという恐怖の歴史論文だ。基本的に日韓の『学者』どもの書いたものを指す」

美浜ちよ「エンコリの寧覇総督府メンバーが使い出した言葉です」

桃瀬くるみ「で、具体的にはどんなものがあるの?」

ベッキー:レベッカ宮本「そうだな。あの李泰鎮教授の書いた本なんかが代表的だな」

芹沢茜「ああー、あのバファリン作戦で撃沈されたオッサンだな」

美浜ちよ「はい。バファリン作戦自体については『斜め上の雲』で取り上げる予定ですが、李教授のような支離滅裂な学者や学説、文章は日韓双方に数多く存在しているのです」

ベッキー:レベッカ宮本「そこで、それらを分かりやすく解説しようというのが作者の狙いだ」

芹沢茜「おいおい、読めば読むほど頭が悪くなるシロモノなんだろ?そんなものを読めってのか?」

桃瀬くるみ「そうよ。読者を殺す気?」

ベッキー:レベッカ宮本「たしかに、総督府メンバーすら読むことを避けたがるシロモノだ」

よみ:水原暦「……わりと本気で嫌がっているようですね。『嫌論文』の名前がついたわけです」

美浜ちよ「そういうことですので、まともに読んでもらうという苦行はしてもらいません。マンガ形式でツッコミつつ解説します」

桃瀬くるみ「なるほど。『漫コラ』ってやつね」

芹沢茜「最近、エンコリで流行っているらしいな」

ベッキー:レベッカ宮本「ああ。通称「クソスレ」だ。作者の立てるスレはこれしかないといっていいだろう」

美浜ちよ「作者の作品は総督府HPにも収録されているのですが、せっかくですので、こっちでもあげておこうというわけです。それでは『あずまんが嫌論文』始まります。最初は韓国人学者蘇鎮轍の本です」


『金石文に見る百済武寧王の世界』蘇鎮轍 彩流社



該当本文

供峩田八幡神社所蔵人物画像鏡」の銘文を見て
    ――百済武寧王(斯麻)は「大王年」代を使った――

四 青銅鏡に対する古代人の考えと慣行
  ―鏡は「献上物」ではない

 隅田八幡鏡を俎上にして、それは斯麻が男弟王に献上した貢物とみる学界の共通した視角は、まず銘文にも見えてないばかりでなく、古代東アジアの政治慣行からしても、また、そういう慣行が今もって遵守されている日本の歴史慣行からしても、これは到底黙過できない反歴史的解釈なのである。

1 鏡は「除魔具」(厄よけ)であり「権威の象徴」
 古代人がいだいていた青銅鏡の神秘性は、今日を生きるわれわれとしては到底理解できないとある史家は言っている。とくに上古の倭人たちはその程度が他に比べて甚大だったというから、ゆうに推定してあまりあろう。
 彼らにとって、銅鏡は決して華やかな装身具でもなく(青銅色)、また映像の実用道具でもない。彼らの淳朴な生に映った青銅鏡は、不思議にも「神威」をうけたものとして、呪術的性格が与えられたものと信じたようである。したがって、鏡は「除魔具」(厄よけ)同様のものでして、すべての災殃を退けると信じてきたのであり、また政治社会の拡大につれて、それは「権威の象徴」として、政治権力を生みだすものと信ずるようになったのである。

2 鏡は「神器」であり「信任付与」
 銅鏡に対する古代人のそのような信仰は、鏡をまるで「神器」のように宝物扱いにするようにし、とくに統治者の銅鏡保有は必須不可欠の条件となったのである。こうして、鏡は政治社会において、もっとも重要な「政治道具」に変貌したのである。
 したがって、古代東アジアの政治社会でそのような銅鏡の授受行為を想起する時、それは決して尋常ならぬ行為であったにちがいない。畢竟、それは厳粛かつ荘厳な儀礼行事の一つであったろう。なぜかというと、そのような鏡の授受は先王(または上王)から付与する一つの「信任」を意味するものであり、この「信任」を通じて新しい政治権力が誕生するからである。
 つとに、景初三年(二三九年)、魏の明帝は倭王「ヒミコ」(卑弥呼)の朝貢を受け、その答礼として銅鏡百枚と大刀二具を下賜しながら「そちらの人々が好む品物を賜る」から、この事実を広く弘報せよと言っているが、これはまさしく鏡の授受を通じた、魏帝の倭王に対する「信任」の表示とみなければならない。
 事実、「癸未年」八月、斯麻が男弟王に与えた「二百桿」の白銅鏡もこういう脈絡で理解すべきである。しかし、大部分の解釈者らは、いわゆる「皇国史観」にとらわれて、銅鏡に対するそのような慣行と特殊性を完全に無視し、これを政治的に解釈し、隅田八幡鏡は斯麻が男弟王に「長らく奉仕」するために捧げた貢物である、と主張しているがこれは言語道断の骨頂である。
 論理上から見ても、斯麻が弟王と呼ぶ彼に、銅鏡を献上するというのは想像だにできないことであり、とくに古代政治社会の慣行からみたとき、鏡の授受はいかなる場合も「信任」という特殊な意義を付与するものであるため、それは「下賜」になるよりほかないのである。(13) また、そういう場合にかぎって鏡に対する神秘性は維持されるのである(それで死者は、彼が生前上王から授けられた銅鏡を、死後も一番重要な副葬品として永遠に自分の頭部枕許に保管することになり、戦争にまけた将帥は、まけた証拠として銅鏡をだして降伏したというのである)。

3 日本の歴史慣行――「三種の神器」と皇統継承
 この点に対して、古代の慣行が昔ながらに継承されている日本の皇統は、まさにそのような鏡の神秘性を現実的に見せてくれる生きた証拠といえる。一千年以上になるというこの歴史慣行は、王権継承の象徴としていわゆる「三種の神器」、すなわち八咫鏡、草薙剣、そして八尺瓊曲玉などの宝物を先王から伝授することによって、はじめて新王の大統が確立するというのである。これはいうまでもなく、「神器」である鏡の授受を通じた先王の「信任」を意味するのである。
 最近挙行された今上天皇の即位を見守りながら「三種の神器」の中でも、とくに八咫鏡の地位がほかの二つの神器よりも高いことを知るようになった。その理由は、天皇家の祖神で、開国神でもある天照大神の心霊がこの八咫鏡に宿っているからであるという。(14) したがって、新王の即位当日、真っ先に賢所に祀ってある鏡に自身を告げることによって、彼の「守護」と「信任」を請うのである。
 このように日本の歴史慣行において、青銅鏡の重要性は何にも比肩できないものである。ところが、銘文解釈者らは、大王年、癸未年に男弟王の「長寿」を念願して制作した数多くの白銅鏡に対しては、これを斯麻が男弟王に献上した「貢物」であるとかの法外な理屈をつけて、これを反歴史的に解釈している。しかし、このような歪曲した解釈で、いわゆる「皇国史観」の一時的な維持は可能であるかも知れないが、その半面、彼らが「自慢」する歴史の基本を、根こそぎ否定する誤謬を記していることも認識しなければなるまい。

  五 隅田八幡鏡は武寧王が継体天皇に下賜した鏡

2 斯麻は継体を「男弟王」と呼んだ
 隅田八幡鏡は斯麻が「意紫沙加宮」にいた男弟王(男大迹王)に与えるため、開中費直(穢人)をして制作した数多くの白銅鏡の中の一つである。ここで斯麻は、この鏡を受領する対象の継体天皇を「男弟王」という名称で呼んだが、これは弟王の概念で、斯麻が彼の上王(兄王)でなければ呼べない名である。もし日本学界で主張するように、斯麻が男弟王の「臣下」のような存在であれば、彼はゆめゆめ「男弟王」という名で彼を呼ぶことはできなかっただろう。(18)
 男弟王の男弟を単純な人名と見る解釈者もあるが、これは男弟の意義を縮小しようとする意図であり、男弟は文字通り弟の概念で、「下の男」を意味する古代の政治慣行に由来するものとみえる。つとに、景初三年(二三九年)の『魏志』倭人伝は、魏帝の使臣が見た「邪馬台国」の「女王」と「男弟」に対して「一人の女を王に奉戴しているが、彼女の名前は〈ヒミコ〉である。彼女は鬼に通じ、人を眩惑させる。年を取っているが嫁入らず、国事は「男弟」(オオト)があって輔佐している」と記述している。(19)
 したがって、女王を補弼する「男弟」は政務や軍務のような全域を専任するようになり、女王はもっぱら宗務にたずさわって、「邪馬台国」の国事管理は女王と彼女を補弼する「男弟」が共同で管理する形態を維持したとみられる。
 ところが、このような「男弟」の概念は、女王権の衰退とともに男弟王という実体として浮上したと推定される。したがって、男弟王は通常の太子や皇子のように皇統の承継を待つ「候補」でなく、また大多数の銘文解釈者らが見ているように、王統をもつ先王の単純な弟(皇弟)をいうのでもないようである。
 男弟王自身はあくまでも独立した統治実体で、女王に仕える「男弟」のように、兄王のような大王に仕える弟王であり、彼らの関係は兄国(大王国)と弟国という秩序の中で維持される特殊な関係とみるべきである。(20) 『書紀』によると、男大迹王(男弟王)は五一八年、三回目に遷都した都邑を「弟国」と称したが、これは弟王の国として、兄王の国に対応する概念に受け入れられる。(21)
 したがって、相手を弟王である男弟王と呼んでいる斯麻は、男弟王の兄王(大王)の位置にあるためにそれが可能であり、また、彼のみが銘文にある「大王年」の主人公になる資格があるのである。


芹沢茜「いくらなんでも引用が長すぎるぞ」

ベッキー:レベッカ宮本「ようは、『男弟王』を人名ではなく『弟王』のことだと曲解して勝手に斯麻王の弟だとしたわけだ」

桃瀬くるみ「そんなことをしちゃえば、『斯麻王』だって人名以外の解釈をしなくちゃいけなくなるわね」

よみ:水原暦「それで、斯麻王が弟王に銅鏡を与えた、として百済王である斯麻王が上の立場であったとするんですね」

美浜ちよ「銅鏡の銘文解釈については、むりやり上下関係を読み取ろうとせず『斯麻王が男弟王に贈った』でいいかと思います。長寿を祈念するのは、年下が年上に対して行なうものでしょうし、吉祥修辞だという程度におさえておけば無難なんじゃないでしょうか」

ベッキー:レベッカ宮本「4コマ目の元ネタは、2本目のネタの解説でやるぞ」



該当本文

后]漸ι陲両緝淑検併夕携年)を見て
    ――倭王武は武寧王の少年時代――

 三 倭王武の上表文は百済救援書
 倭王「武」が四七八年(昇明二年)、宋の順帝に捧呈した上表文は(5)、長い文章ではなかった。しかしそこには実に驚く程の歴史的史実が記録されており、これは五世紀頃の百済と倭の関係ばかりでなく、東アジア諸国の関係までも、理解するにおいて必須的な史料であるといえよう。
 四七五年、高句麗長寿王の大攻勢のため、百済の都城(慰礼城)は陥落され、その後蓋鹵王と王妃や王子など百済王家一族が、高句麗の将帥にとらわれ残酷に殺害されるなど、百済は建国後最悪の危機に出遭ったのである。
 倭王「武」の上表文は、正しくこのような急迫した事態の百済を支援するための哀切きわまりない訴え(6)であり、これは四七二年蓋鹵王生存の時、王が高句麗の攻勢を受け魏の高祖に送った救援のための上表文(百済救援書)と同じもので(7)、その形式と内容において両方(8)の上奏はほぼ似通っている点が一、二だけではない。
「武」はこの上表文で自身の「倭国」を(百済)の「封国」という概念をもって紹介しており、彼はそとの「藩」になりたいと念をおした。特に自身の祖先らは昔から輝かしい軍事的業績を収め、おおよそ二〇〇を越す周辺の大小国を平定し、今はその「畿」を大きく広め「王道は融泰」であると言った。

  封国偏遠(9) 作藩于外 自昔祖禱 躬還甲冑 跋渉山川 不礬寧所 東征毛人(10) 五十五国 西服 象夷六十六国 渡平海北九十五国(11) 王道融泰 郭土遐畿 累葉朝宗 不愆于歳

 そして、彼自身はたとえ愚直ではあるが、先代を継ぎ国を平安にし「天極」を全うしたと言う。百済へ行く道は遠く船に乗らざるを得ない。しかし、「句驪」は無道でわれわれをうのみにしようとし、辺隷を略奪するためすべてのことが遅滞し、往来がむずかしくなったと言うのである。

  臣雖下愚 添胤先緒 駆率所統 帰崇天極 道遥百済(12) 装治船舫 而句驪無道 図欲見呑 掠抄辺隷 虔劉不已 毎到稽滞 以失良風 雖日進路 或通或不

 それで、彼は「滅ぶ百済のために(臣亡考済)」高句麗の侵寇に決然たる態度で対処すると言っている。しかし突然、迫って来た自分の父兄の死のため、「武」は喪中にあり大軍の出動も中止し、長い歳月喪に服していたと言う。
 ところが、今は時を得て再びよろいかぶとに身を固め、亡き父と兄の遺志にしたがい、敵(高句麗を指称)の疆土をせん滅するため、陛下の大きな恩徳のあらんことを懇請するというのである。

  臣亡考済(13) 実念寇讐 壅寡天路 控弦百万 義声感激 方欲大挙 奄喪父兄 使垂成之功 不獲一簣 居在諒闇(14) 不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲(15)練甲治兵 申父兄之志 義士虎賁 文武效功 白刃交前 亦所不顧 若以帝徳覆戴 推此彊敵 克靖方難 無替前功

 終わりに、「武」は先代の倭王らがやったとおり、自身の倭王即位を契機に自身と臣下らの官爵を要請しているが(16)、順帝はこれを允許し、「武」には破格的に「安東大将軍」を授けたと『宋書』は記録している。
 しかし、彼らが自ら要請した「開府儀同三司」の官号は叙任されなかったという。

  竊自仮開府儀同三司(17) 其余咸仮授以勧忠節 詔除武使持節都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六国諸軍事 安東大将軍 倭王

(中略)

 五 倭王武、彼はだれなのか
     ――「武」は、少年「斯麻君」
 上表文を通じて見た倭王「武」は、天皇系に属する雄略天皇とは無関係の間柄であり、むしろ百済王家系譜に属している人物であるという事実を知ることができた。彼には百済の痛みは自分自身と痛みとなり、また百済の不運は自身(倭国)の不運につながる、百済との一体感をもっているそういう人物であった。故に東アジアの激動期に「倭国」を統治したという「武」の正体を明かすということは、実に重大な課題であるといわざるをえない。
 ところが、この時代の史料はきわめて制限されているため研究の苦しみは並々ならぬことであるが、幸いわれわれには、「武」が直接書いたという上表文があるため、これを土台に検討すれば遠からぬ将来「武」の正体が究明されるだろう。
 第一、「武」は上表文で百済に対する高句麗の攻勢が絶頂にたっしたとき(四七五年頃)、自分の父兄が急に死去したため大軍の動員もできなかったといっている。ところが、その頃「倭」や百済で急死したと見なす王と王子は『三国史記』と『日本書紀』に記録されている百済蓋鹵王と大妃そして彼らの王子の悲惨な最期以外には見えないのである。  二つの史書によると、四七五年高句麗大軍の七日間にわたる攻勢のため、慰礼城が落ち、王(蓋鹵王)と大妃そして王子らは高句麗の将帥により阿且城で無残な殺害にあったという。したがって、「武」がいう「奄喪父兄」は、ほかでもない百済蓋鹵王とその王子の悲惨な最期を語るものと見なさなければならないし、「武」は直ちに殺された蓋鹵王の太子と見なすべきである(24)。
 そして、彼は上表文に殺害された父王の喪を、天子の死に比ゆする「諒闇」(りょうあん)(諒闇は「崩」の字をもちいる場合にだけつかうことができる)と表記し父王に対する大王としての礼遇をおろそかにしなかった。特に、彼の心中深く据え付けていた高句麗に対する憎悪感と復讐心は、ほかならぬ父王の遺志というから彼が蓋鹵王の太子である「斯麻君」でなくてだれであろうか。
 次に、『宋書』によると、四七八年(昇明二年)順帝は、「武」が自ら願った「安東大将軍・倭国王」を授けたといい、その翌年の四七九年には南斉の高帝が「鎮東大将軍・倭国王」を、そして二〇年後である五〇二年(天監元年)には梁武帝が「征東大将軍・倭国王」を各々武に昇爵除授したという。
 このような官号の昇爵除授を通じて見た場合、「武」の倭王位は少なくとも二〇年間は持続されたものと見られるが、そういうふうに見なした時、この事実は、『三国史記』と『日本書紀』に記録された斯麻王が百済王即位と時期上からもよく符合するのである。二つの史書には各々一年という時差はあるが斯麻王は五〇一年または五〇二年「倭国」から帰国し百済第二五代王についたのである(25)。
 歴史が伝える斯麻王の生涯を通じて見る時本当に多難であり、彼は一〇代の幼い身柄で「武」という名をもって倭の王位につき、はるか百済の父王が悲惨な最期にであったということに接する。その後四〇代の壮年期にたっし百済王として帰国、父王の遺志を受け継ぎ百済中興を企てたが五二三年五月六二歳を一期に今の公州で崩御したのである。(26)  第三に、『日本書紀』武烈紀六年条(加筆だと思う)には斯麻王が五〇四年「麻那君をつかわし貢物をささげた」とある。しかし次の年五〇五年天皇は「麻那君は百済の骨族」ではないという理由で彼を拒否したため、王はまた「斯我君をつかわして天皇につかえるようにした」という。
ところが、この「斯我君」はほかでもない斯麻王の太子を言うのだが、彼は不幸にも若い歳で倭国で逝去したという(27)。『書紀』は彼の王子「法師君」をさして、彼が「すなわち倭君の先祖だ」といっている。なにゆえ『書紀』が、法師君を「倭君(やまとぎみ)の先祖」に推たいしたのか、その背景はよくわからないが、法師君が「倭君の先祖」という事実は彼がすなわち「倭王の先祖」だと言うのと同じことである(28)。だから法師君が「倭王の先祖」だというと彼の父王である「斯我君」が一時「倭」にいたという事実も倭王位につくためであったと見なすべきである。
 そして、「法師君」の祖父である斯麻王の場合も彼が四六一年「各羅嶋」で誕生し、五〇二年帰国前まで「嶋(斯麻)君」の身分で「倭国」にいたという事実も、倭王位にいたとみなければならないのであろう(29)。
 第四番目は、斯麻王は五二三年崩御後、百済武寧王という諡号を贈られたが、彼はこの諡号でもっともよく知られた人物でもある。彼の諡号である武寧は太子である明王(諡号、聖明王)が父王の威徳をたたえるために制定したのであり、斯麻王においては「武寧」という諡号がもつ意義は実に偉大なものであるといえよう。
 武寧王の人品について、『三国史記』は彼を「背が八尺であり、容貌は絵のようで、性品が仁慈で寛厚なため民心がよく従い付くのであった」というふうに描写している。このような点からおして、彼が少年の時、倭の王位に付いた時も、彼の父王は「武」と命名したとみなされ、王の死後彼の太子である明王も父王の諡号を制定する際、父王と因縁の深い少年時代の名前である倭王「武」の字に「寧」の字を結合したもののようである(30)。
 「武」と「寧」の字は斯麻王にとっては何よりも由緒深い字で「武」の字の次の「寧」はいわば王が六〇歳の還暦をむかえた五二一年、梁帝から授けられた最期の官爵であり彼にとっては最高のものであったと言える「寧東大将軍・百済王」の頭文字である。
 このように、「武」と「寧」の字は斯麻王にとってはもっとも因縁の深い字であり彼の諡号武寧は永遠に輝く諡号になるであろう。


ベッキー:レベッカ宮本「ネタにもなっているとおり、斯麻王すなわち武寧王は、若い頃倭にいて倭王武であり、倭は百済の『封国』だと言っている」

よみ:水原暦「その根拠になっているのが、銅鏡の銘文解釈や倭王武の上表文なんですね」

美浜ちよ「はい。勝手なこじつけや断定に終始しています。支那の中華王朝(つまり『中国』)である宋を中心としての『封国』ですし。百済を主としての『封国』であるなら、宋あての上表文にこのような修辞はしません」

芹沢茜「論理もグデグデなんだな」

桃瀬くるみ「最初から結論があって、そこに結び付けようとしているのかしら」

ベッキー:レベッカ宮本「4コマ目の『侯王』だが、これもまともな用例さえ示せない概念だ。本来『侯王』というのは『王侯』と同義の漢語であるだけで、特別な地位やらを指すわけではない」

美浜ちよ「はい。たんに王と侯を並べて指すだけです。史記にある陳勝の『王侯将相いずくんぞ種あらんや』という名台詞も、漢書では『侯王将相』となっています」

桃瀬くるみ「大王だから崩じたってのは何?」

美浜ちよ「発見された武寧王陵の関係資料にそう書かれていたんです。中華文化圏において、人の死に対して「崩」という表現を使うのは、かなりの大王だ、ってことですね」

よみ:水原暦「対外関係で認められたかどうかは別にして、自国でそう表現するのは自由だと思いますけど」

ベッキー:レベッカ宮本「それに、だいたい「崩」は大王にだけ用いられるほど特別な用語ではなく、ある程度高い身分の人間の死に対して使われるものだ。日本書紀を読めばいくらでも出てくるぞ」

芹沢茜「海洋国家とかいうのは?」

ベッキー:レベッカ宮本「百済は南方の島々の国家を『封国』として有しており、百済を『中国』としてひとつの中華世界が成立していた、ってことだ。そのために百済関係の史料に見える国の風俗習慣を並べ立てて紹介しているんだ。あまりにも長いので本文は省略した」

桃瀬くるみ「…ほんと、嫌な論文ね。こうやって要約するだけでもめんどくさいし、わかりにくいわ」

ベッキー:レベッカ宮本「ここで展開されている『倭は百済の分国』という要旨は、現代の韓国人の歴史認識にも多大な影響を与えていると思われる。ぜひおさえておくべきだ」

美浜ちよ「誰もが作者のように変人ではありませんからね。古代史に興味がなければ読むことすら苦痛ではないでしょうか」

芹沢茜「ここで興味を持って嫌論文の世界に参入してくれれば、作者も楽しくなるんだろうけどさ」

よみ:水原暦「そんな都合のいい話はないと思うぞ」


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