斜め上の雲 4

ヨンオック・キム大尉




 金錫源のひきいる首都師団が、安東を守備していたころのはなしである。
 なにかの用で、金錫源は幕僚や錫元を連れて、首都師団の属する第一軍団の司令部に行ったことがあった。
 たまたまそこにおとずれた申性模国防部長官が、在日韓国人の間で義勇兵に志願するものが多く、いずれ部隊が編成されて来援するだろうと、金錫源にいった。
 だが、意外な人物が怒声をあげた。第一軍団長金弘壹少将である。
「三十六年かかって倭奴(ウェノム)を追い出したのに、また奴らが来るのがうれしいのか」
 軽蔑の表情をあらわにして金錫源が反駁した。
「何をいうかァ。かれらは同胞だぞ」
 錫元はこれほど激昂した金錫源をみたことがない。戦場での叱咤とはまったく異質な声であった。

 中国軍出身の金弘壹は、仕方のないことではあろうが、日本軍とその関係者を忌みきらっていた。
 また金錫源のほうでも、戦況が劣勢なのは、「スケソウダラ事件」のように高級将官が現場をないがしろにして、なんの備えもしていなかったせいだというおもいがある。しぜん、両者はそりがあわない。それがここで爆発したといっていい。
 韓国軍には日本軍、満州軍、中国軍、光復軍出身者がまじり複雑な人間関係があった。前面に敵をかかえる戦時下ではそれが露出することはすくなかったが、まれにこのような事件がおこった。
 出身母体の文化のちがいも摩擦の原因ではあっただろう。たとえば金錫源はしきりに死守を主張し、大声をはりあげた。かれにしてみれば敵軍に圧倒されっぱなしの自軍を奮いたたせるためにはそういう気概が必要だということでいわば気合をかけているのであるが、日本軍出身でない将官からみれば、たんなる粗暴にみえてしまう。
 安東撤退時の金錫源と金白一の感情的な衝突も、そういったところに遠因があったようにもおもわれる。

 しかし、金弘壹のうかつさは、その場に在外同胞の軍人がいることを忘れていたことであった。
 米軍第七師団、第三十一連隊の第一大隊長であるヨンオック・キム大尉である。かれは朝鮮系米国人である。
 とはいえ、第二次大戦中には日系人部隊に属して欧州戦線を戦ったというからややこしい。
 朝鮮半島からの移民二世でロサンゼルス出身のかれは、徴兵されたのち、優秀であったため士官学校にすすんだ。陸軍省はかれを朝鮮系ではなく日系だとかんちがいして、日系人部隊である第百大隊に配属した。
 さすがに大隊長はまちがいに気づいた。
「希望するなら、他部隊への転出を手配する」
 大隊長のことばにキムは首を横にふった。そのままとどまって小隊を率いることになった。

 なぜキムが日系人部隊にとどまったのか、よくわからない。単に日本人を憎んでいなかったというだけの話だったかもしれない。あるいは、朝鮮人であれ日本人であれ、白色人種から差別を受けることにかわりはなく、有色人種なかまである日本人に対してわだかまりをもたなかったのかもしれない。
 キムは冷静な判断力と厳しさをもつ小隊長であり、兵卒の信頼もあつかった。キムのもらった数多い勲章のひとつである柏葉飾付殊勲戦傷章は、二度以上の戦傷を経験したものしかゆるされないものであり、金錫源とおなじく、つねに先頭にたって小隊を引っぱっていたことをものがたっている。

 経歴とそのひととなりをみると、キム大尉はなにやら金錫源に似ているようにもおもえる。
 かれらはおかれている状況で、軍人として最善をつくしつづけた。理由はどうあれ、プロフェッショナルとして理想の軍人を体現しつづけたといっていい。
 第二次世界大戦の終戦後、キムは退役してロスで洗濯屋を経営していたが、朝鮮戦争勃発にともない再召集を受けて参戦した。このあたりも金錫源に似てはいる。
 かれは米軍七師団三十一連隊第一大隊長として中部戦線で戦いつづけ、このときもやはり前線にたって指揮しつづけた。
 なお、キムは、第二次大戦では、先にあげた柏葉飾付殊勲戦傷章のほかに、特別戦功十字章、銀星章などを受けており、朝鮮戦争でも特別戦功十字章を受けた。この点でも、稀有の金鵄勲章功三級を受けた金錫源と似ている。

 話を戻す。
 金弘壹少将は、キム大尉がその場にいるにもかかわらず、うかつにも在外同胞を同胞としてみとめないような発言をした。いわばキム大尉の面を逆なでしたといってもいい。
 が、キム大尉は顔色ひとつかえなかった。
 このあたりも真の軍人であるゆえんであるといっていい。錫元は息をのんでかれの顔をみた。
 それはともかく、申性模国防部長官が金少将と金錫源准将のあいだに入ってその場をどうにかおさめた。

 キム大尉は前線に立ちつづけたため、しぜん錫元や金錫源とも多少の接触がある。
「かれこそ真の軍人だ」
 金錫源はそれだけをいった。いたずらにことばを重ねる必要がなかったのであろう。

 北朝鮮軍は投網を打つように三方から包囲網をちぢめてきた。
 釜山を中心にして円をかくと、東から反時計回りに、浦項、新寧、多富洞、倭館、玄風、馬山とほぼ洛東江にそった線ができる。韓米軍はその円周上に防御線をひいて、司令部を大邱におき、予備兵力を敵の攻撃が集中してきた地点にそのつど派遣する機動防御に徹している。いわゆる「釜山橋頭堡」である。
 米軍を主力とする国連軍はすこしずつ増援されてきた。だが兵力の逐次投入という愚をさけるためそれらを釜山にとどめ、戦略的に時間をかせぎつつ大兵力がたまるのを待つしかない。
 国連軍の総司令官はダグラス・マッカーサー元帥である。
「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか」
 その名を聞いたとき、金錫源は哄笑した。
「よろしい。日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、存分にみせつけてやろう」
 そして韓国人のど根性もだ、そういって軍刀の柄をたたいた金錫源の顔には、軍人というより野武士のような不敵な笑みがうかんでいた。

 日本軍といえば、金錫源が右腕とたのむ参謀長崔慶禄大佐も日本軍出身である。
 本来は志願兵であり、陸軍士官学校に合格したときに所属部隊のニューギニア出征が決まった。
「陸士にいってしまえば、戦場に出る機会を逸するかもしれない」
 といって、入学を辞退してそのまま出征し、ニューギニア戦線で三度にわたって斬りこみ隊を率いて突撃して、ついに重傷をおって後送された猛将であった。
 金錫源は、首都師団長就任にあたってかれを参謀長に要望した。金にあこがれて陸士をめざしたというかれは、指名されてその配下にくわわることができたのを望外のよろこびとしていた。

 いま、金錫源は首都師団ではなく、再編された第三師団を率いて東部戦線の盈徳で抗戦をつづけている。
 盈徳は浦項の北にあり日本海に面した要地である。釜山を包囲する場合、その二ヶ所をおさえておかないと背後をおびやかされる。海岸沿いに進撃してきた北朝鮮軍は盈徳と浦項に同時に襲いかかった。
 韓国軍にとっては、浦項を陥とされれば洛東江の防御線の裏側へまわられてしまうどころか、いっきに釜山をつかれることになる。釜山を守るためにも浦項をうしなうわけにはいかなかった。そして、盈徳では浦項への攻撃を遅滞させるため抗戦しつづける必要があった。
 円形陣による機動防御については先にふれた。だが盈徳と浦項は東海岸にあり、援軍を派遣するには遠い。そして、盈徳をまもる第三師団と浦項をまもる首都師団は北朝鮮軍に包囲され孤立した。
 金錫源は課せられた戦略的目標にたいして期待以上にこたえた。銃弾が飛びかうなかで、日本刀をかざして陣頭に立ち、敵軍を睥睨するすがたは兵の士気を高めた。
(これがほんとうの軍人だ)
 つきしたがう錫元は身ぶるいした。小さいころ金村の故老から聞いた立見尚文中将、黒木為和臂らの雄姿をおもいおこした。

 この間、マッカーサーは動かない。
 国連軍は、釜山にあってひたすら守勢に徹している。
「いったい何をしているんでしょうか」
 錫元の問いには焦燥のひびきがある。第三師団が浦項で敵をふせぎつづけ、釜山を守っているのに、なぜ攻勢に転じないのか。
「あの男は待っている」
 金錫源は顔色もかえずそれだけをいい、答えようとしなかった。
 錫元が後から考えるに、どうやら北朝鮮軍の疲労と仁川上陸作戦の実行時期を待っているのをさしていたらしい。戦後になって事情をきいたとき、
「それをいえば、わが心がゆるむ」
 指揮官の心がゆるめば、その安堵感が兵に伝染し、わが軍だけで守りきるという決意がくずれる。それがいやだったのだ、といった。
 かれはそういう男であった。

 そのころマッカーサーは仁川上陸作戦を決心し、準備をすすめていた。
 だが、反対も多かった。技術的にも困難であるということも指摘された。仁川には海浜がなく、2時間しかない満潮時にせまい水道をとおって港に接岸して上陸するしかない。
 さらに、仁川への上陸は兵力の分散をまねく。釜山橋頭堡が弱体化すれば意味がない、という意見もあった。またワシントンでは、
「めだちたがり屋の大ばくち」
 とまで酷評するものもいた。
 たしかに、これほどひとびとの耳目をおどろかす派手な作戦はない。
 しかも技術的なむずかしさもあって、うまくいかなければマッカーサーとその麾下は仁川港外のもくずと消える公算がきわめて高いのである。「大ばくち」という非難もあながち的はずれなものではない。
 しかしマッカーサーはあえてこの作戦を採用した。ひとつには、敵軍ののびきった補給線を分断し、前線の北朝鮮軍を孤立させて包囲殲滅する、という戦略的なねらいである。
 また、首都ソウルを劇的な作戦で奪回することによって、韓国民の士気をたかめ、戦況が好転したことを全世界にアピールする、という政治的、心理的なねらいもあった。

 どうやらマッカーサーは早くからこの作戦を考えていたらしい。
 かれの回顧録によると、ソウル陥落直後、前線視察のためおとずれたソウル南郊外の永登浦に立ったとき、天啓のようにひらめいたという。
 さらにその日の夜、水原の宿舎で読んだ書物の記述――二百年前、カナダ・ケベックで英軍がローレンス河をさかのぼって仏軍の背後を急襲、大勝した――によって作戦の有効性をあらためて認識したという。
 ともかく、仁川上陸を成功させるためには入念な準備が必要である。
 敵情観測のため仁川に諜報員を送りこみ、接岸上陸に必要なアルミ製はしご六〇台を大阪の企業に発注し、仁川上陸作戦は偽報であるという情報をながすなど、国連軍総司令部は多忙をきわめた。

 

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ベッキー「さて、朝鮮戦争のつづきだ」

じじぃ「今回は、『坂の上の雲』の元ネタ文章はなしじゃ」

芹沢「このヨンオック・キム大尉ってのは実在の人物か?」

ベッキー「ああ。2005年秋に亡くなったがな。本文にあるように数奇な軍歴を持っている」」

2006年12月15日追加

韓国系戦争英雄キム・ヨンオック氏死亡

 韓国系戦争英雄であるキム・ヨンオック(写真)米陸軍予備役大領が29日(現地時間)持病で亡くなった。享年86歳。

 日系教育財団「Go for Broke」は、膀胱がんで何度も手術受けるなどがんとの闘病生活をしてきたキム大領がこの日の夜10時40分ごろロサンゼルス市シダースサイナイ医療センターで亡くなったと発表した。

 キム大領は第2次世界大戦当時、欧州戦線で有色人米国将校として旺盛に活躍、1945年イタリア政府から最高武功勲章を、1950年フランス政府から十字武功勲章を受けたのに続いて、今年2月にはフランス国家最高勲章であるレジオン・ド・ヌール(Lerion d’Honneur)武功勲章も受賞した伝説的な戦争の英雄だ。

 第2次大戦後、ロサンゼルスでしばらくランドリーを運営した彼は、韓国戦争が勃発すると再入隊し、米陸軍7師団31連隊1大隊長として中部戦線から前線を約60キロ北上させるなど、輝かしい功労を残した。

 キム大領は戦後、多くの韓人団体の胎動にかかわり、日系教育財団「Go for Broke」の設立にも寄与するなど米国内で少数弱者たちの権益を増やすのに一生を捧げてきた。

 彼は10月、韓国戦争当時の功労を認められ、一歩遅れて韓国政府から武功勲章の中の最高等級である太極武功勲章が授与されることが決まり、国防部は彼の一代記をつづった「英雄キム・ヨンオック」を陣中文庫で普及する問題を検討している。

2006年1月1日付 中央日報


くるみ「金弘壹少将ってほんとにこんな発言をしたの?」

ちよ「児島襄『朝鮮戦争』が元ネタです。原文の「日本人を追い出した」を「倭奴を追い出した」に換えました」

ベッキー「ヨンオック・キム大尉を出してほしいというリクエストがあったもんでな、その差別的発言(?)にからめるかたちでキム大尉の出番をもってきたんだ。
 ま、この時期、彼がその場所にいたというのは脚色だ。ぶっちゃけた話、本人どころか所属部隊もまだ朝鮮半島にいなかっただろう」

芹沢「おいおい」

ちよ「この時期までに蔡秉徳参謀総長は解任されて(大田陥落時に戦死)、丁一権が就任しました。蔡も丁も日本の陸士出身なので二人とも白善・金白一と同様に『親日派リスト』入りしちゃいました」

くるみ「『親日派』狩りのあほらしさはともかく、朝鮮戦争での功績をもって罪と相殺だというような発想はないの?」

ベッキー「現在の自分たちがホルホルするためには、現実であろうが歴史であろうが、はたまた何者であろうが、間違ったものと決め付けて正しさを誇ろうとする連中だ。長い目で見た場合の矛盾や得失なんて考えもしない。そんな奴らに方便的な曲芸は期待しないほうがいいな」

くるみ「ベッキー、厳しいわね」

一条さん「まるでアメリカ人みたいです」

ベッキー「……」

ちよ「参謀長の崔慶禄大佐も日本軍出身ですね」

ベッキー「支那戦線での金錫源の活躍に感動して兵役に志願したらしいな。朝鮮戦争開戦とともに金錫源が現役に復帰したとき、金錫源に要望されて参謀長になった。戦中、憲兵司令官に転じ、軍幹部による大規模な汚職横領事件である国民防衛軍事件を摘発した。国民防衛軍事件についてはいずれやる」

ちよ「戦後は、政治家として外交畑をすすみ、駐日大使にもなりました。机には日本軍時代引き立ててくれた上官小野少将の写真を飾っていたといいます」

じじぃ「そんな彼の発言を紹介するぞい」

 自分は韓国を愛するがゆえに親日である。

 私は幸運にも陸軍時代、よい上官に恵まれた。それは小野少将(戦死後大佐から少将)ばかりではなかった。
 朝鮮軍司令部の最後の参謀長であった井原潤次郎中隊長にもかわいがられた。馬奈木敬信連隊長(陸士二十八期)、松田靖彦中隊長も視野が広く、日韓関係を深く理解しておられた。私もこういう指揮官になりたいと憧れていた。も視野が広く、日韓関係を深く理解しておられた。私もこういう指揮官になりたいと憧れていた。しかしこれらの人々はすべて亡くなられて今会うことはできない。何としても残念だ。

『日韓共鳴二千年史』名越二荒之助編著


 戦前の日本人には信頼できる立派な人々が多かった。それに対して現在の日本の政治家は周囲に気兼ねしてか、正直に本当のことを言う人が皆無に近い。
 私がもし日本の首相だったら、一日でよい。洗いざらい本当のことを発言してみたい。それでやめさせられたら本望だし、それによって日本国民の目は覚め日本は本来の姿にたちかえるに違いない。

1988年1月11日産経新聞


ちよ「このような発言のため、帰国後は『親日派』として糾弾され、2002年ひっそりと死去されたそうです」

くるみ「金錫源が陣頭で日本刀を振りかざして退かなかったのは事実ね」

芹沢「作者のイメージ的には金錫源=立見中将、黒木為和臂なんだな。『坂の上の雲』に準拠した上のことだけど」

ベッキー「さて、次回は立見中将を元ネタに脳内火葬戦記の始まりだ」

芹沢「なにをやらかすつもりだ?」

  

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