斜め上の雲 3

金錫源




 一九五〇年六月二十五日午前四時、北朝鮮軍はいっせいに三十八度線を越えて進撃を開始した。

 ソウルはわずか四日で陥落した。
 すでにふれたように坡州はソウルの北にある。北朝鮮軍が通過したあと、まちのひとびとはようやく事態を解釈できた。
(ふいに殴りつけられただけで、首都があっけなく陥ちるのか)
 と、元さんは、わが身に関係のあるこの事態について考え、あらためてこの政府のもろさにおどろかされた。

 七月になった。
 戦いはなお北朝鮮軍の優位ですすんでいたが、信五はなにかを感じたのであろう。にわかに家財をまとめ、夜にまぎれて釜山へ逃げることにした。へたに残っていては、北朝鮮軍の物資徴発を受けるどころか、連行されて前線の弾よけにされるかもしれない。
 元さんは、したがわなかった。
「逃げるより戦いたい」
 かれのあたまには、十歳のときに経験した敗戦後の惨状とくやしいおもいがあったのであろう。
「大田にいく」
 大田では韓国の正規軍と義勇軍による抵抗が続いている。そこに投じるという。

 元さんとよばれていた金錫元が韓国軍に投じたのは、そのとしの夏である。
 
大田で家族と別れるとき、父の信五が、
「しっかりお役に立つんだぞ」
 と、息子をはげました。まわりのひとびとが涙を流しながらみなうなずいたところをみると、もはや生きては会えぬものと信じていたらしい。
 義勇軍の宿営地に行って手続きをすませると、司令部にゆくよう言われた。
 司令部テントの奥のほうに司令官がいた。背はやや低めながらがっちりした男で、山賊のように背中に刀を背負っている。錫元に気づくと近づいてきて、
「おまえは何歳かな」
 といった。
 年齢を正直に答えれば追い返されるであろう。が、戦時中である。本人申告の真偽をたしかめられることもないと思い、
「十九歳です」
 と答えた。
「干支は何年かな」
「亥年です」
 と答えると、司令官は笑った。十九歳なら未年であるべきだった。司令官はこの少年が年齢をごまかしていることに気づいたらしいが、黙認したようだった。
「名前は何じゃ」
 と名前を聞いてくれたことが、錫元の運命のある部分を決定づけたことになるであろう。
「金錫元といいます」
「ふむ。わしと同姓同名じゃな。日本軍では少年兵もおったが、お前はちと若いな」
 
司令官――金錫源准将――はそういって錫元の体格を、ちょうど道具屋の手代のような目でながめていたが、やがて、
「わしのそばで連絡兵をつとめろ」
 といった。

 金錫源はとくに錫元に目をかけてくれた。
「まだ若いおまえを前線に出すわけにはいかない。わしの副官がわりに連絡兵をしながら勉強しろ」
 そういって、戦闘のあいまにみずから戦術や英語の初歩について講義をした。
「基礎は叩きこんでやる」
 あとは自分で考えることだ、ともいった。
 金錫源は、日本の陸軍士官学校を卒業したあと、北支戦線で活躍し、山西では一個大隊を率いて多勢の中国軍を撃破し、金鵄勲章功三級をもらった。少佐の身でしかも生存者が授与されるとはまことに稀有のことである。
 建国まもない韓国にあっては随一の勇将といっていい。そういう人からじかに教えを受けるのは、
「とほうもない幸運だ」
 と参謀長の崔慶禄大佐がいった。

 金錫源は光復後、陸軍大佐として第一師団長に任じられ、韓国陸軍の建設に努力していた。日本の古武士をおもわせる剛直な性格で知られていたが、李承晩大統領に直言をおこなったため不興を買い、解任され予備役に編入されていた。前にふれたタラ事件で李承晩に抗議した第一師団長とはかれのことである。
 しかし、かれは不穏な情勢を察して大田で義勇軍を組織訓練し、開戦時には軍部の要請で現役に復帰し首都師団長となっていた。
 かれが錫元に目をかけたのは、同名という親しみのせいだけでなく、太平洋戦争末期の日本軍の少年兵たちをみていたこともあって、いたずらに若者を死地に送りたくないということもあったであろう。

 韓国軍は押されっぱなしである。
 将兵の多くが外出、外泊していて週番しか残っていない日曜日の明け方に奇襲を受けたうえ、装備にひらきがありすぎた。

 余談ながら、開戦時の両軍の兵力・装備についてのべる。
 北朝鮮軍の地上兵力は、七個歩兵師団十一万千人、欧州で勇名をうたわれたソ連のT34戦車二百四十二輛を中心に編成された一個機甲旅団、そのほかに一個機械化旅団があり、火砲は一二二ミリ榴弾砲、一二〇ミリ迫撃砲を最大に全軍に百六十門が装備されていた。
 これに対して、以前にもふれたが韓国軍は八個師団をそろえていた。とはいえ、そのうちの四個師団は二個連隊編成という旅団程度のものであり、戦車はなく、手持ちの二・三六インチバズーカも五七ミリ対戦車砲もT34には通じなかった。
 北朝鮮の航空兵力は戦爆あわせて二百十一機。韓国は練習機と連絡機二十二機しかなかった。

 さらに、余談。
 日本の一部進歩的知識人は開戦当初から、
「南朝鮮の北侵によって戦争ははじまり、北朝鮮がそれをはね返した」
 と主張していた。
 かれらは、アメリカ大統領特使のダレスが六月中旬に三十八度線の視察をおこなったことを北侵謀議の証拠とし、在韓米軍の撤退すら先制攻撃を偽装するためのものであるとした。
 アメリカのI・F・ストーンは、G・ガンサーがGHQ高官2人と日本の日光で昼食中、かかってきた電話にでた一人が「南朝鮮軍が北朝鮮軍を攻撃した」といったことを「秘史朝鮮戦争」に書いたが、杉捷夫東大教授はそれをもって韓国の北侵の証拠とした。
 また、藤原彰・遠山茂樹・今井清一は共著「昭和史」において、北朝鮮軍が侵略したという理由で韓国軍が侵攻したとし、のちには、二十六日に北朝鮮軍が反撃して三十八度線を越えた、と書きくわえた。
 
 これまでみたように、開戦時の南北の軍事力は懸絶している。
 さらにいえば、韓国軍には備蓄弾薬が数日分もなく、一月に米韓軍事援助相互協定が調印されたものの、それによる軍需物資はまだ到着していなかった。
 李承晩大統領は北進統一をさけんでいたが、とうてい戦争をはじめることができる状態ではなく、五百人にもおよぶアメリカ軍事顧問団がそれをみとめることもなかった。
 また、たとえこの状態で北侵したとしても北朝鮮軍は反撃できただろうが、そのまま逆侵攻して、通常装備・兵站のまま米軍をもけちらして半島南端の釜山まで追いつめることができるものではない。
 以上のことから考えて、朝鮮戦争は北がじゅうぶんに準備したうえでの南侵からはじまったことはうたがえない。

 北朝鮮軍はソ連製のT34戦車を前面におしたてて進撃してきたが、韓国軍に戦車はなく、対戦車兵器もとぼしかった。アメリカ軍の持ちこんだ三・五インチバズーカだけがまともに戦車を撃破できたが、数もすくなく苦戦をしいられている。
 錫元はこれほど大量の戦車をみるのははじめてである。大東亜戦争の末期、釜山ではたらいている父信五のもとに遊びにいったとき、日本軍の戦車を数輌見たことがあるだけである。
 その戦車集団は、砲塔が民家の軒先をかすめるような狭い路地をふらふらとさまよいながら進んでおり、あきらかに道に迷っていた。
 錫元と信五の前で隊列がとまり、先頭車輌のハッチが開いて軍人がおりてきた。
「西面はどこかいな?」
 眼鏡をかけたその軍人はたよりなさげな口調できいてきた。信五が場所を教えると、礼をいって車内に戻り、行進を再開した。
「だいじょうぶかな。あんな将校で」
 階級章をみると少尉だったらしい。信五がためいきをついたのを錫元はおぼえている。
 そのときみた戦車は、腰高で優雅な感じではあったが砲身が細く短く、少尉同様たよりなさげであった。

 それにくらべて北朝鮮のT34は、無骨きわまりない外見であるが、そのぶんたくましくみえる。金錫源にそれをいうと、
「T34はいい戦車だ。ドイツもあれにかなりやられた。釜山でみたというのは関東軍のチハ車だろう。戦車どうしのたたきあいはできないシロモノだった。もっとも」
 歩兵戦闘の補助が目的なのでしかたのないことだったが、とつづけた。
「将軍は敵の戦車をほめるのですか」
 錫元は意外そうにききかえした。
「敵であろうがなんであろうが、性能のよいものはよい、悪いものは悪い。錫元はウリナラが好きか?」
「はい。好きです」
「ならば、ウリナラが世界でいちばんすぐれて大きい国とおもうか?」
 すこしためらったあと、錫元は答えた。
「いいえ。おもいません」
 ややためらって錫元は答えた。
「それと同じことだ。好き嫌いと良し悪しはべつの問題だ」
 軍人にとってもっとも忌むべきことは、目の前の事象に手前勝手な規定をあてはめて納得するという硬直性だ、ともいった。

 金錫源はさらにいう。
「わしは、かつて日本軍をひきいて戦い、今はアメリカとともにソ連じこみの北韓軍と戦うというふしぎな道をたどっている」
 しぜん、各国軍の長短について感じざるをえないことが多いという。
「これからはアメリカ流が主流になるだろうが、日本軍のやりかたにも学ぶことは多い」
 とくに、下士官が兵と密着していることは強みだ、という。
「この軍には日本兵あがりが多い。学ぶことだ」
 金錫源が義勇軍を組織したさい、韓国内でゆき場をなくしていた元日本兵たちはかれのもとに集結し、ほどなく戦争がはじまったため、金はかれらを麾下にしたまま首都師団を率いている。
 そのため、韓国軍じたいが全体的に日本軍の色が濃いといえるが、金錫源の師団はとくにそれが濃厚となった。
 
このように、劣勢に立ちながらも粘りづよく戦う韓国軍人に日本軍出身者が多いことについて米軍は注目した。従軍記者による朝鮮戦争記にも、このことにふれている。この記者は日本軍出身者というのは朝鮮人のなかの特殊なある種族であるとおもっているらしく、
「おもうに、日本軍出身者もしくはその一派(筆者注:満州軍をさす)の種族は、責任感がつよく勇猛であるが、死に対する観念がとぼしく、戦況によってはかんたんにわが身を死地に投じる」
 と、書いている。
 また、この時期、視察におとずれたマッカーサー元帥も韓国軍のなかでとくに名指しで首都師団の戦いぶりを賞している。

「いま、われわれに不足しているのは兵力と武器だ」
 しかしそれをなげいてもどうにもならない。やれることをやるしかない。
「力のないものは知恵と根性でたたかうしかない。最後は肉弾で食いとめる」
 と金錫源はいった。さすがに錫元の顔に不安の色がさした。
「心配はいらん。抗戦しているうちに米軍が来る」
 それまで持ちこたえればよい、と金錫源はいった。
 七月七日、国連安保理において、国連軍の派遣が決定され、おもに米軍が日本から釜山へ来援してきつつあった。しかし、それらは平和な任地にとどまることがながく、平時編制のままで訓練装備は不足しており北朝鮮軍に抗することができなかった。そのため大規模な援軍の到着まで時間をかせぐ必要があった。

 七月下旬、米韓軍は大田から撤退し、南東の安東、洛東里の線までさがった。
 その数日後、米軍指揮官ウォーカー中将によって、さらに南東へ撤退して洛東江を天然の濠として防御線を形成し、敵軍の進撃を遅滞させ米軍の増援を待つという戦略が決定された。
 金錫源は首都師団をひきいて安東を守っていたが、崔参謀長が持ってかえってきた後退命令をみると憤然とした。
 あと一時間以内に撤退せよという。

 首都師団は、安東の南を流れる洛東江を背にして、文字どおり背水の陣をひいている。
 撤退するためには洛東江にかかる橋をわたらなくてはならない。それに避難民もいる。軍民の移動をよほどうまくやらなくては混乱をきたすばかりか、全軍潰滅のおそれさえある。
 げんに、ソウル撤退時には橋の爆破を実行したときに避難民を巻きこんだ大惨事がおこっている。
 それをたった一時間でやれという。
 しかも時刻は午前二時である。なぜ制空権の確保できている現況において、昼間の撤退をしないのかという不手際もある。
 金錫源にとっては、そういったことよりも、今は不退転の決意だけが味方を奮いたたせるとして敵味方に徹底抗戦の決意をしめすようにひいた背水の陣をくずすのがしゃくである。
 金錫源は司令部へ電話をかけ、副軍団長の金白一准将に皮肉をあびせた。
「退却がお好きなようだが、退却するだけで勝てるのかね」
 戦況がかんばしくないため准将も気がたっている。元来金錫源とおなじく猛将であるかれはたたきつけるようにいった。
「命令です。後退は命令です」
 受話器を床にたたきつけた金師団長は、にわかに狂した。
「生きて退却ができるかァ」
 とさけび、腰の拳銃をぬいてみずからのこめかみにおしつけた。
 錫元がとっさに腕にしがみついたが振りはらわれた。崔参謀長がさらに腕にとりつき涙を流して説得して、師団長はようやく撤退を承諾した。
 その後首都師団は、日本海に面した盈徳にすすみ、東部戦線を守ることとなった。

 開戦から破竹の進撃をつづけてきた北朝鮮軍も内情は苦しい。
 一気呵成に李承晩を半島から追い落とし、五回目の光復節をソウルでむかえたいというのが金日成首相の指令であった。そのため、損害をかえりみずしゃにむにここまで戦ってきている。
 しぜん、戦力補充も追いつかず、兵員も各師団で上限八〇パーセント程度の充足率にまでおちこんでいた。戦車にいたっては補充はなかった。
 補給もうまくいっていない。緒戦こそ計画的に備蓄された弾薬食糧があったものの、ソウルを陥とし南側に本格的にすすんでからは、輜重隊が米空軍によって襲われ、のびきった兵站線がときに寸断されるようになったのである。
 弾薬はともかく、食糧は地域住民からの調達にたよらざるをえなかった。戦況がよいときでさえ、こういった行動が円滑におこなわれることはまずない。当然のごとくうまくいかなかった。
「ことしの八月十五日はソウルで統一国会を開催する」
 そう豪語する金日成もいらだっていたのであろう。戦線がすこし膠着するだけで、服でも着がえるように師団長や参謀たちをかんたんに更迭した。そのため軍上層部には一種奇妙な倦怠感があったようにもおもえる。しかし兵卒たちにおいてはその戦意はなおさかんであり、米軍もまともに抗することができなかった。
 金錫源は、盈徳の救援が間にあいそうにないとみて、進路をかえて南の浦項に入り防禦線を構築することにした。

  

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じじぃ「とりあえず元ネタの原文列挙じゃ」


「伊予松山藩の名をたかからしめよ」
 と、この少年をはげました。見送るひとびとが大まじめでみなうなずいたところをみると、そういう時代であった。(1巻「春や昔」)該当箇所


(わずか、地方の反乱で、国の機能が停止するほどのさわぎになるのか)
 と、好古は、わが身に関係のあるこの事態について考え、あらためてこの政府の基礎のもろさにおどろかされた。(1巻「春や昔」)該当箇所


 四月に受験をした。学力試験は漢文だけであった。口頭試問のとき、
「君は、エトは何年かね」
 ときかれた。
「ひつじどしでござりまする」
 と答えると、試験官は笑った。願書の安政四年とすれば巳年であるべきだった。試験官はこの受験生が年齢をごまかしていることに気づいたらしいが、黙認した。(1巻「春や昔」)該当箇所


 寺内はそういう好古の体格を、ちょうど道具屋の手代のような目でながめていたが、やがて、
「騎兵にうってつけかもしれん」(1巻「春や昔」)該当箇所


 ただ、日本海軍の最高幹部が、ほとんど薩摩人であることについても、各国の観戦者は注目した。海相西郷、軍令部長樺山、司令長官伊東、緒戦で問題をおこした浪速艦長東郷など、その数はじつに多い。
 世界の海軍界でもっとも権威のある英国のプラッセー年鑑一八九五年発刊の「日清戦争」の項にも、このことについてふれている。この年鑑の記者は薩摩人というのは日本人のなかの特殊なある種族であるとおもっているらしく、
「おもうに、薩人もしくはその一派の種族は、天資剽悍で勇猛ではあるが、元来学識とぼしく、従って冷静な判断力に欠けている」
 と、書いている。(2巻「日清戦争」)該当箇所



ちよ「韓国でも干支はあります。ちゃんと十二支占いもありますよ」

ベッキー「両軍の戦力差についてはほぼ資料丸写しだそうだ。
 日本の左翼知識人については、本文であげた以外にも、社会党系評論家の中川信夫(映画監督とは別人)が、1990年代になっても南の北侵説を堅持して、前に触れた兪成哲らの証言を「金目当て」と断言した。これは前回も言ったか。
 また藤原彰は41年陸士卒、大戦中の戦死者の多くが餓死だったという研究が有名な御大だが、死去したとき左翼の学者からすら「これでやっと自由な研究ができる」といわれたくらいの大ボスだった」

くるみ「この釜山の日本軍戦車を率いていた人って、何者なの?」

ちよ「はい。福田定一陸軍少尉といいます。のちに司馬遼太郎と名乗るお方です」

ベッキー「道に迷った話はたしか『街道をゆく 韓の国紀行』で書いてたぞ。さすがに『征途』のような出演の仕方はできないので、これで精一杯だ」

芹沢「けどよ、日本軍の九七式戦車といえば、とんでもねーやつだとかよく聞くぜ」

ベッキー「戦車同士の戦闘には力不足であったのは事実だが、日本陸軍の軍事思想は歩兵中心で戦車は支援車輌というものだったから、歩兵戦闘支援車として扱うべきだろうよ。
 バランスを取るつもりで言っておくと、歩兵中心思想のおかげで、グレネードランチャーの源流である擲弾筒の性能が良かったのだぞ」

くるみ「久慈照嘉や川相昌弘はホームランを打てないから役立たずだ!と評価するようなものね」

ベッキー「用途が違うものをそのまま比較することに意味はないってことだな。だから日本軍の戦車はまったくダメだと単純に決め付ける気にはなれない。
 ここでは深く突っ込むつもりはないので、詳しく知りたければ「萌えよ!戦車学校況拭あたりを読んでくれ」

くるみ「しかし、ろくな対戦車砲もないのによく抵抗したわね」

芹沢「最後は肉弾じゃねーのか。爆弾抱いて突っ込んで」

ベッキー「そのとおりだ。金錫源は朝鮮戦争前の第一師団長時代、国境での小競り合いに投入された北のT34に対戦車兵器が通じないのをみて、日本軍時代の経験を生かして爆弾を抱いた「特攻隊」を組織して決死の覚悟で撃破したんだ。むろん今回もそうだ。ようはキャタピラを切るなり何なりして、動きを止めればよいわけだ」

芹沢「マジで日本軍譲りの特攻かよ。となると爆弾抱えた犬なんかも使ったのかな?」

忠吉さん

ちよ「あ、あう……」

くるみ「え、えと、金白一准将ってどんな人?」

ベッキー「かれは、白善、崔楠根と同じく満洲軍出身だ。光復後いったんは故郷の平壌に戻ったのだが、粛清の危険を感じて三人で越南した。白善の自伝によると、本来は金燦圭という名だが越南時に「白一」にあらためたそうだ。政党が乱立していた南の状況をみて3人が「俺たちも政党をつくるか」「北のアカに対抗して『白』、朝鮮統一を目指して『一』、白一党にするか」とかわした冗談を元ネタにしたらしい。朝鮮戦争で活躍したが、戦争中、移動中に搭乗機が墜落して死亡した」

芹沢「金錫源が自殺しようとしたのは本当か?なんだか火病じゃねーか」

ちよ「こ、これは児島襄の『朝鮮戦争』が元ネタです。腕にしがみついたのは副官の南少尉ですが、物語上の都合で錫元に差し替えました。これ以降、錫元を出すために南少尉はいなかったことにされてしまいます」

ベッキー「本文にあるように、北朝鮮はアメリカの介入する時間を与えず電撃速攻で戦争を終らせたかったため、かなり無理を重ねた攻勢をとったようだ。そのため、補給も滞り戦力補充も不十分なまま攻勢を続けて息切れしてしまい、将棋で言うところの「指し切り」に陥った」

くるみ「そこに、仁川上陸をはじめとした反撃をくらうわけね」

ベッキー「そういうことだ。じゃ今日はここまで」

  

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